【コラボ小説「ただよふ」番外編】陸《おか》で休む 2 (「澪標」シリーズより)
僕は澪さんから受け取った香水瓶を枕元に置くと、澪さんに手を差し出した。
「……手を…握ってもらって…良いですか?」
僕は幼子のようにねだった。
「ええ、良いですよ。」
あなたは僕の手を包むように握ってくれた。
「兄さん、起きてる?入るよ」
見舞いに来た弟の千洋が病室に入ってきた。背の高い弟は、ベッドに寝ているといつもより大きく見えた。
千洋は僕の手を握るあなたに目を向けると、「兄さん、こちらの女性は?」と聞いてきた。あなたは僕の手を離してしまった。
「千洋…この人は会社時代の…部下だった…鈴木澪さん。僕の…婚約者だよ」
僕がそう紹介した時、「え?」と驚きの声を上げたのは、千洋だけではなかった。
「…兄さん、何故か彼女の方も驚いてるよ?」
千洋は状況が飲み込めず、困惑していた。
「澪さん…僕が鈴木姓を…名乗った方が…良いですか?」
「航さん、そうじゃなくて…私なんかと籍を入れて、御家族は不快に思わないのでしょうか?今は事実婚も珍しくないですし……」
どうやら、愛人だった自分が後妻に収まることで、僕と家族の間に不和が生じるのを気にしているようだった。僕はきちんと籍を入れて、夫として責任をもち、あなたとの縁を強固にしたかった。
「…千洋は、僕の再婚のこと…どう思う?」
僕は千洋に意見を求めた。千洋は「任せろ」と言わんばかりに頷いた。
「鈴木さん、はじめまして。俺は海宝航の弟の千洋です。俺は兄さんが残りの人生を無気力で過ごすより、楽しく生きてほしいです。頑なな兄さんが手を繋ぐほど心を許しているあなたは、伴侶に相応しいと思います。」
千洋は僕の再婚に賛成してくれた。
「でも、航平さんや航平さんの奥様は、籍を入れるのを許してくれるでしょうか…」
あなたは眉間にシワを寄せた。
「息子は、そもそも…僕たちの仲に…納得していなければ、あなたを…ここに連れては…来なかった。あの子は…そういう子です。航平、外で話を聞いているんでしょう?入って…きなさい!」
「父さん、僕も40代半ばだから『あの子』って言うのはどうかと思う…」
航平が呆れ顔で、病室に入ってきた。
「自分の子どもは…親にとって、何歳になっても…子どもなんだよ。だから、君が…澪さんとの再婚について…どう思うか…聞かせて…ほしいんだ」
息子があなたとの仲を認めてくれているのは間違いない。しかし、海宝家に迎えるのを許してくれる確証はなかった。
航平は、母親譲りの優しい眼差しをあなたに向けた。
「僕は、小山の病院で鈴木さんと話してみて、もしも父や母を悪く言うような女性だったら、父の容態を告げずにそのまま帰るつもりでした。しかし、あなたは最期まで母に寄り添った父を誇りに思うと言ってくれました。妻と話し合ったのですが…あなたさえ良ければ、海宝澪さんとして父と人生の航海を共にしてもらいたいです」
航平はあなたに深く頭を下げた。
「澪さん、あなたは…海宝家にとって…大切な恩人です。自分の存在を…後ろめたく思わないで…ください。愛人ではなく、僕の妻になってください!」
僕は頭を下げられない代わりに、あなたを真っ直ぐ見つめた。
「はい、よろしくお願いします!」
あなたは目を潤ませて、結婚の申し出を受け入れてくれた。
夕方頃、息子の妻である美生さんが小学校帰りの孫たちを連れてきた。
「おじいちゃん、生きてた〜!」
弟の彼方が、僕の姿を見て号泣した。
「彼方、ここは病院だから大きな声出さないで!!」
歳の離れた弟を注意する兄の航生は涙目だった。
「航生、彼方、心配かけて…ごめんよ」
僕は震える手で孫の頭を撫でてやった。
孫たちは、病室の端に遠慮がちに立っていたあなたの存在に気づいた。
「おじいちゃん、この人だあれ?」
彼方は初対面の人にも物怖じせず、大きな目を輝かせていた。
「航生、彼方、この人新しいおばあちゃんになってくれるって」
千洋が僕の代わりに説明してくれた。
「はじめまして!鈴木…澪です」
あなたは孫に頭を下げた。
「おばあちゃんになったら、『海宝』になるよ!」
と千洋が明るい声で付け加えた。
孫たちはあまり理解していないようだった。あくまで、孫たちにとってのおばあちゃんは実咲さんだった。
「み…『みおちゃん』?」
戸惑いがちに、彼方があなたを呼んだ。
「彼方、年上の女の子に『ちゃん』は無いよ。『みおさん』でしょ!」
注意している航生も、女の子と言ってしまっていた。
孫のやり取りに、あなたは「まあ!」と照れくさそうにしていた。僕は、30年近くかかった下の名前呼びのハードルを一瞬で超えていった孫たちに苦笑していた。
孫たちや千洋が帰った後、病室に静けさが戻ってきた。
「そろそろ、私も小山に帰ります。明日も仕事なので……」
あなたは看護師の師長だ。仕事に穴を空けさせるわけにはいかなかった。
「すまな…かったね。急に…連れてこられる形に…なってしまって」
「いえ…あなたが倒れたって聞いたら、居ても立っても居られなくなって、航平さんに連れてきてもらったのは私の意思ですから。…実は航平さんが目の前に現れた時、航さんの幽霊が最期に会いに来てくれたんだと思ったんです」
「よく…若い頃の…僕に…生き写しって言われるんですよ。僕には、亡くなった実咲さんに目元が似てると思うんですが……」
「あなたと別れてから、恋愛感情とは無縁だったのですが……航平さんの姿を見て、あなたに恋をしていた頃の感情を取り戻せたんです」
「実際の…僕に会ったら、おじいさんに…なってて、びっくり…したでしょう」
「今も戸惑ってますが…それは航さんもでしょう?」
あなたは頬を膨らませた。
「僕は…11歳の差が…ここまで…出るのかって方に…驚いてます。あなたは…まだまだ若い……」
僕は力無く笑った。
「私、生きている航さんとまた会えて嬉しいです。退院したら、またお出掛けしたり、美味しいものを食べたりしましょうね!」
あなたは僕の顔を熱っぽく見つめていた。
「ええ、必ず!」
僕はあなたとの約束を、今度こそ果たしていくと誓った。
あなたは微笑むと、僕の鎖骨に口付けし、小山まで帰って行った──
誰もいなくなった病室で、僕は亡くなった妻の実咲さんに心の中で話し掛けた。
実咲さん、ごめん。僕は彼岸には行けなくなった。実咲さんが大切な人でなくなった訳では無い。実咲さんを喪った悲しみはまだまだ癒えそうにない。だけど、それ以上に、生きて…側にいたい人がいるんだ。もう、あの女性を1人にしたくないんだ。僕は残された命を、澪さんとの新しい人生の航海に出ることにしたんだ。
死者との対話は自分の心との対話なのかもしれないと、あなたは昔言っていた。僕は実咲さんを通して、自分と話していたのかもしれなかった。
2人の結婚式のお話を、原作者may_citrusさんが描いています。