紫陽花の季節、今年も君はいない
「紫陽花の季節、君はいない」の番外編です。
2023年6月30日。雨は降ったり止んだりを繰り返している。俺は午後から休みをとって、八幡宮の夏越の祓に参加した。
茅の輪を潜るのは、恋人だった紫陽花の精霊の紫陽を失った時のことを思い起こさせる。それでも儀式に参加するのは、八幡宮に住む精霊たちとの約束だからだ。
夏越の祓を終えて、俺は八幡宮の御涼所に向かった。御涼所にはケヤキの大木が葉を茂らせており、その周りを紫陽花が咲き乱れている。
「久しぶりだな、夏越」
アルトな声の主は、ケヤキの木の精霊・涼見姐さんだ。深緑の髪を一つに束ねたグレーの着物姿は、出会った頃と変わらない。
「久しぶり、姐さん。変わらないね」
「精霊の姿は、基本的に年齢を重ねないからな。本体は、着実に年輪を刻んでおるぞ」
姐さんの本体は、樹齢三百年を超えている。
「姐さん、まだ紫陽の生まれ変わりを見つけられないんだ……」
俺は落胆して報告すると、姐さんから叱咤された。
「ど阿呆!紫陽が精霊としての命を終えてまだ3年ぞ!生まれ変わりも、見つけるには幼すぎる。気長に探せ!」
「そうだな。まだ落ち込むには早いな」
俺は姐さんの励ましに、気を取り直した。
「夏越、前から疑問に思っておったのだか、今日は母御の命日であろう、墓参りに行かなくて良いのか?」
「……俺は母の墓の場所を知らないんだ。だから、行きたくても行けないんだ」
俺の命と引き換えに他界した母。母の従妹でもある義母に嫌われていた俺は、母の写真すら見せてもらえなかった。
「そうか、それは淋しいな」
姐さんが俺の髪をくしゃりと撫でた。
精霊のいない紫陽花が、ずっと風に揺れていた。
自宅アパートに帰ると、隣人で親友の柊司がやってきた。
「おかえり、夏越。今からうちに来い!」
柊司に引きずられながら、俺は隣の部屋に来た。
玄関のドアを開けると、クラッカーが鳴り響いた。
「お誕生日おめでとう、夏越くん!」
そう言ったのは、柊司の妻のあおいさんと、今年2歳になる娘のひなただった。
「はっぴぃ~ば〜すで〜、なごしくん〜」
覚えたての歌を一生懸命歌うひなたを見て、俺は思わず泣いてしまった。
「ぱぱ、うそつき!おうた、よろこぶっていったのに。なごしくん、ないちゃった!」
ひなたは自分が俺を泣かしてしまったと、自分が泣きそうになっていた。
「ひなた、俺は悲しくて泣いたんじゃないよ。嬉しくて泣いたんだよ」
俺はひなたの頭を優しくポンポンした。ひなたはニコリと笑ってくれた。
今は誕生日を祝ってくれる人たちがいる。いつか、紫陽と誕生日を祝う日もくるのだろうか。
【完】