「形あるものは」―三日月と鶴丸


先月だったか、葵咲本紀のCDが発売されましたね。で、ミュ鶴の二部ソロ曲に二番があることと、その歌詞が意味深であることについて、TLがにぎわっていました。

誰に向かって歌っているのか、「キミ(カタカナ)」とは、「失った(契りかわした)友」とは。

さまざまに考察されていましたが、公式が何も言わない以上、正解は無いわけです。いや、受け取り手の数だけ解はある、とも言えます。

自分としては、「友」は鶴丸のかつての主の誰か、あるいは主たち。「キミ」は審神者かなあと思ったのですが、ひょっとすると三日月かもしれない。刀ミュ本丸の審神者だったら、カタカナ表記にはしないような気もします。

さて、みかつる(つるみか)の民がもっとも反応したのは、「形あるものは 消えゆくことと 隣り合わせだから」という一節でした。

私はもともとBL畑の育ちなので、みかつるもつるみかも嗜みます。(推しカプは、くりつる)

ですが、三日月の刀剣破壊ヴォイスと、鶴丸ソロ曲の歌詞が被っている、匂わせだというのは、ちょっと違うんじゃないかなあと思いました。

三日月の破壊ヴォイスは「形あるものはいつかは壊れる。それが今日だっただけのこと」だそうです。(まだ一振も破壊していないので伝聞)

確かに、字面ばかりか思想も似通っていますね。それでも、これをみかつる匂わせだと思わないのは、被ってあたりまえだからなのです。

三日月も鶴丸も、平安時代の刀です。平安時代中期から鎌倉時代にかけて、教養ある階級に広まっていた思想は「無常観」というものでした。「この世に、永遠不変のものなどない」「生まれてきたものは必ず滅する」「現世は夢まぼろし」…。

もちろん、その日その日を生きるのに精いっぱいの庶民階級は、「無常もへったくれもあるか」だったでしょう。ですが、三日月・鶴丸は、貴族や、彼らを守る武人の持ち物でした。顕現したときの美々しい戦装束を見ても、彼らが教養ゆたかな上流階級に属するものであることは明白です。そんな彼らが、「無常観」に触れていないはずはない。

ほぼ同じ時代に、同じような階層に所有されていた二振が、似たような言葉を口にするのは当然のことなのでした。

とはいえ、刀ミュがこの二振には特別な縁があると考えていることは、間違いありません。パライソで、さらにそこが掘り下げられるところだったのに。来年の秋までお預けとは…。大演練を、合同の「疫病退散神事」にしてはいかがでしょうか?



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