紫陽花の季節、休日
「紫陽花の季節、君はいない」の番外編です。
2022年5月28日土曜日。昨日の雨が嘘のような青空が広がっている。
4月から働いている植物公園自体は休日も開園しているが、俺の配属された部署はGW以外の土日祝日は休みである。
「夏越くん、行ってきます。」
あおいさんは6月から職場復帰することになっている。
今日は産休中に伸びた髪を切りに美容室に行った後、八幡宮にひなたが無事に産まれた御礼参りに家族で行くことにしたのだ。
俺も参拝に誘われたが、6月の夏越の祓に行くので遠慮した。
あおいさんは自分の自動車の運転席に乗り込み、エンジンをかけた。
柊司は後部座席のチャイルドシートにひなたを座らせ、自分はその隣の席に座った。
俺はアパートの自分の部屋から、彼らを見送った。
ひなたが生まれて以来、こんなに静かな休日は久しぶりである。
俺は近所の裏道にあるケーキ屋で買ったレアチーズケーキを食べるため、コーヒーを入れた。
俺は昨日書店で買ったばかりの、紫陽花の写真集をキッチンのテーブルに持ってきた。
今まで俺にとっての紫陽花は八幡宮のそれであり、かつての紫陽花の精霊【紫陽】だった。
だけど社会人になり俺の世界は広がっていき、他の土地の紫陽花にも興味が広がってきたのだ。
コーヒーを一口含み、俺は写真集のページを捲った。
有名な鎌倉の寺の手入れの行き届いたもの、電車の線路横に続くもの、崖に自生する逞しいもの…。
もしもこれらの紫陽花にも精霊がいたなら、それぞれの生き様の姿をしているに違いないと思った。
フォークでケーキを崩し、ページを捲る度に口に運んでいった。
ケーキを食べ終えると、俺はケーキ皿とフォークをシンクの水の入った洗い桶に浸した。
コーヒーのおかわりを入れ、再び写真集の続きを眺めた。
1冊堪能したら体が強ばっていたので、散歩に出掛けることにした。
外に出ると、青空が広がっているが、湿気を含んだ風が入梅間近の気配を感じさせた。
少し歩くと、6月からひなたが通う保育園の前にたどり着いた。
園庭には紫陽花が咲き始めていた。
朝は柊司やあおいさんがひなたを保育園に預けに行くが、お迎えは俺が行くことになっている。
3人の中で、帰宅が一番早いのが俺だからだ。
他人の俺がひなたを迎えに行くのに園の許可を取りに行った時、保育士が微妙な顔をしていた。
どうやら、訳ありの関係だと勘違いされたようだった。
柊司やあおいさんが、俺が家族ぐるみの親友で隣人であることをきちんと説明したので、誤解が解けて無事にお迎えに行く許可がおりた。
散歩を続け、公園にたどり着いた。
もう少しひなたが大きくなったら、ここで遊ばせるのも良いと思った。
帰宅すると、沈黙の気配に淋しさを感じた俺は昼寝をすることにした。
夢の中に現れた紫陽は、「また会えたね、ナゴシ!」と嬉しそうに微笑んでいた。
目が覚めると、涙が溢れていた。
生まれ変わるために、精霊の生を終えて消えた紫陽。
彼女の生まれ変わりを見つけるまで、俺はきっと夢を見ては泣くのを繰り返すのだろう。
外から自動車が停まる音が聞こえてきた。
皆が帰ってきたのだ。
俺は涙を袖で拭って、出迎えに玄関を出ていった。
【完】