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グラニュレーション 6話


 真中の仕事が休みの日、愛花は柴三郎の早朝散歩に誘った。愛佳と柴三郎は、アトリエの前で真中がやって来るのを待っていた。真中の姿が見えると、柴三郎が機嫌良くその場でぐるぐる回りだした。

「おはよう。『まな』、柴三郎さん、お待たせ!」
 真中は、ゆったりめの半袖白シャツにデニムパンツ姿で現れた。普段は長袖で隠された前腕が、露わになっているのが艶めかしく思える。

「『ナカ』さん、おはよう。そんなに待っていないよ」
 愛佳は七分袖のボーダー柄のカットソーに、カーキのクロップドパンツ、普段どおりの散歩スタイルである。

「タメ口もだけど、呼び方も慣れないね」
 愛佳が苦笑いを浮かべた。
 お互いの呼び方が変わったのは、「お互いに『まなかさん』と呼び合っていて、聞いていて混乱する」と、ギャラリーのオーナーに指摘されたからである。

「そもそも、オーナーが紹介する時に、『二人ともまなか』って言ったから、そのまま定着しちゃったんだよね。今さら『荷堂さん』に直すのも余所余所よそよそしいし」
 真中はしゃがんで、柴三郎の黒い背中を撫でた。柴三郎の尾は喜びのあまり、高速で振られている。

「私も、『龍史さん』って呼ぶのは違和感あるよ」
「龍なんて、名前負けだよね。『ナカ』と呼ばれてたから、こっちの方がしっくりくる」
 真中は乾いた笑いをした。名前のことでからかわれたことがあるのだろう。

 柴三郎が散歩を急かすように、「ワンッ」とひと吠えした。
「ごめんごめん、歩こうね」
 二人は公園に向かって、下り坂を歩き出した。
 
「散歩、朝が早くてごめんね。休みの日なのに」
 梅雨が明け、早朝でも空は既に明るい。昼になれば、柴三郎の肉球が火傷するほどの猛暑になることは間違いない。
「柴三郎さんとまなと散歩出来て嬉しいから、朝早いのも平気だよ」
 真中の屈託のない笑顔に、愛佳は安堵した。

「タメ口ですらぎこちないから、まだオーナーには『付き合っている』とは言えるレベルじゃないね」
 偽装とはいえ、いや偽装だからこそ、違和感のない恋人に見えなくてはいけないと愛佳は思っていた。

「『愛佳』さん、付き合いたての恋人ならば、ぎこちないのは自然だと思うよ。お互いのことを知らないんだから。大切なのは、一緒にいることだよ」
 真中は愛佳の持っている柴三郎のリードを掴んだ。
「手を繋ぐのはハードル高くても、これなら仲良く見えるね」
 真中は妖しい笑みを浮かべた。
「ナカさん、『愛佳』呼びに戻ってる」
 恋愛経験のない自分には、時折みせる真中の妖艶さにはついて行けないと感じる愛佳だった。

 坂を下りきって、池のある公園に着いた。真中は自動販売機でアクエリアスのペットボトルを二本買った。
「ベンチで飲もう」
 二人は池に向かって並んで座った。柴三郎に給水ボトルで水を飲ませた後、アクエリアスを飲んだ。冷たい液体が喉を通るのが心地良かった。

「ナカさん、ギャラリーのお仕事は慣れた?」
 真中がギャラリーで仕事を始めてから、そろそろ一ヶ月になる。
「うん。オーナーが丁寧に教えてくれたから、だいぶ仕事を覚えたよ」
「ナカさん、筋がいいから、オーナーも教え甲斐があったんじゃないかな」
「『教え甲斐』……」
 急に真中の表情が固くなった。

「ナカさん?」
 動揺する愛佳に気づくと、真中は自分の頬を両手で叩いた。

「ごめん、心配かけて。昔、『先生』に教え甲斐があるって言われたことを思い出してた」
「『先生』って、ナカさんが高校生の時にお付き合いしていた人?」
「うん」
 しおらしく返事をする真中に、愛佳は先生への未練を感じざるを得なかった。偽物の恋人では、きっと彼の心の傷を癒すことなんて出来ないだろう。

 空になったアクエリアスのペットボトルをゴミ箱に捨て、二人は散歩を再開した。

「まなは、どこか行きたいところはある?水族館とか遊園地とか……」
 真中はデートスポットの意味合いで切り出したのだが、恋愛経験値の低い愛佳はその意図を汲むことは出来ない。

「私、画材フェスに行きたい!」
 前のめりになり興奮する愛佳に、真中は思わず声に出して笑った。
「今度お給料入るから、画材フェス行こう!」
 真中の笑っている理由は分からないが、真中の気持ちが上向いたことが嬉しい愛佳だった。

 柴三郎の散歩を終え、真中が帰ってしばらくすると、愛佳のスマホにオーナーからLINEが入った。
「二人で犬の散歩しているのを見かけたんだけど、君たち付き合ってるの?」
 これは恋人を偽装する絶好のチャンスだ。愛佳は即座に「はい。お付き合いしています」とLINEを返した。
すぐに「そうなんだ〜。おめでとう!」というメッセージとともに、浮かれたスタンプが送られてきた。

 お付き合いすることは、おめでたいことなのか。今まで夢の中の巨人に怯えてきた愛佳にとって、その発想はなかった。異性との恋愛は恐怖以外の何ものでもないのだ。今はおとなしくしている巨人も、いつ牙を剥いてくるか分からない。愛佳はどうしても、偽りの関係をめでたいと思うことが出来ずにいた。


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