豊穣の風色 流転の石 2話
嵐の中を赤子を抱いた若い男があてもなく彷徨い歩いていた。己が着ている外套で、赤子が濡れないよう雨を避けながら、城から遠ざかっていく。
「ローズ様。僕の……命に替えても、貴女の娘は守り抜きます」
雨に当たり続け、体温を奪われ、意識が絶えそうになりながら、男は歩き続けた。
城下町を抜け、小さな集落を何度も通り過ぎ、夜になると、無人の小屋を見つけ、そこで力尽きた。
嵐が過ぎ去り、小屋の主がやって来た。無人のはずの小屋の中から、赤子の泣き声が聞こえてきた。中をのぞいてみると、若い男が高熱を出して気を失っていたので、小屋の主は吃驚した。
小屋の主は薬師を呼んできて、男を診てもらった。
「高熱の原因は流行り病ではなく、冷たい雨に打たれ続けたからだろう。暖かい場所で安静にさせれば、直によくなるだろう」
小屋の主は薬師と共に、男と赤子を診療所に運んだ。
しばらくして、朦朧と目を開けた男は、自分の置かれた状況が分からずに動揺した。
「ここは里の薬師の診療所だよ。赤ちゃんも助手が面倒を見ているから、安心してお休み」
薬師に出された薬湯を飲むと、男は再び眠りに落ちた。
「先生、この赤ちゃん変わった耳飾りを握っていました!」
助手が薬師に見せたのは、真っ黒な石で出来た涙型の耳飾りだった。それは、玄の国の国石だった。
「これは、相当な訳アリだなあ」
薬師は男が抱えているものは、とんでもない大きなものに違いないと感じていた。
数日が経ち、男の体力が回復してきたので、赤子と共に里の長老の家に顔を出しに行った。薬師は男を長老の家まで案内すると、診療所に帰っていった。
長老の家の外観は、くり抜いた大岩に扉が付けられたもので、まるで修行の場のようだった。中に入ると、簡素ながらも家具は置かれていた。石の床に敷いてあるカーペットの上に、草で編まれた座布団が出され、長老と男は向かい合わせに座った。長老は複雑な模様の前閉じの衣装を着ていた。里の伝統衣装なのだろう。
「私はこの風読みの里の長・ツムジである。貴方も風読みの血を引く者であるな?名前は何と申す」
長老の声は穏やかだが、射貫くような視線に、男は嘘は通らないと悟った。
「僕、いや私はアメと申します。先祖は風読みの里の出身だと聞いております」
アメは、自らが風読みの血を引いていることが長老に分かったことには驚かなかった。
「やはり、そうか。皆ではないが、風読みの一族は『人間の纏う風』も読める。貴方もそうであろう?」
長老の問いにアメは頷いた。
「貴方がここに来たのも風に招かれたのかもしれぬ。アメ殿、風読みの仲間である私に、貴方が置かれている状況を話してはくれぬか?」
長老はアメを疑うどころか、心配している。
同じ一族とはいえ、初対面の人間に話して良いか迷った。
「話しにくいのは、この赤子の出自が原因か?」
長老は、アメの腕に抱かれている赤子に視線を遣った。
「薬師から、玄の国石を赤子が握っていたと聞いたのだ。国石は王族の証だからな」
長老は赤子の出自まで気づいている。アメは腹を括って、事情を話すことにした。
「長老様。私がこの腕に抱いているのは、ローズ新女王のお産みになったラピス王女でございます。ラピス王女は、父であるジルコ殿下に命を狙われているのです」
アメの声と、ラピスを抱く腕が震える。
「何と、父から命を狙われているとは!何故そんな非情なことを」
「ラピス王女は双子でお産まれになりました。ジルコ殿下の出身国【青の国】では、双子は忌み子である故、どちらかを消さなくてはならないと仰せになりました」
玄の国では前王が崩御し、一人娘であるローズが王位に就いた。
夫であるジルコは、青の国では軍政に携わっていた為、政治に不慣れな女王であるローズよりも、国政の発言権を得ていた。
「もちろん、ローズ女王は娘を殺すなんて出来ないと断言致しました。しかし、ジルコ殿下は諦めてくださらない。そこで、ローズ女王は専属医と相談して、ラピス王女は亡くなったことにして城から逃がすことにしたのです。ローズ女王は、王女時代の教育係だった私に、ラピス王女を託しました。私は命に替えても、ローズ女王の娘であるラピス王女を守らなくてはならないのです」
「しかし、貴方が城から消えたらジルコ殿下は不審には思わないだろうか?」
「……私は殿下に疎まれていましたから」
「何故?」
「私とローズ女王は、恋仲だったのです。身分が違うので公には出来ませんでしたが。もちろん、ジルコ殿下と婚約した時には関係を解消しました。しかし、どこで聞きつけたのか、ジルコ殿下の知るところになりました。私は殿下の怒りを買い、罰として宦官にされてしまいました。それからは、語ることが悍ましい日々……」
アメは当時の恐怖を思い出し、吐き気を催した。
「アメ、病み上がりなのに申し訳なかった!」
長老はアメの背中を擦ってやった。
「もし行くところがないのであれば、風読みの里の者としてラピス王女と住まぬか?ここならば、滅多に外部の人間は来ない。安心して暮らせるはずだ」
長老の申し出に、アメは泣きながら「ありがとうございます」と何度も感謝を繰り返した。
王宮の寝所。泣き止まないローズをジルコが宥めていた。
「ローズ、悲しいのは分かるけど、双子は災いの種にしかならないんだ。これで良かったのだよ」
しかし、ローズはジルコの言葉に応えない。それは、「我が子を殺せ」と言った、非情な夫に対するせめてもの抵抗であった。
「子供ならこれからまた作れば良い」
寝所でのジルコは、人が変わったかのように優しい。それがローズには恐ろしかった。
(アメ。私がこの人の生け贄になるから、どうか外の世界でラピスと幸せになって!)
ジルコに抱かれながら、ローズは願った。