是枝監督の「誰もしらない」を観た
柳楽君がカンヌで賞を取った、後か先かは知らないが、自然体な柳楽君の演技力が光る。
物語の結末は、この映画が題材とした事件とは異なるが、映画らしい結末ではある。
是枝監督は優れた表現力でこの映画をえがいているが、この映画を観て、小栗康平監督の偉大さを痛感した。
表現がやはり、違う。映画としてのもののとらえが違う。
映画は、一つの虚像表現であるから、当然好き嫌いがはっきりあるのは、当たり前である。
小栗康平監督とお会いできなくなってから、「FUJITA」の券売を手伝って以来、お会いすることがなくなった。
群馬県前橋市を代表するカンヌ映画祭の顔であったが、その繊細な表現はどうしても、映り込むもののすべてにこだわりがあり、とてつもない資金と時間と労力が必要なのを、今の日本映画界は嫌い、新作を観ることがなくなった。群馬県前橋市は宝を失い、県庁所在地なのに、シネコン以外は、偏った美術系か上映に金のかからない版権の切れたような映画を公共施設で上映しているだけのチープな街と化していると感じているのは私だけか?
美術や芸術や技術系のマイスターが尊敬されたり、資金を提供されない、すぐに受けることが、もてはやされるこの国、日本ではもったいない人物がゴマンといるのだろう。
小栗康平監督は、今も栃木県真岡市にいるのだろうか?