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グラニュレーション 1話


あらすじ
荷堂愛佳は若手の水彩画家。ギャラリーの裏にアトリエを構え、住んでいる。ある日、ギャラリーに雇われた真中龍史と出会う。愛佳は恋愛が出来ないこと、真中は恋愛対象に性別を問わないが故に傷ついていた。愛佳は「真中に本当に好きな人が出来るまで」「愛佳に恋愛感情を持ってはいけない」という条件で偽装恋人を提案する。真中はその条件を飲み、二人は偽装恋人になる。周囲に付き合っていることを印象づけるために、一緒にいることが増えていく二人。はじめは、ぎこちない雰囲気だったが、隣にいることが自然になっていく。しかし、互いを知るうちに、愛佳はこの関係が、真中を縛りつけていることに罪悪感を感じるようになっていく。

「墨を滲ませたような空」
 ギャラリーの裏に建っているアトリエの窓から、愛佳まなかは独りごつ。

 出版社から依頼されたカバー絵を描くために、ゲラにパラパラと目を通す。内容は若い男女が出会い恋に落ちる、ありきたりな恋愛小説だ。愛佳は本を閉じると、深く溜息を吐いた。

 あれでもない、これでもないと、クロッキー帳にラフを描き殴る。何とか形になったところで、下絵を描く。前日にパネルに水張りしておいた水彩紙を作業机に置き、下絵を写す。あらかじめパレットに置いておいた透明水彩絵の具を水で溶き、ウォッシュした時だった。意図しないところに、絵の具の染みが出来てしまった。

「ウソ……この水彩紙、風邪ひいてる」
 
 水彩紙の風邪とは、湿気によって滲みどめ加工が劣化したことをいう。描き写した下絵だって、納得がいくものではなかった。愛佳はパネルの紙をビリビリと剥がすと、破られた紙の上に顔を突っ伏した。
 しばらくして顔を上げると、壁にかけられた油彩画を恨めしそうに睨んだ。油彩画の中の、ブレザーを着た女子学生は穏やかに微笑んでいる。

 バケツの水の中に、黒い墨を落としたような気分が、愛佳の心を支配していく。
「分からない、分からないわ……」
 こんな状態では、良い絵など描けるわけがない。愛佳は諦めて、セッティングしていた画材を片付けた。

 生活スペースの扉を開けると、愛佳の愛犬の黒柴が千切れんばかりに尾を振っていた。
柴三郎しばさぶろうさん、散歩に行くよ」
 柴三郎はワンと吠え、喜びのあまりクルクル同じところで回った。

 赤い首輪にリードを着け、アトリエを出ると、柴三郎は下り坂を力強く歩いて行く。愛佳もつられて早歩きになる。運動不足になりがちな職業柄、柴三郎の存在は、愛佳の健康維持を担っていた。
 近所の女子高の生徒が、小鳥が歌うようにお喋りしながら帰っていく。彼女たちの区別がつかないほど、まとう雰囲気はそっくりだ。彼女たちからは、すれ違っている愛佳は認識すらされていないだろう。
 坂を下りきると、大きな池のある公園に着く。いつもなら、池の前にあるベンチで、愛佳は休憩をとるのだった。

 しかし、今日は先客がいた。ベンチで眠りに落ちている若者がいたのだ。色白で中性的な顔立ちのその若者は、眠り姫のように時を止めているようだった。

 この人、大丈夫だろうか?酔っぱらい?それにしては顔は赤くない。具合が悪いのだろうか。救急車を呼ぼうか?でも、勘違いだったらどうしよう。雨も降りそうだし、どうしたら良いのだろう。
 愛佳が対応に困っていると、柴三郎が若者のお腹の上に乗りかかり、顔をペロペロとなめ始めた。

「うわっ!」
 驚いて声を上げた若者の声を聞いた柴三郎は、ヒョイと若者の体から降りた。見開いた目は大きく、声は女性にしては低かった。

「ご、ごめんなさい。うちのコがご迷惑をおかけして」
 愛佳は深々と頭を下げて謝罪した。
「いえ、こんなところで寝ていた僕が悪いんです。むしろ、ワンちゃんには起こしてくれて良かったです」
 若者は体を起こすと、目を細め、柴三郎の頭を優しく撫でた。柴三郎は嬉しそうに尾を振っている。

 「僕」ということは男の人なのかと、一瞬愛佳は身構えた。しかし、若者の屈託のない笑顔と、警戒心の強い犬種の柴三郎が懐いているのを見ているうちに、緊張が和らいできた。

「……あの、どうしてこんなところで寝ていたのですか?」
 愛佳は気になっていたことを切り出した。
「空を見ていたんです。ずっと眺めているうちに寝落ちしていました」
 若者の目線が空に行く。愛佳も自然と空を見上げた。アトリエの窓から空を眺めている時、彼も同じ空を眺めていたと思うと、偶然もあるものだと思うのであった。

 若者の着ていた薄手のロングカーディガンのポケットの中から、スマホのアラームが鳴った。
「あっ、これから人と会う約束をしているんだった!本当に起こしてくれてありがとうございました」
 そう言うと、若者は大急ぎで去っていった。

 若者と入れ替わるように、ポツポツと雨が降り出した。愛佳は雨具を持ってきていなかった。
「本降りになる前に帰ろう、柴三郎さん」
 愛佳は公園からの上り坂を、息を切らしながら早足で帰っていった。

 アトリエに帰る頃には、雨脚が強くなっていた。愛佳も柴三郎もずぶ濡れになった。
「柴三郎さん、濡れちゃったね〜!」
 愛佳は濡れた服を着替え、自分の髪を適当に拭いたタオルを肩にそのままかけた。柴三郎をタオルで拭き、ドライヤーで丁寧に乾かしていると、若者が雨で濡れなかったか心配になった。一度きりの縁、本人の確認はとれない。

「あの人不思議な雰囲気だったね、柴三郎さん」
 愛佳に相槌を打つように、「クゥン」と鳴く柴三郎。被毛が乾ききると、定位置の犬用クッションの上でくつろぎ始めた。

 青空ではなく、雨が降り出しそうな曇り空をベンチで寝そべって眺める人。もう会うことはないと思いながらも、愛佳の中で印象が刻まれていた。


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