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【コラボ小説】ただよふ 10(「澪標」より)


鈴木みおさん。
あなたは僕…海宝こうの事を芯の通った人間だと思っていたみたいだけど、あなたの方がよほど芯の通った人間だった。

あなたはあの後すぐに、僕の為にきっぱりとアロマを焚くのをやめ、エルバヴェール香水もつけなくなったと言っていた。
僕はあなたのプライベートの大切な時間を奪ってしまった。

だけど、僕には懸念があった。
我慢に我慢を重ねたら、あなたも妻みたいに壊れてしまうかもしれない。

そこで、僕はあなたに贈り物をする事にした。

妻と息子が大阪に里帰りする週末、外出しないかとあなたを誘った。
妻には、空き家になっている新潟の祖父母の家のメンテナンスに行くと言っておいた。

あなたとは千代田線の根津駅で待ち合わせた。僕は、黒縁眼鏡、濃紺のパーカーにベージュのチノパン、黒いスニーカーというカジュアルないでたちであなたの前に現れた。
あなたは普段着を物珍しいものを見たようにじっと眺めていた。

あなたは、草木で染めたようなグリーンのワンピースにオフホワイトの薄手のパーカーを羽織っていた。
谷根千の下町の雰囲気にも合っていて、写真に撮りたくなったが、万が一覗かれた時の言い訳が思い浮かばないので、しっかり目に焼き付けた。

元号が平成から令和に変わったばかりで、僕たちだけでなく、街中が新しい時代の到来に浮かれているように見えた。

僕は駅から数分のうどん屋にあなたを案内した。
開店前なのに、既に行列ができる程の人気店である。
明治期に建てられた煉瓦造りの石倉を改装した建物で、隈健吾氏の設計でいまの姿になった。
下町の景観に違和感なく溶け込む姿に魅かれたあなたは、思わずスマホカメラで撮影していた。
僕は、そんなあなたを眉尻を下げて見ていた。

通された席から、立派な日本庭園が眺められた。
「隣に見える老人ホームも隈氏の設計なんですよ。」とあなたに教えたら、あなたは興味深げに建物を見つめていた。

僕の勧めで、あなたは釜揚げうどんを注文した。
うどんは注文を受けてから切るようで、厨房から豪快な包丁の音が聞こえてきた。

「これをあなたにと思って……」
僕があなたに贈ったのは、僕が普段つけているサムライ アクアクルーズのオードトワレだった。
海を思わせるターコイズブルーが底部から上に向かってグラデーションのように薄くなっていく瓶に、窓から注ぐ光が反射した。

「あなたに香りを楽しむのを止めさせてしまったことが、気になっていたんです……。僕と同じ香りなら、問題ないでしょう。女性がつけてもいい香りだと聞きました」

あなたから笑いがこみ上げてきた。
「実は私、同じものを買ってしまったんです。毎晩、枕にほんの少し垂らして眠っています」
「なんだ、そうだったの。ここまで気が合うと何だか窮屈だね」
そうぼやきながらも、僕は嬉しかった。

「それなら、あなたの買ったものを僕にくれませんか。そうすれば、無駄にならないでしょう」
「わかりました、そうします」
テーブルに差す初夏の日が、ダンスをしているように揺らめいていた。

うどんが出てくる前に、店員が徳利からつゆを注いでくれて、鰹だしの優しい香りが鼻をくすぐった。
こしのしっかりした釜揚げうどんは、絶妙な温かさのつゆによくなじんだ。
つゆが減ると店員が絶妙のタイミングで注ぎ足してくれた。
用意されたねぎ、揚げ玉、七味などの薬味を自分の好みに合わせて入れられるのが嬉しかった。

うどんがお腹に収まった頃、あなたの表情は幸福感で満たされていた。
僕は、「きっと気に入ってくれると思いました」と相好をくずした。

うどん屋を出た後、気になった店をのぞきながら、賑わう谷中銀座をぶらぶら歩き、谷中霊園に足を向けた。

あなたとゆっくり時間をかけて霊園を散策した。
他愛のない話をしながら、墓地のなかを歩き、著名人の墓を探すのは楽しかった。
時折訪れる会話の途切れは気にならず、その間さえも心地よく感じた。
墓石の上や周囲に、愛らしい野良猫が見え隠れし、猫好きの2人を和ませた。
木々に青々と茂る若葉の匂いに、あなたと一緒に仕事をして、1年以上経ったことを実感した。

「余裕をなくしていたとき、よく1人で墓地を歩きました」
僕は、それがいつのことだったのかあえて明言せずに話し出した。

「義務に追われて、ぼろぼろで、いつまでこれが続くのか先が見えない。そんなとき、あの世とこの世にいる者が一番近づく場所に魅かれたんです。死が自分を解放してくれるのかわからない、それでもすべてを投げ出したくなることもあったんです」

投げ出さなかったのは、皮肉にも働き盛りで亡くなった父のお陰だった。
残された息子の一生に暗い影を落としてしまう事を、僕は身をもって知っていた。

「あなたは、決してそれを許さない人だから……。きっと、死んでも苦しみから解放されないでしょう」
僕はあなたを振り返り、自嘲気味に笑った。

痩せた茶トラ猫が、僕の足元にまとわりついてきた。
「ごめんな、何も持っていないんだ」と、しゃがみこんで猫の喉を撫でた。
猫は僕が手を止めると、近くの水たまりの水をぺちゃぺちゃ飲んで去っていった。
僕は、しばらく猫を目で追ってから立ち上がった。

墓地を抜けた頃、「夕食をどうしますか」とあなたに尋ねた。
「よかったら、うちで食べませんか? うちは綾瀬だし、ここから近いでしょう。昨日、かれいを買ったんです。煮魚にしようと思っていました」
「いいんですか?」
「もちろんです。買い物をしてから帰りましょう」
あなたは僕の背中を押し、朗らかな足取りで歩いた。

駅前のイトーヨーカドーで、食材、僕の部屋着と日用品を買い、アパートにお邪魔した。
あなたの部屋に行くのは、あの送別会の夜以来だった。

煮魚の味付けをする私の横で、僕はあなたに借りた緑色のエプロンをかけ、味噌汁の具にする玉葱とじゃがいもを刻むのを手伝った。

「包丁使い、上手ですね」
「よくやるからね」

僕は幼い頃から母の手伝いをしていた。
父は船乗りの子は一通り炊事や掃除は出来た方が良いという方針だった。
本格的に料理を始めたのは、妻が病気になってからだけど……

煮魚に落とし蓋をしたころ、昆布を入れて加熱していた鍋が沸騰したので、あなたは鰹節をたっぷりと入れた。
「味噌汁の出汁、ちゃんと取るんですね」
背後からのぞきこんだ僕は、立ち昇る香りに眼鏡の奥の目を細めた。
「出汁がよく出ていると、味噌が少なくても味がしっかりするんです。もう少しでできるので、ソファで休んでいてください」
「何か手伝えることはないですか?」
「大丈夫です。今日くらい、私に任せて、ゆっくりしてください!」
僕は叱られた子供のようにソファに退散した。

テーブルには、鰈の煮付けに炒めた茄子、雑穀ご飯、玉葱、じゃがいも、豆腐とわかめを入れた味噌汁、鰹節と和風ドレッシングをかけた大根サラダを並べられ、2人で食べた。

「いつも自炊をしているんですか?」
僕は、鰈の骨をきれいにはがしながら尋ねた。
「週末はだいたいしています。平日の夕食は、疲れていてお惣菜を買ってきてしまうことがありますが、ご飯は炊きます」
「だから、味付けが上手なんですね。どれも、僕の好みの味です。素朴さを感じますが、決して手抜きではなく、この味に落ち着くために研究したのがわかります」

妻は大阪出身なので、味付けは関西風だ。
息子も大阪育ちなので、僕が普段作るのも関西風の味付けにしている。
僕はあなたの味付けに懐かしさを感じた。

食後に、あなたはいつも飲んでいるという黒豆茶を淹れてくれて、一緒に買ってきた草餅を食べた。

「このお茶、香ばしい香りですね」
僕が湯気で曇った眼鏡を拭きながら言った。
「黒豆茶です。緑茶のほうがいいですか?」
「いや、気に入りました。ほっこりします」
「よかった。私、黒豆茶、麦茶、ハーブティーとか、ノンカフェインが好きなんです」
「そういえば、あなたは外でもあまりコーヒーや緑茶を飲みませんね。爽健美茶や十六茶、ミネラルウォーターをよく飲んでいる。僕もここに来たときは、あなたとノンカフェインを飲むことにします。凝り固まっているものがほどけそうです」

僕は後片付けは自分がと言い張ったが、あなたはソファで休んでいてほしいと譲らなかった。

気が張っていた僕は、ソファに背筋を伸ばして座り新聞を読んでいたが、徐々に姿勢を崩しごろりと寝ころんだ。
あなたは軽い肌掛けを持ってきて、そっとかけてくれた。
僕は、ありがとうとあなたを抱き寄せて口づけた。
日頃の疲れが溜まっていたのか、僕は眠りに落ちてしまった。

──夢の中で、僕は新潟の祖父母の家に来ていた。
祖父母は生きていて、僕の隣にはあなたが微笑んでいた。

祖母とあなたは台所で談笑しながら、夕飯を作っていた。
僕は祖父とそれを笑顔で眺めながら、お酒を酌み交わしていた。

こんな有り得ない夢を見たのは、今日が至極楽しかったからだろうか──

夢から覚めると、僕はむくりと起き上がった。目をこすって眼鏡をかけ直すと、あなたの寝ているベッドに腰かけた。

いつの間にか、あなたはシャワーを浴びて、ジャージに着替え、本を読んでいた。

「ごめん。ようやく、ゆっくり会えたのに、だいぶ疲れが溜まっていたみたいで……」
「いいんです。自分の家のように寛いでくれて嬉しいです。いつでも、寄ってくださいね」
「家より安らぐよ……」

僕は、買ってきた部屋着に着替えると、あなたの隣に横になった。

「何を読んでいたんですか?」
僕は、あなたが枕元の棚に戻したブックカバーに覆われた本を指した。
「井上靖の『猟銃』です」
「どんな話?」
「ある不倫をしていた男性(彼)に宛てた3通の手紙で構成される小説です。最初に、亡くなった母と叔父(彼)の不倫を知った娘の手紙、次に不倫された叔母から夫(彼)への手紙、最後に彼と不倫していた母の遺書。小学生の頃、父の本棚にあるのを拝借して読んで、とても怖かったんです。不倫の怖さが凝縮されているようで……」

僕は、何も言わず、あおむけに横たわったままくうを見据えていた。
あなたとの関係は、どんなに愛おしくても不倫である事実を突き付けられた。

「絶対に、奥様と息子さんにばれて、傷つけることにならないように気を付けましょうね。私はあなたを元気にして、選んだ航路を進む助けになれれば、それだけで……」
あなたが言い終える前に、あおむけにして、一切の思考を奪うように、キスの豪雨を浴びせた。

起き上がったあなたは、僕をあおむけにしたり、うつ伏せにしたりしながら、爪先から髪の毛まで、反応を確かめながらキスと愛撫の雨を降らせた。

「自分の身体なのに、知らないことだらけだ……!」
僕は身をよじり、夫婦の営みですら上げたことがない声で、何度も呻いた。

僕は身を起こしあなたをあおむけにした。右手であなたの2つの小山を愛撫し、左手の指で洞窟のなかで宝物を探すように優しく動かすと、あなたは身体を何度も激しくしならせた。

「早く来て!」
あなたの声に導かれ、僕は洞窟に分け入り、探し当てた場所を何度も刺激した。
あなたの洞窟の襞が激しく収縮し、僕は野生を取り戻したように咆哮した。

「前より、ずっと深かった……」
「僕もだ。初めて知ることばかりだった。あなたとなら、果てしない航海に乗り出せる気がする……」

アクアクルーズの香りがほのかに揺らめくなか、僕たちは進んでいく時間を捕まえる勢いで抱きしめ合った。


may_citrusさんの原作「澪標」、こちらも併せて読んでいただけると、物語をもっと楽しめます。


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さくらゆき
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