これからも 言うよ クリティカルシンキング…と
新聞というものは、多かれ少なかれ記事内容を捏造したり思想が偏ったりしているものだから、新聞の名だけで差別したり、偏見意識を持つことはやめにした。諦めの境地では断じてない。新聞という存在を前向きに考えようとした結果である。むしろこの新聞は比較的不祥事が少ないから、とか、真ん中寄りだから、などと勝手に思い込む方が危険だと最近気づいたのだ。周りが信用出来ない分、その中にマシなのがいるとそいつを信用してしまう。詐欺の常套手段だ。相手にその気がないのがまたタチが悪い。
偏った報道ではないか? それとなくそちら側へと誘導しようとしてないか? 常に疑ってかかることは非常に大切だ。一般的にはクリティカルシンキングとも言われる。昔は語感が好きクリティカルシンキング、クリティカルシンキングと毎秒のように言っていたが、長いのと、クリティカルという形容詞がアクションゲームっぽくて何だかダサいなと思い始めたので(アクションゲームの中では輝く形容詞であったとしても、その後に続くのがシンキングとあっては、あまりワクワクしないなということ。個人の感想)、最近では方法的懐疑と言うようにしている。クリティカルシンキングと比べて二文字も節約できるし、何より「懐疑」って漢字で書くとなんかカッコイイ。
…いや待てよ。私は先程、クリティカルシンキングを方法的懐疑と言い換えることで(実際の両者の意味合いはまったく違う。何より後者は哲学用語だ)、二文字節約できると言った。二文字節約? 一文字の間違いでは。ィは、ィ単体では文字的市民権を得ていないのだ。文字的市民権などという言葉はもちろん世界中どこを探しても存在はしないが、文字的市民権としか言いようがなかったのでこの造語を使う。促音便をご存知だろうか。言うなれば小さい「つ」である。「っ」これ。古語から成り立ちを調べると非情にわかりやすい。「待ちて」を「待って」、「走りて」を「走って」。わかりやすい。つまり待ちての場合ちをそのままっに、走りての場合りをそのままっに置き換えている。「っ」は、一文字分をそのまま継承した。文字的市民権が見事与えられ、促音便などという仰々しい名称まで与った。「っ」のほくそ笑む姿が目に浮かぶ。俺は文字的市民権を獲得した上に名前まで特別に付けられ、辞書にも教科書にも載っているんだぞ。義務教育で国民は必ず俺のことを習うんだぜ。くくく。おそらく隣には撥音便くんもいて、ふたりは悪友に違いない。
彼らのいじめの標的はもちろんご存知、「拗音」だ。拗音を知らない? そんな馬鹿な。ようおん、と読む。言うなれば小さい「い」や「や」… のことを指す場合もあるらしいが、大体はそうでなく、例えば「てぃ」ならこの「て」もセットでやっと拗音として成り立つ。「ぃ」だけでは拗音とは言えない。つまりこの「ぃ」は名もなき「ぃ」であり、付属品でしかなく、「て」の力を借りなければ存在すら危うい。「て」にくっついて拗音という名前を与っても、促音便や発音ほど重要視されず、教科書には大々的に載らない。知名度も抜群に低い。なんとも不憫な奴らだ。しかも大勢いる。お前ら拗音との立場の違いをわからせてやろうか、と促音便。そうだそうだ、と撥音便。俳句や川柳を考えてみろ。俺たち促音便や撥音便は立派に一文字として数えられるが、拗音はそうではない! 一文字としてカウントされない時点で、お前らは文字的市民権は得ていないんだよ! と促音便。そうだそうだ、と撥音便。すすり泣く拗音らに私は、ただ彼らの傍に寄り添ってやることしかできないだろう。でもお前らがいないと日本語は到底成り立たないよ、と。さっきだって私は、拗音のことを一文字でカウントしそうになった。それぐらい存在感があるということではないか。そう言って肩を抱いたところで、拗音が呟く。じゃあこれからもクリティカルシンキングって言葉を使ってよ。折角拗音が入ってるんだ。方法的懐疑だなんて難しい言葉を使わないでさ。すると私は優しくこう返す。確かに、二文字しか変わらないもんね。拗音が少し驚いたような表情を浮かべたあとで、にっこりと笑った。小さい声で何かを言ったが、よく分からなかった。その唇は、「ありがとう」と言った気がした。
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