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【コラボ小説「ただよふ」番外編】陸《おか》で休む 10 (「澪標」シリーズより)


澪さんのご両親のいる高齢者施設を後にし、僕は澪さんの運転で、澪さんの現在住んでいる小山市のアパートにやって来た。アパートは、澪さんの職場の病院から近い、飾り気の無い2階建てで、外壁にはところどころヒビが入っていた。

「とても古くて狭い部屋ですが、どうぞ入ってください」

澪さんがドアを開けると、ほんのりとアロマの香りがした。
澪さんに促され、僕は「お邪魔します」と言って、これから住むことになるアパートの内に入った。

確かに大人2人で住むには狭い部屋ではあったが、壁紙は新しく、澪さんが厳選したであろう家具や小物で揃えられていた。

「航さん、今お茶淹れますね!」
澪さんは、ホーロー製の緑色の薬缶でお湯を沸かすと、黒豆茶を淹れてくれた。

「いただきます」
僕は背筋を伸ばし、小さく頭を下げてから、お茶を口に含んだ。

「やはり、あなたが淹れてくれた黒豆茶は格別ですね。先程までの緊張が解けていきます……」
懐かしいほっこりとした味に、頬が緩んだ。

「航平さんにも、病院の師長当直室で黒豆茶を淹れたのですが、仕草が航さんにそっくりで、びっくりしました!」

「……後ろから見たら、僕と息子どっちなのか分からないって、実咲さんによく言われました」

前妻の名前を出した時、わずかに澪さんの表情が曇った。僕にとって、実咲さんは今でも大切な家族だが、愛人という立場だった澪さんにとっては、気分の良いものではなかったに違いない。

「……澪さん、せっかくお茶が入っているので、お土産をいただきましょう!」
僕は前妻から気をそらそうと話題を切り替えた。

僕も澪さんも、何事もなかったかのようにお土産の和菓子をいただいた。これからは、前妻の話題を出すのは慎重にしなければならないと思った。


澪さんが夕飯に作ってくれた、鯛の煮付けをいただいた。ふっくら柔らかで、味付けも美味しかったので、きれいに平らげてしまった。

「ご馳走さまでした。僕好みの味付けで、とても美味しかったです」と僕が言うと、澪さんは「航さんは、昔も今もきれいに食べてくれるので、とても作りがいがあります」と微笑んでくれた。

食べ終わった食器を洗い桶に浸し、僕は当たり前のように洗い物をしようとしたら、澪さんが慌てて止めに入った。

「洗い物は私がやりますから、航さんは先にお風呂に入って下さい!!」

「これからは家族なんだから、家事は分担でしょう?」

「何言ってるんですか!今日は、私の両親に挨拶をするという多大なストレスがかかっていたでしょう?また倒れたらどうするんですか!航さんはお風呂に入ってゆっくりして下さい!」

僕は澪さんに押し切られる形で、入浴することにした。

真新しい壁掛けヒーターで脱衣洗面所を暖めていたり、お風呂の蓋が開けてあったり、僕がヒートショックで倒れないように対策してあった。

僕はかけ湯してから湯船に浸かった。僕には温めの温度だったが、これも澪さんの気配りに違いなかった。

若い頃、当時澪さんが住んでいた綾瀬のアパートでの逢瀬は、鼻が敏感な妻に勘付かれないよう、シャワーを浴びずに帰宅していた。こんなにゆったりした気分で入浴する日が来るなんて、当時は思いもしなかった。

お風呂から出た洗面所の鏡に写った自分の姿は、70歳の老人そのものだった。歳を重ね、病を得て、僕はようやく前妻・実咲さんが閉経を迎えた時に、夫婦の営みを拒絶した気持ちを理解した。若い配偶者に、老いた自分をさらすことで失望されるのが怖かったのだ。実咲さんが、双極性障害を寛解した時に、15歳下の僕ではなく同年齢の元婚約者と関係を持ってしまったのも、そういう理由だったのだろう。

現在の澪さんは、当時の実咲さんと同年代である。閉経を迎えているはずで、子孫を残す行為は必要がなかった。元夫との不妊治療で、男女の営み自体にうんざりしている可能性もある。

僕は、やっと始まった澪さんとの生活に影を落としたくなかった。澪さんを抱きたいという欲に、蓋をすることにした。


部屋着を着て脱衣洗面所を出た僕は、澪さんの姿を探した。澪さんは寝室で難しい顔をしてしゃがみ込んでいた。手にはアロマディフューザーと精油瓶が握られていた。

「澪さん、良いお湯でしたよ。澪さんも冷めないうちにどうぞ」

「……航さん、アロマオイルを焚きたいのですが、航さんが苦手な香りとかあったら教えてください」

澪さんは昔、僕を部屋に招くために、大好きだったアロマを焚く習慣を禁じていた。僕に躊躇いがちに聞いてくるのは、その頃の記憶が澪さんを縛っているからに違いなかった。

僕は澪さんの側に腰を下ろした。

「澪さん、僕はあなたが好きな香りをもっと知りたいです。あなたには、自由に香りを楽しんでほしい!」

僕の言葉に、澪さんの顔が明るくなった。

「……では、ベルガモットとかどうでしょうか?アクアクルーズのトップノートのひとつなので、航さんも好きだと思います!」

澪さんの上気した顔があまりにも近くにあって、僕は欲に抗えず、吸い込まれるように口づけをしていた。先程の誓いなんて、澪さん本人の前では意味を無くしていた。澪さんも、僕に答えるように口づけを返してくれた。

「すいません、あなたの同意の無いままこんなことをして。僕は幾つになっても自分をコントロール出来なくて……」

「航さんは、幾つになっても航さんらしくいて下さい。どうか、理由をつけて距離をとらないで……もう私を離さないで!」

ベルガモットの香りが部屋を満たす中、僕たちはベッドで抱き締めあった。澪さんの身体は、年相応に張りがなくなり筋張っていたが、無駄な脂肪は付いていなかった。看護師という過酷な労働で付いたと思われる筋肉が、彼女を一人きりにしてしまった年月を思わせ、切なくなった。

澪さんは始終、僕の身体に負担のかからない体勢をとってくれていた。お陰で、ゆっくりと愛し合うことが出来た。枯れて朽ちていくはずだった僕は、あなたと再会したことで、水を得たように生命力を取り戻した。あなたが与えてくれた熱が、吐息が、鼓動が、そして香りが僕の心と体を満たしていった。


航さんと澪さんが一線を越えたエピソードは、may_citrusさん原作「澪標」8話にあります。


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さくらゆき
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