読書日記 01「全部を賭けない恋がはじまれば」
"どこまでも逃げる人生って、悪くない。途中で何か幸せなものに引っかかるはずだから。いい思いをしながら停止することがあるから。
そのループの中で、ずっと生きていって。"
「全部を賭けない恋がはじまれば」稲田万里
全速力で走りだす、あの感じ。滑り出す、魂が吸い寄せられる、引っ張られる、引力を感じる。林檎がすとんと落ちる身軽さで、心が持っていかれる。ここにいるのに、あちらにいる。そんな風になってしまったらもう止まらないから、その手前で留める。ストップ。もうこの先には行かないよ。大人になれば、そうやって対処することができる。そう、信じている。
"全部を賭けない恋愛がはじまればいいな。"
主人公は意気揚々とそう呟いて恋をする。恋とも言えぬもっと軽やかな恋である。全部を賭けないから、許すのは体のみだ。物理的なものはいい。目に見えるから単純明快であるし、これ以上進めないと分かれば、そう、物理的に離れればいいのである。さようならの言葉もなくて人が人と別れられることを知ったのは、いったいいくつになったときだったろう。とにかく、いまはそのことを知っている。
そして、その「全部」が意味するもの。ものすごく曖昧で、とてつもなく大きい、「全部」。それはおはようと言い合う日常や、不意のささやき声や目をとじたときに映る残像、離れた掌、絶え間ない諍いやいまも残る笑い声。夕暮れに迷い込んだ路地、雑踏の中降り立って見つけた灰色のビル、あの人の頬をなぜる夏の夜の生ぬるい風。それらが埋めていく記憶を携えて、そうして降り積もるように営まれていく時間。全部。すべて。与えながらに与えられて取り返しのつかない新しい人間に塗り替えられていく、気づいたときにはもう遅い、スピードとその過程。
そんな日々を送ることを自分に許すということは当然恐ろしい。賭ける、とは一か八かの博打なのだから、幸福か不幸かのコントラストが激しいのだ。あると思っていたもの、あるいは夢見ていたものがなくなった瞬間に、もう一度とそれらを渇望して、泣いて泣いて憎んで諦めて、そうしてどうにか一歩を踏み出す。でももう、それだけの労力は自分には残っていないと皆悟っている。あなたが15歳であれ、29歳であれ。
そんな風にして生きてきて、この作品の主人公はたまたま遭遇した見知らぬ人にこう言われる。
"なんか、消化不良の顔してるから。いつも逃げてそう。"
すべてを賭けないから、彼女はきっと本当に欲しいものは得られない。それは自然の法則に則った当然の帰結である。
欲しいものに似た何かで埋める日々は、きっとわたしたちをそんな空虚な顔をさせる。そんなことはわかっているのに。
本当は賭けたい、でも賭けたくない。愛したい、愛したくない。
ピンヒールで、どこまで続くのかわからない日々を綱渡りの調子で生きる。ちょっとだけ勇気を出して伸ばした右足を、翌日には慌てて引っ込めてみたりして。
でも逃げている自分を自覚しながら生きる日々も悪くはない。
人生の一々に、真っ向からぶつかっていては生き延びることはできないのだから。きっとそれは我々の遺伝子に組み込まれた生存本能だ。そう、生きるためのせいにして。
そうして生き延びて、時々手に入った奇跡の瞬間を、もう二度と味わうことのできない幸福かもとそっと大事に握りしめる。愛なのかも、と思いながら期待しながら、冷静になれと自分を抑えながら。
わたしはそんな人間の弱さが繊細さが好きだ。純粋さと狡猾さが絡み合ってどうにもならなくなっている人の顔は美しい。
誰だって皆、人には言えない荷物を抱えてそういうふうに戦っているものでしょう?
あなたは、わたしはいま、どんな顔をして生きているのだろうか。
2023.10.19