【まとめ用】紫陽花の季節、君はいない 34〜44話
涼しい風が咲き誇る紫陽花の森からさわさわと吹いてきた。いないはずの彼女も「心配していたんだよ」と言っている気がした。
そういえば、闇から目を覚ます前に見たあの光景は何だったのだろう。あれも「妄言」だと言われてしまうだろうか。
言おうかどうか迷っていると、
「夏越殿、何か言いたげですね」
と御葉様に言われてしまった。
「実は……目を覚ます前に、八幡宮の拝殿で俺と紫陽の再会を願っている女の子を見たんです。でも、俺はその女の子のことに会ったことが無いんです。そもそも俺と彼女のことを知っているのは、貴女達精霊だけですし。ただの夢だろうと言われればそれまでなんですが……気になって」
俺がおずおずと尋ねると、御葉様の鈴が自ずと鳴った。
御葉様は、まるでスマホのメールを読んでいるような表情で鈴を眺めていた。
「夏越殿、これはただの夢ではないと八幡神様が仰っています。貴方達が再会することを本気で願っている人間がいると」
そういえば、御葉様は八幡神様の声を聞くことの出来る唯一の精霊だと紫陽が以前に言っていた。
「しかし……御葉様、たった今夏越はその者に会ったことがないと申したばかりでは」
「涼見。その人間はおそらく夏越殿がこれから出会うのでしょう」
「では御葉様、その者は時空を越えるほどの縁で繋がっているということですか」
「はい」
御葉様と涼見姐さんの会話は俄に信じられるものではなかった。未来の人間だなんて、SFじゃあるまいし。
「夏越殿、信じるか信じないかは貴方次第です。でも、出会えばきっと『その人』だと分かるでしょう」
御葉様は俺に向かって微笑んだ後、鈴をひと振りした。おそらく八幡神様との交信を切ったのだろう。
思い返せば、あの光景で見えた女の子の顔、知らないはずなのに親しみのある感じがした。あれが未来かどうかはともかく、陽だまりのような光景を心に焼き付けた。
雲が晴れてきて、御涼所に朝日が差し込んできた。
家に帰ろうと立ち上がった時、御葉様が言った。
「夏越殿、これからは年に一度『夏越の祓』の日に八幡宮に参拝してください。茅の輪をくぐるのは夏越殿にとって怖いことかもしれません。しかし、八幡神様からの加護で闇に飲まれる事態は避けられます」
俺は御葉様の言葉に、すぐに首を縦に振ることは出来なかった。
茅の輪は、俺にとって別れの象徴だ。紫陽が精霊の時は夏越の祓の日に次の年まで眠りについてしまったし、彼女が精霊としての死を迎えた時も茅の輪をくぐる儀式をした。
俺が御葉様の提案の返事を渋っていると、涼見姐さんが、
「夏越……年に一度ぐらい紫陽探しについて報告しに来てくれぬか。私達は八幡宮から出られぬのだ」
と俺に頼みごとをしてきた。
精霊達も紫陽の生まれ変わりの行方が気になっているのだ。
「……分かった。6月30日の『夏越の祓』の日に、紫陽を見つけるまで毎年報告しに来るよ」
「そうか。約束だぞ!」
俺は精霊達と約束を交わし、自宅に戻った。
7月24日。昨日から1年遅れの東京オリンピックが始まった。2020なんて、俺の心のようだと思った。
柊司はあおいさんの誕生日を祝う為に出掛けて行った。
俺は二人を送り出した後、ある場所に面接に向かった。面接地に着いて、「受かりたい」と思えたのははじめてだった。
面接を終え、外に出た俺はスーツの上着を脱ぎネクタイを外した。周りは国道と田んぼに囲まれていて、蒸し暑い。しかし今までの面接の中で一番手応えがあったので、俺の心は軽かった。
面接地からちょっと離れた、小さな神社のバス停まで15分ほど歩いた。辿り着いてすぐM駅行きのバスが来た。次にバスが来るのは1時間後なので、運が良かった。辺りを見回しても避暑になるような建物は無かったから、乗り過ごしてたら確実に熱中症になっただろう。県庁所在地とはいえ、街はずれなので俺以外に乗客はいない。市街地に入るまで貸切状態が続いた。
自宅の最寄りのバス停を過ぎ、M駅に着いた。
今日はあおいさんの誕生日。プレゼントを買うため、駅ビルの店を見て回った。しかし、何を贈れば女の人が喜ぶのかさっぱり見当がつかない。
恋人の紫陽は精霊だったので、まったく参考にならない。
そこで発想を変えて、あおいさん自身に注目してみた。
実は俺はあおいさんから先月の30日に誕生日プレゼントをもらっている。今日面接に締めていった紫陽花ブルーのネクタイである。
「夏越くんの魅力が面接官に伝わる御守りよ!
色は柊司くんと一緒に選んだから、似合うこと間違いないわ」
この夫婦は本当に俺のことをよく見ている。
このネクタイを締めるようになってから、面接で上がることが少なくなった。今日の面接も、面接官が苦手だったはずの女性だったのに落ち着いて話すことができた。だから俺もあおいさん本人をよく見て選ぶべきと思い至った。
「……あおいさんが使ってくれそうなものかぁ」
あおいさんの姿を思い浮かべてみる。そういえば、以前と比べてだいぶ髪の毛が長くなってきた。
「髪の毛をまとめるアイテムがいいかもしれない」
俺はパールとキラキラしたビーズが編み込まれたバレッタを選んだ。
店員に包装してもらっている間、去年紫陽が、俺からプレゼントされたあじさいまもりを、涼見姐さんにかんざしにリメイクしてもらっていたことを思い出した。参考にならないなんて思ってごめん、紫陽。
満月が昇ってきた頃、アパートに帰ってきた。
柊司達の部屋が暗い。まだ外出先から戻っていないようだ。あおいさんのプレゼントを渡すのは明日にしよう。
俺は部屋のエアコンを着けた後、外出先でかいた汗をシャワーで流し、Tシャツ姿に着替えた。スーツはクリーニングに出す為に、紙袋に畳んで入れた。
駅ビルの惣菜屋で買った唐揚げとおひたしを器に盛り付けた。朝炊いていったご飯をレンジで温め直して、冷たいお茶で夕飯を済ませた。
ベランダに出ると、何処からか歓声が聞こえてきた。近所の家でオリンピックでもテレビ観戦しているのだろう。外は月明かりで照らされている。俺は満月を隠すようにあじさいまもりをかざした。
「──誕生日か」
紫陽が生まれ変わるために消えてしまってから、一年以上経つ。彼女はもう生まれ変わってきたのだろうか。
「会いたいよ、紫陽」
俺はあじさいまもりを強く握り締めた。
俺が不覚だった。
あじさいまもりを持ったまま眠ったせいで、起き上がる時に、涼見姐さんがリメイクしたかんざし部分を折ってしまった。
紫陽の大事なものというのもあるが、かんざし部分は姐さんの小枝で出来ている。紫陽の悲しむ顔と姐さんの激怒する顔が、同時に浮かんだ。
俺が凹んでいると、
「な~ごし、ぅはよ!」
「うわ~!!」
柊司が寝室に急に現れたので、朝から叫び声をあげてしまった。
「夏越、鍵開いていたぞ。無用心だな。それにしても、玄関に置いてある木の枝、丈夫そうだな。護身用か?」
柊司は姐さんの枝がある玄関の方を指差した。
「ああ、知人にもらったんだ」
さすがに精霊からもらったとは言えない。
「そうか。夏越も俺達以外に心配してくれる知り合いがいたのか。良かった、良かった」
柊司が寝癖のついた俺の頭をくしゃっと撫でた。
「ところで柊司、何か用があって来たんじゃないのか?」
「そうだった。夏越、昨日詩季ねえが『夏越くんにあげて』ってコンポートとジュースくれたんだ。ちょっと冷蔵庫入れてくる」
そう言って、柊司は重そうなレジ袋を持ってキッチンに向かった。
詩季さんは、柊司の一番上の姉さんである。身長が高く、顔立ちは柊司に似て目鼻立ちがはっきりしている。柊司の姉妹の中で唯一同じ県在住なので、詩季さんに子どもが生まれる前は、時々弟に会いにやって来ていた。さっぱりした性格なので、俺も苦手意識なく話すことが出来る。
「夏越~、朝飯作るからキッチン借りるな~!」
どうやら冷蔵庫を開けたら、柊司の料理スイッチが入ってしまったらしい。俺は朝食を作ってもらうことにした。
柊司が料理をしている間に、俺は洗顔と着替えを済ませた。折れてしまったかんざしは、ハンカチで包んでデスクの引き出しにしまった。
デスクの上に置いていたあおいさんへのプレゼントに目を向けた。そうだ、柊司に渡してもらおう。俺はプレゼントを持って、キッチンに向かった。
「おう、今出来たところだ。盛り付けるから、ちょっと待ってろ!」
昨日が余程楽しかったのか、柊司は鼻唄まじりに盛り付けた料理をテーブルに並べていった。俺は柊司に冷たいお茶を出してやった。
「いただきます」
俺は茄子の味噌汁から口をつけた。
「……旨い。自分で作ると味が安定しないんだよな」
「夏越、具によって味噌の分量を変えるんだよ。ワカメみたいにしょっぱいのと、豆腐みたいに水分含んでるのは、特に気をつけろよ」
柊司のお陰で、俺の料理の腕は(時々失敗するけども)簡単なものなら作れる位に上がった。生まれ変わった紫陽に、美味しい朝食を振る舞うのもいいなと思っている。
「究極な話、面倒なときは味噌汁に何でも入れてしまえば良いんだよ。肉でも野菜でも。有名な料理研究家も一汁一菜でも良いって言ってるし」
それは適当過ぎると思うが、頭の片隅に置いておこう。
ご飯に玉子焼きやウインナー、生野菜サラダ、シンプルでど定番の朝食なのにどれも美味しくて、あっという間に完食した。
「ご馳走さまでした」
「おう」
俺も柊司も手が空いた今が、渡すタイミングだ。
「し、柊司。これをあおいさんに渡してくれないか?こないだお前とあおいさんで俺の誕生日にプレゼントくれただろう?1日遅れたけど…あおいさんに『おめでとう』って、伝えてくれないか」
俺は柊司にプレゼントを差し出した。
ビシッ!
柊司はテーブルから乗り出し、俺にデコピンを食らわせた。
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