【コラボ小説「ただよふ」番外編】陸《おか》で休む 5 (「澪標」シリーズより)
「もう、大抵のことでは驚かないと思っていたけれど、航が脳梗塞で倒れたということと、再婚するということを同時に知らされた時は、寿命が30年縮んたわ……」
母はふぅと溜め息を吐いた。
「え…母さん何歳まで生きるつもりなの?」
僕は驚きを隠せなかった。母は既に90代である。
「もちろん、人類が生きられる限界までよ。洋さんが生きられなかった分、たくさん見て聞いて、私の人生の航海が終わった時に、あの人に教えてあげるの!」
母の目は恋する女性のものだった。
「お母さま、航さんのお父さまはどんな男性だったのですか?」
澪さんが父に興味を示した。
「洋さん……航の父親は私より2歳年上の、背が高くてハンサムな航海士でした。私が22歳の時に出会いました。しっかりしているのに、海のことを話し出すと、少年のような顔をしていました。私はそんな洋さんに惹かれて、一緒になりました。私たちの間には息子の航や千洋が生まれ、洋さんは息子たちがとても大好きだったけれど、航海に出てしまうと、長い期間会えなくて、子どもの成長の早さに戸惑っていました。航が思春期をむかえた頃には『息子たちが何を考えているのか分からなくなった』と、葛藤を抱えるようになりました。そんな悲しみから目を逸らすかのように、洋さんは仕事に邁進していって……航が大学院の修士課程の時に倒れて帰らぬ人になりました。洋さんは海を航海したいのだと思い、遺灰を海に撒きました。私にとって、海は洋さんそのものなんです」
母の目は潤んでいた。父との別離を思い出してしまったのだろう。
「……航さんはお父さまのことを、『どちらかが悪いわけではないのに、互いを蝕む悲しみを蓄積させてしまう悲しい関係だった』と昔言っていました。お父さまが望むような頑健な体のスポーツマンにも、船乗りにもなれなかったので、失望させてしまったのだと」
「もう少し私が間に入って、お互いの気持ちを伝えてあげなければいけなかったのに……まさか洋さんがあんなに早く逝くなんて思わなかったから……」
涙ぐむ母に、澪さんがハンカチを差し出した。母は「ありがとう」と言って、そのハンカチで涙を拭った。澪さんが母の気持ちに寄り添ってくれたことで、海宝家はまたあなたに救われたと思った。
「航、こんな思い遣りのある女性、もう手放したら駄目よ!体調を整えて、出来る限り長く寄り添いなさい」
「分かったよ、母さん!」
僕は母さんの言葉の中に、「突然いなくなって、澪さんを悲しませてはいけない」という意味を感じ取った。
母さんの顔に疲れが見えてきたので、僕たちは帰ることにした。
「今日はお会い出来て、本当に嬉しかったです」
澪さんが深々とお辞儀した。
「また、いらっしゃってね」
母さんが心からの笑みを浮かべた。
「千洋も、今度来るときは帆香さんと潮音ちゃんを連れてきなさいよ。久しぶりに会いたいわ」
「うん、近いうち連れてくるよ。それまで元気でいてよ?」
「もちろんよ」
澪さんが弟と母のやり取りに「千洋さんの奥さまと娘さんですか?」と聞いてきた。
「ああ、千洋には帆香さんという、航平と同い年の奥さんがいてね、2人の間には潮音ちゃんというひとり娘がいるんだ」
僕が簡潔に説明すると、澪さんは目を丸くしていた。
僕らは施設を後にした。千洋は東京の息子の家の前で僕を降ろすと、澪さんを小山まで送っていった。
数日後、僕は小山の澪さんのアパートに引っ越す準備をだいたい済ませていた。
病み上がりの僕の体力を考慮して、澪さんのご両親の挨拶を済ませたあと、東京には戻らず、そのまま澪さんのアパートに住み始めることになった。
「父さん、それだけでいいの?僕の出張の荷物とあまり変わらないじゃないか」
海外出張から帰った息子の航平が、大きな鞄ひとつしかない荷物に驚いていた。
「女性の一人暮らしの部屋に、多くは持ち込めないからね」
僕は鞄のファスナーを閉めようとして、ふと「ある物」の存在を思い出した。
僕は仏壇に置かれた眼鏡ケースから、赤いフレームの眼鏡を取り出した。
「……母さんの眼鏡、小山に持っていくの?」
婚約者との新生活に、前妻の物を持ち込むのはどうなんだと言いたげに、航平は尋ねた。
「実咲さんは亡くなったけれど、家族だからね。再婚するからといって、居なかったことにはしたくないんだ」
この眼鏡は、僕が実咲さんにはじめてプレゼントしたものだった。実咲さんは「大切にするわね」と言っていた通り、レンズを取り替えながら、一生使い続けてくれた。この眼鏡を通して、僕はどのように見えていたのだろう。
僕は眼鏡をケースにしまい、鞄の中に入れた。
may_citrusさん原作「澪標」で、航さんが父親との悲しい関係を語っています。