グラニュレーション 11話
個展二日目。朝刊にインタビューが掲載されたのと、土曜日ということが相まって、前日より絵を観に来てくれる客が増えた。
売却済みや予約済みを表す印がついている作品も何点かある。
真中の絵は非売品だが、「ぜひウチにお迎えしたい」という客もいた。
普段スニーカーばかり履いている愛佳は、ローヒールのパンプスでも足が痛くなってきた。
百貨店のスタッフに、「ちょっと席を外します」と声をかけて、休憩するためにカフェに入った。
店内は落ち着いた雰囲気で、人だかりに慣れていない愛佳はほっとした。
愛佳はテーブル席に座り、エスプレッソとレアチーズケーキを注文した。
絵を描く人間の性分で、飾られている絵画や店内の様子を観察してしまう。手元に紙と鉛筆があったなら、スケッチを始めてしまうだろう。
頼んでいたエスプレッソとレアチーズケーキを店員が運んできた。
愛佳は店員に会釈してから、エスプレッソに口をつけた。
美味しい。だけど、何か違う。
愛佳のコーヒーの基準は、ギャラリーのカフェスペースの味になっていたのだ。
真中と会わなくなってから遠のいていたその味を恋しく思うのであった。
個展二日目を終え、スマホを確認したら、父親からメールが入っていた。
「朝刊見た。明日母さんと観に行く。」と用件が簡潔に書かれていた。
荷堂家では、母親とは電話で話すが、父親とはめったに連絡をとらないので、久し振りに会えることが嬉しい愛佳だった。
この夜、愛佳は夢を見た。巨人の夢ではない。アトリエで『父親』が泣いている。愛佳も大声をあげて泣いている。しばらくすると、母親が愛佳を抱き上げ、「迎えに来たよ」とあやす。「俺の子……生まれて来なければ良かったのに」と絶望の眼差しで愛佳を見る『父親』。彼が断末魔の様な叫び声を上げたところで目が覚めた。
夢にしてはリアルだ。これは記憶だ、忘れてしまうほど幼い頃の。愛佳は巨人の正体に気づいた。
個展三日目。愛佳が在廊する最終日である。
日曜日ということもあり、前日と同じぐらいに会場は賑わっている。
午前中は何事もなく過ぎ、午後は両親が来るのを待っていた。
にわかに会場の入口が騒がしくなった。まるで、お忍びのアイドルが現れたかのような反応だった。しかし、愛佳に芸能人の知り合いはいない。騒ぎの正体は、ギャラリーにいるはずの真中だった。絵のモデルが現れたので、会場にいる皆の注目を集めていた。
「まな、久し振り。初個展おめでとう!」
「ナカさん、何でここにいるの?仕事は?」
「オーナーに、画家の付き添いも立派な仕事だって発破をかけられたよ。それに……」
真中はスマホを取り出して、個展会場が写っているSNSのポストを見せた。
「これ、約束の絵でしょう?」
「うん。約束通り、ナカさんを描いたよ。私にしか描けないナカさんの絵」
絵の中の真中は大きな目を細め、形の良い手は柴三郎を撫でている。黒柴の被毛と真中の髪は分離色「ハシビロコウ」、背景は分離色「ススキ」で塗られている。
「温かい絵だね。描いてくれてありがとう」
微笑みを浮かべた真中の目から、涙が溢れていた。
真中は涙を服で拭うと、愛佳と会場を出て、人気のない階段の踊り場に移動した。
「まな。僕はまなと離れた後、先生と一旦地元に帰っていたんだ。自分の気持ちを知るために」
愛佳の顔に緊張が走る。
「ナカさんは、先生とよりを戻したのではないの?」
「先生と再会した時は、びっくりしてどう反応したら良いか分からなくなっていた。まなに『さようなら』と言われて、『自分は先生とよりを戻したい』のか、真剣に考えたよ。確かに先生への未練はある、だけどそれ以上にまなのところに帰りたいって気づいたんだ」
真中はじっと愛佳を見つめた。愛佳は心臓がギュッと締めつけられる感覚に耐えた。
「まなは『僕がまなに恋したらお別れ』と言った。だから、見極めなければならなかったんだ。『この想いは恋なのか』って。僕の想いが恋ならば、まなを苦しめてしまう。一緒にいたいなら、恋であってはならない。だから、すぐにはまなのところには帰れなかった」
真中の目が哀しみをたたえていた。
「ナカさん、あなたが先生と再会した時、私の心は巨人に捕まれてしまった。怖くて、苦しくて、仕方がなかった。恋人を偽装するのは限界だったの。先生とよりを戻せば、私がナカさんを縛りつけていた罪悪感からも自由になれると思ってた。ごめんなさい……」
愛佳は俯いて涙を落とした。
「それで、まなは罪悪感から解放されたの?」
真中がハンカチを差し出した。愛佳は涙を拭った。
「ずっと苦しかった。あんなに恐ろしいと思っていた巨人に喰われても構わないと思うほどに。別れの言葉を口にしたことを後悔した。約束の絵を描くことで、心の整理がつくと思ってた。逆だった。ナカさんに会いたくなったの」
「ねぇ、これって一緒にいたい気持ちは同じだよね?恋が怖いなら、関係を縛らなくていい。離れるより一緒にいようよ」
二人は手を繋いで、個展会場に戻っていった。
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