グラニュレーション 5話
愛佳とは違った事情で、恋愛をすることが怖い真中。リスクがあるのに、真中はなぜここまで打ち明けてくれたのか。何にせよ、二人はお互いの秘密を共有してしまった。
愛佳は出しっ放しだったパレットにセルリアンブルーとキナクリドンマゼンタを出し、たっぷりの水で混色した。
「真中さん、グラニュレーションって知っていますか?」
愛佳のなんの脈絡も無い質問に、真中は覆っていた手を顔から離した。
「絵具の『分離色』のこと?」
真中の答えに愛佳は頷く。
「最近、性別は男女の二つだけではなくて『グラデーション』だって言うじゃないですか。でも、私は分離色だと思うんです」
愛佳は水彩紙に混色した絵具を、さあっと塗り広げた。
「本当にグラデーションだったら、カミングアウトした人たちは、なぜ変わり者のように扱われるのでしょうか。本人はそのままの自分を肯定してほしいのに……」
紫色に塗り広げられた絵具は、じわりと分離していく。
「水と混ざり合わなければ分離しないように、私は人と関わらないようにしようと『絵描き』になりました。それでも、最近親の声に出さないものの『結婚はまだか』という視線に、心苦しくなります。親にとっては、私は普通の娘ですから」
愛佳は、筆洗に絵具の付いた筆を浸した。絵具が水中に広がりまだらに混ざっていく。
愛佳は、ざわざわした感情を振り切るように決意を固めた。
「あの、もし真中さんが良ければ、表向き恋人ということにしませんか?真中さんが、本当に好きな人が出来るまでの間で構わないので」
「偽装恋人ってこと?愛佳さんはそれで良いのですか?」
真中は目を丸くした。
「恋人がいると知らせれば、親も少しは安心すると思うんです」
「そういうことですか。でも、もしかしたら僕は君に恋をするかもしれません。その時は……」
「お別れです。私には、真中さんの想いには応えることは出来ないので」
恋愛が怖いというならば、恋愛することが出来ない自分といれば真中も安心出来るに違いないと、愛佳は思っていた。
真中はしばらく考え、答えを出した。
「どうぞ宜しくお願いします」
二人は深くお辞儀を交わした。
翌日、愛佳が絵を描いていると、スマホに電話がかかってきた。母親からだった。「愛佳ったら、自分からは電話かけてきてくれないんだもの」と不満を漏らすのがお約束である。
「お母さん、あのね、私お付き合いしている人がいるの。『真中龍史』さんっていうの」
愛佳はさっそく真中とのことを報告した。
「え〜?どんな人?」
母親に聞かれ、愛佳は彼が両性愛者であることは伏せ、ギャラリーで働いていること、柴三郎がとても懐いていることを伝えた。
「柴三郎さんが懐いているなんて、良い人そうね。愛佳から浮いた話なんて聞いたことなかったから、嬉しいわ」
スマホの向こう側では、壁にかけられた油彩画に面影のある、母親の笑顔が想像出来る。
「ぜひ顔も見てみたいわ。イケメンなの?」
「イケメンというか、中性的で整った顔だと思うよ」
「まあ、素敵じゃない!そんな人に好きになってもらえて幸せね」
「好きになってもらえて」という言葉に、愛佳は母親を欺いていることの罪悪感を覚えた。それでも愛佳は、異性に意識されると拒絶反応を起こすことは、家族に知られたくないのだ。
「そろそろ柴三郎さんを散歩に連れて行く時間だから、電話を切るね!」
愛佳は逃げるように、電話を切った。
柴三郎は「散歩」という言葉を聞いたので、激しく尾を振っていた。本当はまだ早い時間だが、外は曇っているので散歩に行くことにした。
アトリエを出て、ギャラリーの前を通りかかると、ギャラリー内で真中が接客している姿が見えた。物腰の柔らかな真中の作品の解説に、お客様はリラックスして聴き入っているようだった。
真中が自分の作品を解説するなら、どんな風に説明してくれるのだろう。愛佳はこそばゆくなって、そそくさとギャラリー前を通り過ぎていった。
坂道をグングン下り、池のある公園に着くと、愛佳は人が見ていないのを確認して、ベンチに寝そべってみた。
はじめて会った真中は、ここで空を眺めていたと言っていた。青空でなく、雨が降りそうな曇天を。
同じことをしてみても、真中が見ていた景色は判っても、真中が感じていた哀しみは解らなかった。
柴三郎が愛佳の顔に近づいて、鼻息をフンフン鳴らしてきた。愛佳は徐ろに体を起こした。
「帰ろうか、柴三郎さん」
愛佳は柴三郎の頭を優しく撫でると、来たときとは別の、なだらかな坂道を上って帰った。
ギャラリーの営業時間が過ぎた頃、オーナーからLINEが届いた。昨日納品したばかりの柴三郎の絵が、さっそく売れたとの知らせだった。真中の解説に心打たれたお客様が買ってくれたとのことだった。愛佳はアトリエから飛び出し、ギャラリーに向かった。
真中は、壁にかけられた柴三郎の絵の前に立っていた。
「愛佳さん、この絵とても柴三郎さんへの愛に溢れているね。お客様の元に送る前に、よく見ておきたくて……」
散歩の時に愛佳が見たのは、自分の作品を解説している真中だったのだ。