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グラニュレーション 4話


 愛佳は柴三郎の餌を準備してから、真中とアトリエスペースに移動した。
 出しっ放しのパレットから、嗅ぎ慣れた絵具の匂いがして、愛佳は落ち着きを取り戻しつつあった。

 愛佳はサイドテーブル代わりに使っているスツールを出して、真中に座るよう促した。真中がスツールに座ると、愛佳は立ったまま、意を決して話し始めた。

「真中さん、『我が子を喰らうサトゥルヌス』ってご存知ですか?」
「ゴヤの有名な絵ですよね」
「ローマ神話の豊穣神サトゥルヌスは『将来自分の子どもに殺される』という予言を受けて、次々と我が子を呑み込んでいく。しかしゴヤは頭から丸齧りする我が子を描きました」

 愛佳は本棚から画集を取り出して、「我が子を喰らうサトゥルヌス」のページを開いた。真中は凄惨なその絵を見て、眉を顰めた。

「私はこの絵を図書館の画集ではじめて見てから、夢に見るようになりました。恐ろしい巨人の視線に射られると、私は自分が喰われてしまう恐怖で身動きが取れなくなる。そして、巨人は現実でも私を見張っていて、異性の視線を意識すると拒絶反応を起こしてしまうんです」
 愛佳は画集を乱暴に閉じて、作業用テーブルに置いた。

「もしかして、さっきの『元カレ』にも拒絶反応を?」
「はい。私は大学生になるまで誰ともお付き合いしたことがありませんでした。だから自分の体質に気づかずにいました。大学で出来た友人に、『この歳にもなって恋人がいないのは変だ』と言われて、紹介されたのが外山くんでした。外山くんに見られる度に違和感はあったのですが、決定的になったのは、恋人同士の『行為』をしようとした時でした。あろうことか、私は吐いてしまったのです」

 愛佳は外山が「うわっ、最悪」と、自分を汚らわしいものとして見ていたことを思い返していた。

「私はそのまま外山くんに振られました。彼を紹介してくれた友人にも泥を塗ってしまいました。私は最悪です」
 愛佳の感情の吐露に、真中は横に首を振った。

「それ以来、異性に性的な視線を向けられるのが怖くなりました。正直、真中さんも怖かったです。だけど、真中さんが『味方だ』と言ってくれたら、不思議と安心したんです。だからこのことを打ち明けようと思えました。真中さんにはご迷惑をかけてしまい、すいませんでした」
 愛佳は深々と頭を下げた。

 夢の中の巨人が怖くて、異性に恋愛感情を抱けないなんて、理解してもらえないだろう。自分だって、よく解っていないのだ。

「こんなこと言われても困りますよね。どうか気にしないでください!」
 話を終わったと、扉のドアを開けようとした時だった。

「待ってください!僕の話も聞いてもらえませんか?」
 スツールから立ち上がった真中が呼び止めると、愛佳は彼の方に向き直った。
「僕にも、他人には理解しがたい秘密があるんです」
 そう切り出した真中の目は、哀しさを物語っていた。

「真中さん、私でよければどうぞ話してください」
 真中が「味方だ」と言ってくれたように、自分も「味方」でありたいと愛佳は思った。

「実は……過去に男性とも女性ともお付き合いしたことがあるんです」
 真中のカミングアウトに驚いたものの、真中の中性的な容姿、外山を追い払った時の妖艶な仕草を思えば、納得せざるを得なかった。

「真中さんの恋愛対象は性別を問わないってことですか?」
 真中は縦に首を振った。
「誤解しないでいただきたいのは、誰彼構わず恋に落ちているわけではないことです」
 マイノリティは、少数だからこそ偏見に晒されやすい。心ないひと言で傷付くこともあるのだ。

「僕がはじめて交際したのは、高校の非常勤講師でした。年齢も近くて、先生というより先輩のような感じで、とても大好きでした」
 先生のことを話す真中の表情は、当時の恋する少年のものだった。

「もちろん、非常勤とはいえ教師と生徒なので公になれば大事になります。秘密の関係は、僕が卒業して地元を離れるまで続きました。僕がメールをしても、返信がないことが増え、関係は自然消滅しました」
 真中はずっと返ってこないメールを待ち続けていたのだろうか、恋愛感情に乏しい愛佳でも想像に難くなかった。

「何年か過ぎて、地元に帰った僕は、姉の友達の女性に告白されました。はじめは先生を忘れる為の交際でしたが、ハッキリとした性格にだんだん惹かれていきました。この時、僕は恋愛対象に男女の区別がないことに気づいたんです。しかし、彼女は違った。だから僕は……」
「『先生との過去』を隠していた?」
「ずっと隠し通していければよかったのに」
真中の瞳に陰りが見えた。

「事件は僕と彼女の婚約中に起こりました。先生が学生と関係を持ったことで警察に捜査されたのです。先生のスマホに僕の連絡先があったことで、僕のところにも事情を聴きに来ました。メールのやり取りは、先生も僕も残していなかったので、何とか誤魔化しました。だけど、警察沙汰になったことで、彼女との婚約は破棄、家族との縁も切れてしまいました」

 愛佳は腑に落ちなかった。
「どうして?彼との関係は警察にバレなかったのでしょう?」
「先生のことを話す僕の様子で、彼女は勘づいてしまったんです。それからは、『男女見境なくて気持ち悪い』って言われて……友達だった姉の耳にも入ってしまいました。彼女との恋も壊れ、過去の先生の関係も否定され、僕は何もかも失ってしまいました。僕はもう恋することが怖い!僕は地元から逃げてきたんです」
 真中の形の良い手が、自身の泣き顔を覆った。覆い隠しきれない涙が、零れ落ちていった。


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