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グラニュレーション 2話


 暗闇の中、頭から人間を喰らう巨人。見開いた目は何かに怯えるかのよう。喰らっているのが我が子だと、愛佳は図書館所有の画集を見て知った。何故か彼の断末魔を聞いたことがある気がした。夢の中で、愛佳は度々巨人の視線に射られてしまう。足は竦み、喰らわれてしまうのではないかという恐怖の中、目は覚める。

「……またあの夢」
 目を覚ました愛佳は、恐怖の余韻で薄がけの布団をくしゃくしゃと抱き締めた。しばらくして覚醒すると、コップ一杯の水を飲んでから、寝汗をシャワーで流した。

 浴室を出て、柴三郎のケージの扉を開けてやる。柴三郎はケージから出てきて、元気に尾を振る。
「柴三郎さん、今日も元気だね」
 愛佳はしゃがんで、柴三郎の背中を撫でた。硬めの黒い被毛の感触は、愛佳の怯えていた心を温めた。

 柴三郎に餌を与え、自分の朝食を終えると、一週間かけて完成させた絵を出版社宛に送る為、近所のヤマトの営業所に向かった。荷物を出した後、アトリエの表にある、ギャラリーに寄ることにした。

 ギャラリーの植え込みの紫陽花が見頃を迎えていた。後で花をスケッチしようと思いつつ、愛佳は「Closed」の札のかかったギャラリーの扉を開いた。

「おはようございます」
 愛佳は慣れた足取りでギャラリーを歩く。ギャラリーには、【水彩画家・荷堂かどう愛佳】の作品の他、油彩画や彫刻、ショップコーナー、カフェスペースがある。

 カフェスペースの奥から物音がした。愛佳はそちらに歩みを進めた。
 カフェスペースには、小さな顔のない母子像の油彩画が飾られている。キャンバスの中は、光に溢れているのに、顔がないからか、物悲しさを感じてしまう。

「オーナー」
 愛佳の呼び掛けの先にいたのは、白シャツにエプロンを掛けた別人だった。振り返った顔を見て、愛佳は「あっ」と声を上げた。一週間前に池のある公園で出会った若者だった。

「あの時の!」
 若者も愛佳のことを覚えていた。
「あの後、雨に濡れませんでしたか?」
「待ち合わせ場所が近かったので、そんなに濡れませんでした」

 二人が話していると、オーナーが奥から出てきた。
「あれ?二人とも知り合い?」
オーナーに聞かれて、愛佳が答えた。
「一週間前に、この人と偶然公園で会ったんです」
「そうだったんだ。では、改めて紹介するね。彼は真中まなか龍史たつふみくん。昨日から、ギャラリーで働いてもらってる」
オーナーの紹介に合わせて真中は会釈した。
「私は荷堂愛佳です。この裏のアトリエに住んでいる水彩画家です」
 愛佳は財布に入れていた名刺を真中に渡した。
 オーナーが「二人とも『まなか』だなんて、すごい偶然だよね」と笑みを浮かべた。

 愛佳はオーナーとの新作の納期の打ち合わせを、カフェスペースで行った。打ち合わせ中、真中がコーヒーを淹れてくれた。
「真中くん、けっこう手際が良いんだよね」
 真中の仕事ぶりに、オーナーはご満悦である。
 真中の中性的な容貌は、さながらアイドルのようでもある。仕事が出来て、見た目も良いなんて、きっと女性にモテるのだろう。

 打ち合わせを終えた愛佳は、アトリエに戻ることにした。
「真中さん、コーヒーごちそうさまでした。お仕事頑張ってください」
 愛佳は軽く会釈した。
「ありがとうございます。近いうちに、またワンちゃん触らせてください。えっと……ワンちゃんのお名前は?」
 柴三郎は真中に懐いていた。真中の屈託のない笑顔に下心は微塵も感じないし、断る理由もない。
「『柴三郎』です。黒柴の2歳です。機会があれば、撫でてあげてください」
 愛佳の住むアトリエはすぐ裏にある。相手の領域に土足で踏み込むようなことのしない真中に、愛佳は好感を持った。

 アトリエに戻ると、愛佳は柴三郎をスケッチした。動き続ける愛犬は、動きのある絵の練習の最高のモデルである。
「可愛いね、柴三郎さん。最高だよ!」
 褒めると誇らしげな顔をするのが、更に可愛いさを増している。

「今度納品する絵、柴三郎さんにしようかな」
 柴三郎の黒い被毛を水彩で表現するのは難しいが、挑戦してみようと思った。そう思えたのは、真中が柴三郎を気に入ってくれたからだ。ギャラリーに飾れば、きっと喜んでくれる。

 不意に、愛佳の心に大きな手が近づいてくる感覚に襲われた。夢の中の巨人の手だ。心の温度が急速に冷え込んでいく。『うわっ、最悪!』過去の声が聞こえてくる。愛佳は気分が悪くなって、トイレに駆け込み、吐いてしまった。

 落ち着きを取り戻し、愛佳がトイレから出ると、心配そうに柴三郎が飼い主の顔を見上げていた。
「柴三郎さん、心配かけてごめんね。少しベッドで休むね。今日はお散歩連れて行けない」
 愛犬の頭を撫でると、愛佳は泥に沈むようにベッドに倒れ込んだ。

 愛佳は恋愛することが出来ない。大きな巨人の目が、愛佳を喰らおうと常に見張っていて、異性の目を意識すると、恐怖で体が拒絶反応を起こしてしまうのだ。




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