【コラボ小説「ただよふ」番外編】陸《おか》で休む 4 (「澪標」シリーズより)
澪さんの休みの日と、息子の航平の海外出張が重なってしまったので、弟の千洋の運転で母がいる介護施設に向かった。僕たちは後部座席に並んで座っていた。
「──航さんからエルバヴェールの香りがするの、まだ不思議な感覚になります」
澪さんがそう言うのも、無理は無かった。僕は元々、サムライ アクアクルーズを愛用していた。匂いに敏感な妻に、澪さんとの交際がばれないよう、澪さんにもアクアクルーズを使ってもらっていた。僕がエルバヴェールを使い始めたのは、澪さんに会えなくなってからだ。
「僕にとっては、この香りはもう人生で欠かせないんですけどねえ……」
もちろん香りだけではなくあなたも、と言わんばかりに澪さんの頬に触れた。
「兄さん〜、俺がいること忘れて、彼女といちゃつかないでよ。聞いているこっちが恥ずかしくなっちゃうよ!」
運転席の千洋が、僕たちの会話に割り込んできた。我にかえった僕たちは、顔を赤らめた。
「ごめん、千洋。配慮が足らなかったよ」
「まあ、一生会えないと思っていた女性が目の前にいるんだから、夢中になってしまうのは仕方ないよね。そんな兄さんも、生身の人間っぽくて良いよ」
今まで、家族にはなるべく心配をかけまいと振る舞っていたことが、どうやら彼らの目には僕が完全無欠の人間に映ってしまっていたようだった。
「千洋さん、今日は私を小山まで迎えに来てもらって、すいません!」
「鈴木さん、そんな気にしないでください。客船のシェフを退職するまで、ずっと海と料理ばかりの生活だったから、ドライブがてら朝焼けに染まる風景とか見られて面白かったです!」
千洋には、東京にいる僕を乗せる前に、小山にいる澪さんを迎えに行ってもらった。
「朝早くからすまなかったね、千洋。病み上がりでなかったら、僕が迎えに行けたんだけど」
長距離運転は血栓が詰まりやすく、脳梗塞をやったばかりの僕にはリスクがとても高かった。
「兄さんも、気にしない!兄さんに頼ってもらえて、俺嬉しいんだからさ!」
明るい口調の千洋に、僕はひと安心した。
横須賀の介護施設に着くと、千洋は車を駐車場に停めた。
車を降りた澪さんがスーツのスカートの座りじわを整えながら、
「この服装、変ではないですか?」
と不安そうに尋ねてきた。
「優しいクリーム色が春を思わせて、とても好感を持てますよ。それに…スーツ姿のあなたを見ると、一緒に働いていた頃を思い出して、とても懐かしくなります」
「私も、航さんのスーツ姿を見て、懐かしいと思っていました」
「僕たち、同じことを思っていたんですね」
あの頃も、お互いの考えていることが一致することがよくあった。言葉に出さずともわかり合える澪さんを、僕は運命の人だと確信していた。運命は僕たちを強く結び付け、引き裂いたが、再び交わった。
「さあ、行きましょう。母が待っています!」
僕は緊張している澪さんの手を引いて、施設内に入った。千洋は、そんな僕たちを見守るように後ろからついてきた。
介護スタッフに、面会場所として、日当たりが良いテラス席に案内された。そこで、母を待つことになった。
「航さん、ここから海が見えますよ!海面に日の光がきらめいて綺麗!」
緊張していた澪さんの表情が、笑顔に変わった。
「海が見えるという条件で、母はここの施設を選んだんですよ」
母にとって、亡くなった父は今でも世界中の海を航海していて、海を眺めることで父を感じているのだった。
「航さんのお母さまは、ここから海を見ることでお父さまと対話しているのですね」
海を眺める澪さんの横顔は、30年前に行った、雨の横浜の外国人墓地での会話を思い起こさせた。
僕たち家族が、父の遺灰を海に撒いたことは残された方の自己満足だと言った僕に、「それでいい」と言ってくれたこと。死者との対話は自分との対話だと言ってくれたこと。あの時のあなたの言葉に、どれだけ救われたことだろう。
しばらくして、スタッフが車椅子を押して母を連れてきた。僕と澪さんは立ち上がり、母に歩み寄った。
再び澪さんの顔に緊張が走った。母は、じっと澪さんを見据えていた。
「母さん、こちらが鈴木澪さん。東京の会社の課長時代に僕のもとで働いてくれていて、今は栃木県の小山で看護師長をしてるんだよ。」
僕は簡潔に紹介した。詳しい事情は、こないだ連絡した時に説明してある。
「はじめまして。鈴木澪です。この度、お母さまに航さんと再婚をすることを許して頂きたく、挨拶に参りました!」
澪さんは会釈し、ハキハキとした声で挨拶をした。
「はじめまして。海宝知里、航の母です」
挨拶が済むと、お互い沈黙してしまった。僕や千洋は、そんな2人の様子を見ていることしか出来なかった。
「あの……」
澪さんが沈黙を破った。
「申し訳ありませんでした!」
澪さんと母の声が綺麗に重なった。
「どうしてお母さまが謝るのですか?謝らなければならないのは、妻子のいる航さんと不貞行為をしていた私の方です!」
「確かに不貞行為は許されるようなことではありません。しかし、航は実咲さんと別れてあなたと一緒になると約束していた。海宝家の事情とはいえ、航がその約束を反故にしたことは事実です。期待をさせておいて、息子がそのような仕打ちをしてしまい、母として申し訳なかったと思っています」
母は謝罪し、深く頭を下げた。
「そんな!あの時は、航さんはそうするしかなかったんです。お母さま、どうか頭を上げてください!」
澪さんに促され、母は頭を上げた。
「航を、憎まないでくれてありがとうございます。生きる気力を、息子に与えてくれてありがとうございます。どうか、息子と一生を添い遂げて下さい!」
「はい、お母さま。」
澪さんは力強く頷いた。
澪さんと母のやり取りを見ていた僕と千洋は、涙を流していた。
横浜で、航さんと澪さんが海宝家(実家)の話をしているのは、may_citrusさんの原作「澪標」5話で読むことができます。