【コラボ小説】ただよふ 4(「澪標」より)
僕が自分の部屋で鞄の整理をしていた時のこと。
「…あった!」
取引先から「ご家族とどうぞ。」といただいた高級中華料理店の割引券を財布から取り出した。
いつもなら、すぐに捨ててしまう類いのもの。
妻が周りに気を遣ってしまうので、一緒に「そういう場所」には行くことがなくなってしまったから。
何か大きな仕事を成し遂げたら、あなたを食事に誘おう。
僕はその日が来るのを楽しみに、割引券を再び財布に忍ばせた。
うだるような炎天下の中、僕は取引先のS大から徒歩で会社に向かっていた。
コンビニから出てくるあなたを見つけた時、僕は食事に誘うなら今がチャンスだと感じた。
「鈴木さん!」
僕は思いきってあなたに呼び掛けた。
「課長、お疲れ様です」
あなたは暑さで朦朧とした顔から瞬時に仕事モードの顔に切り替えた。
「暑いですね。」
タオルハンカチで自分の首筋と額の汗を拭った。
僕が猛暑日にスーツを着ていて見た目が暑苦しいと思っているのか、あなたはじっと僕を見ていた。
「本当に嫌になりますね。課長はS大でしたよね。暑い中、お疲れ様でした」
「おかげ様で、S大は文系学部の単位取得試験だけではなくて、新入生のプレースメントテストも委託してくれました。これで信頼を得られたら、入試も請け負えそうです」
「やはり、課長自ら足を運んでくださると違いますね。本当にお疲れ様でした」
S大のような規模の大きい大学に食い込めたことを、あなたは喜んでくれた。
「ところで、鈴木さん。」
僕に何か注意されると思ったのか、あなたの顔に緊張が走った。
「以前、飲みに行ったときは、慌ただしくて申し訳ございませんでした」
あなたはそうではないとわかると、体の力を抜いた。
僕は意を決して、本題を切り出した。
「あのときの埋め合わせをしなくてはと、ずっと思っていました。もし宜しければ、中華料理店の割引券があるのですが、お時間のあるときにいかがですか?」
あなたは「ぜひ、お願いします」と即答した。
「では、来週の木曜日の夕食でいかがでしょうか?」
「勿論大丈夫です」
「よかったです。後で店の場所と時間をメールでお送りします」
僕はあなたと約束を取り付けることが出来て、ほっとした。
会社に向かって歩きだしたあなたの背中に視線を移すと、汗でブラウスが透けて下着の線が見えてしまっていた。
僕がここで指摘したら、あなたは恥ずかしさで逃げ出してしまうに違いなかった。
炎天下の中、汗だくのスーツの上着を被せる訳にもいかない。
僕は通行人に見えないように、さりげなくあなたの後ろを歩いた。
僕はあなたと何を話して会社に戻ったのか、まったく思い出せない。
僕は帰宅した後、妻に「来週の木曜日は会社の人と食事の約束がある」と伝えた。
妻はぼんやりと眺めていたスマホの画面を消し、「わかったわ。」と気もそぞろな様子で返事した。
僕は妻に勘繰られなかったことに、拍子抜けしていた。
約束の木曜日。
僕は30分前には店に来てしまっていた。
タオルハンカチで汗を拭き取り、身だしなみを整え、アクアクルーズのフレグランスミストを料理の邪魔にならないよう軽く付けた。
あなたと初対面の夜も同じようなことをしていた。
違うのは、はじめからあなたのために時間をとってゆっくりと食事を楽しめることだ。
僕は店員に案内された個室に座って、あなたを待った。
エアコンが効いていたので、外でかいた汗が引いた。
約束の20分前、店員に連れられあなたはやって来た。
ヒールの高いパンプスが、あなたの脚をいつも以上に美しく見せた。
「こんな素敵なレストランに誘っていただいて、ありがとうございます」
あなたはこの店に少し気後れしているように見えた。
「ご家族とは、いらっしゃらないのですか? 私が来てしまって何だか申し訳ない気分です」
不意に家族の話題が出てきて、僕の気持ちに影が射した。
「妻はあまり出たがらないので。それより、コースでいいですか? 食べられないものはありますか?」
「あ、はい、もちろんです。食べられないものはありません」
あなたは不自然な僕の態度を変に思っただろう。
だけど僕は誰にも…あなたにも踏み込んできて欲しくなかった。
注文が済むと、あなたはジャスミン茶を2人分注いでくれた。
ジャスミン茶の馥郁とした香りが、落ち着きを取り戻してくれた。
「課長のようにできる方が、うちみたいな保守色の強い会社にきて、窮屈ではないですか?」
「いえ、楽しんでいますよ。志津から大学入試に参入する話を聞いたとき、需要のある分野だと思ったので、すぐに決めました。長く大学に勤めていて、試験監督が大学教員の負担になっていることはよくわかっていましたから」
大学教員は忙しそうに見えないというあなたに、運ばれてきた前菜をいただいてから、大学教員の目立たないところの学務の負担や外部委託出来る予算が限られていることについて詳細に説明した。
「課長が、赤字を出してでも、額を低く設定することを譲らなかったのも、大学事情を考えてのことだったんですね」
あなたは僕の説明を的確に理解してくれた。
「ええ。他社も既に手を広げていますし、大学事情を考えると、少しでも安くしないと食い込めないと思いました。最初から、扱いづらい奴だと思われてしまいましたね……」
僕は思い返すのも恥ずかしくて、誤魔化すようにジャスミン茶を口に運んだ。
あなたが食べ慣れないメニューに悪戦苦闘している様子を見て、僕は妻との高級レストランでの初デートを思い出していた。
この時のあなたは、かつての僕だった。
『航君、これはこうして食べるのよ』
妻…実咲さんのかつての聡明な微笑みが頭をよぎった。
「関西の大学では、ずっと入試の仕事をしていたのですか?」
「最初は広報担当でした。広告代理店に勤めていたので、広報担当を募集していた大学に採用されたんです。入試担当は10年ほどです。入試にも、広報的な仕事は含まれるので、経験は無駄になりませんでした」
目の前にいるのはあなたなのに、心が昔に引きずられそうになった。
それぞれが選んだエビチリと回鍋肉が運ばれたタイミングで、僕は「たまには、仕事以外の話をしましょう。休日は何をしているのですか?」と話題を切り替えた。
あなたは家でアロマをたいて香りを楽しんでいると言った。
僕は訪ねるはずのないあなたの家の香りに思いを巡らせた。
大きな公園で森林浴をしたりすると聞いて、僕との共通点を感じた。
「──課長は何をしているんですか? 御家族と過ごすことが多いんですか?」
あなたは僕の休日に興味を示した。
休日の話題を振ったのは僕だ。答えない訳にはいかなかった。
「家族と過ごす時間も大切ですが、1人になりたいときもあります。僕も学生時代から公園を散歩するのが好きでした。学生の頃、駒込に住んでいたので、六義園と旧古川庭園はよく行きました。今でもたまに行きます」
「2つとも行ったことがあります! 旧古川庭園には、バラの季節によく行きます。年間パスポートを買ったこともあります」
「また共通点が見つかりましたね。僕は都立9庭園共通年間パスポートを持っていますよ」
「本当ですか? 無理に、私に合わせてくれなくても大丈夫ですよ」
「違いますよ。僕だって驚いているんです」
僕はカバンから都立9庭園の年間パスポートを出して見せた。
あなたとの驚愕の共通点に、モヤモヤした思考はすっかり飛んでしまった。
僕達は炒飯を口に運びながら、時間を忘れて公園の話題で盛り上がった。
杏仁豆腐と芒果プリンが運ばれた頃には、流れる空気が今までにないほど親密になっていた。
「ところで、課長は海がお好きなんですよね。海辺の公園で、好きなところはありますか?」
「横須賀に住んでいたことがあるので、ペリー公園、三笠公園はよく行きました。でも、僕は太平洋より、日本海の冬の荒海に魅かれます。祖父が新潟にいたので、よく連れていってもらいました」
「そうなんですね。私は北関東の海なし県出身なので、海への憧れが強いんです。だから、東京に出てきてから、横浜の港の見える丘公園、山下公園、臨港パークによく行きました」
「横浜ですか。僕は、そういうお洒落な場所には疎いんです。でも、気持ちよさそうですね。久しぶりに潮風を感じてみたくなりました」
僕は東京に来てから、まだ海に行っていなかった。
仕事による忙しさもあるが、あなたとの日々が充実していたことの証明でもあった。
「もし、宜しければ、ご案内しましょうか?」
僕ははっとした。
仕事上がりの食事はともかく、プライベートで未婚のあなたと歩いていたら、妻帯者としてまずいのではないだろうか。
僕が戸惑っていると、あなたは続けて言った。
「公園仲間ができて嬉しいです」
「公園仲間?」
「はい、バイクのツーリング仲間とか、ロードバイク仲間、犬仲間と同じようなものです。私、海外旅行に行っても、大きな公園のベンチで読書したり、芝生の上で寝ころんだりするほど公園好きなので、仲間ができるのが嬉しいです」
【公園仲間】という健全なワードに、僕は心が浮き立った。
「志津課長も誘いましょうか?」と言うあなたに、僕は中華食い倒れツアーになるからやめようと言ってから、彼女の案内の申し出を受け入れた。
あなたとの関係に健全な名前が付いたことに、僕はすっかり安心していた。
あなたの存在が良い意味でも違う意味でも僕の中で育っていくのに、この時はまだ気が付いていなかった。
may_citrusさんの原作「澪標」、こちらも併せて読んでいただけると、物語をもっと楽しめます。