グラニュレーション 3話
愛佳はギャラリーに納品する柴三郎の絵を描くことに集中していた。
「柴三郎さんの黒は、生命力を感じるね」
何度もスケッチを重ね、水彩紙に彩色し、あとはサインを入れるだけになった作品は、一番柴三郎らしい表情が描けたと思っている。
真中を避けるように、柴三郎の散歩を彼の勤務時間内にしていた。ギャラリーに近づかないようにしていたら、スケッチしようと思っていた紫陽花の見頃は終わってしまった。
サインを入れたら、納品の為にギャラリーに行かなくてはならない。しかし、これ以上真中を避けてはいられない。真中は事情を知らないのだ。愛佳は呼吸を整え、サインを入れた。
愛佳は絵具が乾いたことを確認すると、梱包箱に絵を入れた。作業用エプロンを外し、ひとつに縛っていた髪をまとめ直した。
「柴三郎さん、行ってきます」
柴三郎の頭を撫で、愛佳はアトリエの外に出た。
「焼けるような夕空」
こんな色の絵も、今度描いてみたいと愛佳は思った。
閉館時間が迫っているからか、ギャラリーには客がほとんどいなかった。真中の姿はない。会わずに済むなら、その方が良い。
オーナーを探していると、一人の客が入館してきた。
「うわ、本人!本当に絵描きになってやんの」
不躾に愛佳に指を差してきたのは、愛佳が大学時代に付き合っていた、外山だった。
「外山くん……」
愛佳の表情が固くなる。
「久し振りの元カレに対して、その態度はどうなんだよ。わざわざSNSで知って観に来てやってんのにさ」
横柄な外山に、何で自分はこんな男性と付き合っていたのだと、愛佳は思った。
「帰って。そんなに大声たてたら、ギャラリーに迷惑だわ」
愛佳は外山を追い出そうとした。
「客なんていないじゃん。売り上げに貢献してやってんだから、少しは感謝しろよ!」
外山は乱暴に愛佳の腕を掴んだ。顔が近づくと、外山の息は酒臭かった。
「イヤ、離して!」
愛佳は全力で外山の手を払おうするが、男性の力には敵わない。愛佳は恐怖で半狂乱になった。
「お客様、女性に乱暴をするのはおやめください」
毅然とした声で注意をしたのは、真中だった。
「はあ?これは乱暴じゃなくて、きょ、う、い、く。元カレとして、マナーを教えてるんですぅ」
もうこれ以上喋ってくれるな、と愛佳は思うが声にならない。
「『元カレ』ですか」
真中が唸るように呟いた。次の瞬間、真中が発した言葉に愛佳は耳を疑った。
「今お付き合いしている自分としては、彼女に危害を加えられているのは、見逃す訳にはいかないですね」
それは真中が咄嗟についた嘘だった。
真中は愛佳の腕から外山の手を引き離すと、外山の腕時計のベルトを外し、美しい指で手首の血管をなぞった。外山は「うっ」と熱っぽい声をあげた。
「あなたが『教育』と言うなら、彼女がどんなに魅力的か、僕が一から十まで教えて差し上げましょうか。そう、『手取り、足取り』と……」
真中は妖艶な笑みを浮かべながら、手首の血管から首筋を指でなぞっていった。
「うわああぁぁ!二度とこんな所に来るか!」
これ以上ないぐらい顔を真っ赤にして、外山は逃げ帰っていった。
一方、愛佳は座り込んで、顔を真っ青にして震え上がっていた。真中は、足元に落ちていた愛佳の絵の入った箱を拾い上げ、奥から様子を見ていたオーナーに手渡した。
「すいません、オーナー。愛佳さんをアトリエまで送ってきます」
「ぜひ、そうしてくれないか。いくらすぐ裏でも、あんなことあった後じゃ一人で帰せない」
オーナーの許可をもらい、真中は愛佳に歩み寄った。
「愛佳さん、立てますか?」
真中は手を差し伸べたが、愛佳は男性の手を取るのも躊躇われた。
「大丈夫、僕は愛佳さんの味方です。怖いことは、何もありません」
怯えきっていた愛佳だったが、真中の目が本気で心配していると訴えていたのがわかると、差し伸べられた手を取った。
アトリエに帰ると、すっかり部屋が暗くなっていた。愛佳が手探りで電気を着けると、柴三郎が側にやって来た。
「柴三郎さん、久し振りだね。愛佳さん具合が良くないから、休ませたいんだ」
真中の言うことが通じたのか、柴三郎は戯れることなく飼い主の側に付き添っていた。
「コップはこれで良いのかな?」
真中はコップに水を汲み、ダイニングチェアに座る愛佳に手渡した。愛佳は、水を一気に飲み干した。緊張の糸が切れ、涙が溢れてしまった。真中は、涙が止まるまで待っていた。
「見苦しいところをお見せして、すいませんでした」
真中にはあんな醜態を見せたくなかった、と涙をティッシュで拭いながら愛佳は思った。
「いえ、僕こそ彼を追い返す為に、『付き合っている』なんて大嘘をついてすいませんでした」
向き合って座っている真中は、深々と頭を下げた。
「……真中さん、私の話を聞いてもらっても良いですか?」
ここまで迷惑をかけてしまった真中に、きちんと説明をしないといけない。愛佳は事情を打ち明けることにした。