【コラボ小説「ただよふ」番外編】陸《おか》で休む 8 (「澪標」シリーズより)
「──およそ60年前の春、私と妻は教師の家同士のお見合いで出会いました。当時の光景は、今でも瞼の裏に焼き付いています。桜の美しい季節でした。料亭の席で、私の向かいの席に座ったのが、妻になる女性、薫子さんでした。化粧を施され、桜色の着物を着た彼女は、浮かない顔をしていました。私は、彼女が結婚に乗り気ではないのだと思い、縁談が決まってしまう前に、料亭の外に彼女を連れ出しました。
『もしも結婚が嫌なのならば、私の方から破談を申し立てますが』と私は彼女に言いました。
しかし、彼女は横に首を振りました。
『私はあなたとの結婚が嫌なのではないんです。ただ…私が女というだけで、家の跡取りになれなかったのが、悔しいのです』と、涙を流しました。
海宝さん、今の時代なら考えられないでしょうが、当時は男女雇用機会均等法が制定されて数年、地方ではまだ、跡は男性がとるのが当たり前だったのです。薫子さんは長子でしたが、弟がいました。彼女は、とても優秀な人間でしたが、跡取りにはなれませんでした。薫子という名前も、男子の誕生を期待した親が『薫』と付けるつもりだったのが、生まれたのが女子だったので、『薫子』となってしまったと、彼女は苦笑しました。私はそんな彼女を見て、結婚したならば、鈴木家の次期家長は自分だけど、彼女を尊重しようと心に誓いました。私と彼女は夏に鈴木家の氏神様の祀られている神社で結婚式を挙げました」
澪さんの父親は、馴れ初めが長くなってしまったと目を細めた。
海宝家は、祖父母の代から恋愛結婚だった。見知らぬ男女が夫婦になるのは、僕には想像が出来なかった。
「妻は鈴木家での新生活に戸惑っていたものの、教師の仕事と慣れない家事を懸命にこなしていました。そんな彼女を、私や両親は好意的に見ていました。数か月前まで他人だった私たちは、共に過ごすうちに夫婦になっていきました。冬のはじめの頃、妊娠が判明すると、妻は産休に入りました。妻は、担任を途中で離れることが悲しそうでしたが、母体の安全を考えると仕方のないことでした。家族が寝静まった頃、彼女のすすり泣く声を何度か聞きました。私が宥めようと妻に近づくと、妻はさっと涙を拭いて、気丈に振る舞っていました。慣れない環境、妊娠により変化していく肉体、生きがいだった仕事を休まなければいけないこと……妻は孤独でした。だけどプライドが、夫である私にすら弱音を吐くことを許さなかったのでしょう。妻は出産直前まで、出来る限りの家事をこなしていました。」
父親の話を聞いていて、僕は実咲さんが妊娠中の不安定だった時期のことを思い出した。実咲さんの辛さを、男である僕には共有出来なくて歯痒かった。
「澪が無事に生まれてきてくれた時は、この上なく嬉しかった……」
「……分かります。僕も息子を授かった時は、妊娠の継続が危ぶまれたこともあって、生まれてきた奇跡を心から喜びました。妻と息子を命をかけて守り抜く覚悟を強固にしました」
「そう、海宝さんは命が生まれてくるのが奇跡だと分かっている人なのですね……」
父親の言い方には含みがあった。娘が子宝に恵まれなかったことに、思いを馳せていたのだろう。
「澪さんは、どんなお子さんだったのですか?」
「幼い頃の澪は一見おっとりとしていました。普通ならば疑問に思わないことでも、納得するまで考え続けていました。感受性も鋭くて、友達が泣いていたら放ってはおけないし、家族が…特に母親が喜ぶなら努力も惜しまない子どもでした……」
澪さんから母方の曾祖父に「お母さんのようになれ、お母さんをいじめるな」と言われ続けていたと、僕は聞いていた。幼い澪さんは母親を喜ばせることが、家族全体を喜ばせることだと理解していたのだろう。
「妻も澪には期待していました。『これからは、男女平等がますます進んでいくはず。結果さえ残せれば、澪は鈴木家の跡継ぎとして認めてもらえる』と思っていたようです。ただ、周りの期待が大き過ぎて、澪はそれに応えようと精一杯努力したのですが、成績は中の上、地元で一番の進学校に合格出来るかどうか、ギリギリのラインでした」
「志望校のランクを少し下げることは出来なかったのですか?」
「今思えば、そうするべきでした。しかし、鈴木家も妻の実家も、その高校に進学するのが当たり前になっていました。両家の父母も、孫である澪がここに進学するのは当然だと信じきっていました。鈴木家を知る者は、澪が優秀だと思い込んでいました。澪には逃げ道はなかったのです」
プレッシャーに押し潰されそうになりながら、実力以上の結果を出さなくてはならないと、努力を続けて、どれだけ苦しかったことだろう。
「志望校の願書を出す頃には、何とか偏差値が合格ラインまで上がったので、澪は進学校を受験しました。しかし、澪の桜が咲くことはありませんでした。家族の落胆は相当なものでした。母方の実家は、『この家にこんなことがあっていいのかい、何かの間違いだよ』と嘆いていました。澪を責めないように気を遣っていたのでしょうが、妻が可哀想だと口々に言われ続け、澪は辛かったと思います」
「当の奥さまは、何と仰っていたのですか?」
「『私の価値観を澪には押し付けてしまった。期待して、無理をさせてしまった。これからは自由の時代。澪の好きなように生きればいい』と。私たち家族は、『五体満足が一番』というのが口癖になっていきました。ただ……両家の父母は世間体を気にする人で、進学校に受かること前提で周りに自慢してまわっていたので、恥をかかせてしまいました」
「誰も澪さんの気持ちに寄り添ってあげなかったのですか?今までさんざん期待しておいて、『好きに生きろ』なんて言われたら、見放されたのと同じではないですか!!」
僕は思わず、声を荒らげてしまった。
「ああ、だから澪は私たちの顔色をうかがうようになってしまったのですね。大学の進路を決める時、一流大学を受けようとした娘に『どこでもいいよ』と言ったら、『そうだね。分不相応なところを受けて、浪人して恥をかかせないようにするね』と、志望校を東京の中でも三流の大学に変えたのですね。大学卒業して、こちらに戻って来なかったのも、自分が鈴木家の恥だと思ったから……駄目ですね、私は肝心の娘の気持ちを理解することが出来ていなかった」
父親は後悔の念に駆られていた。
「……これは僕の想像なのですが、澪さんが試験運営の会社に入ったのは、教師にはなれなかったけれど、あなた方家族と繋がりを持っていたかったからではないでしょうか。僕たちがしていた仕事は、教師の負担を減らすためのものでしたから」
澪さんから聞いたわけではない。だけど、澪さんならそうする気がした。
「海宝さんが言うと、そうかもしれないと思えます」
父親は口角を上げた。
澪さんが実家について語るシーンは、may_citrusさん原作「澪標」6話後半にあります。