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グラニュレーション 10話


 愛佳は、分離色絵具を一つ一つパレットに詰めていく。色見本を作るためだ。筆に水を含ませ、絵具をとる。梅皿に絵具を載せ、多めの水で溶く。分離している状態を確認しやすいよう、いつもより広めに紙に色を塗っていく。

「一つの絵具から異なる色が出てきて面白い。名前も自然の風景や動植物のイメージで素敵だね!」

 主張の強い絵具なので、使い方次第では画面が煩くなりすぎてしまいそうである。
 愛佳は、普段使いの透明水彩と併用して使うことにした。

 真中の写真はスマホに一枚もない。愛佳は記憶を頼りに、クロッキー帳に真中の姿を描いていく。表情、手の形、仕草、思い出せるだけ描いていく。

 クロッキー帳には、他人から見たら充分ぐらいにそっくりな真中の姿が溢れかえっていた。しかし、愛佳は納得がいっていない。

「ダメ……これでは他人でも描ける。ナカさんは『私が描いた絵がいい』と言った。『私だから描けるナカさん』じゃないといけないのに……」
 どう描いたらいいか、良いアイデアが浮かばくて、愛佳の鉛筆は止まってしまった。

「ワン、ワン、ワン!」
 生活スペースの方から、柴三郎が「お腹が空いた」と催促していた。窓の外を見ると、すっかり暗くなっていた。
 愛佳は急いで柴三郎の元へ走った。
「柴三郎さん、ごめんね!今ゴハン用意するね」
 餌皿にドッグフードを入れ、柴三郎の目の前に置くと、勢い良く餌を食べ始めた。
 その様子を眺めていたら、愛佳に一つのアイデアが降りてきた。

 急いでアトリエスペースに戻り、クロッキー帳に書き留めると、愛佳の表情が明るくなった。
「これ、これだわ!」

 愛佳はクロッキー帳を元に下絵を描いた。使用する水彩紙は、F6サイズのブロックタイプだ。搬入期限が迫り、パネルに水張りしている余裕はなかった。

 真っ白だった紙は、下絵が写され、絵具によって鮮やかに色づいていく。真中の中性的な顔立ちには、透明感のある肌を表現するために、いつもの絵具で塗った。ブルーグレー系の分離色「ハシビロコウ」は、真中と出会った時の曇り空を思わせた。愛佳はそれを黒の代わりに紙に塗り拡げていく。

 愛佳は寝食を忘れる勢いで描き続け、完成した絵にサインを入れた頃には、搬入期限の日になっていた。予約を入れていた絵専門の宅配業者に、他の絵とともに、無事集荷してもらうことが出来た。


 個展開催当日。愛佳はハレの日を新しいブラウスとワンピース姿で迎えた。靴はローヒールのパンプス、髪は散歩コースの坂の途中にある美容室「CHERRY」でセットしてもらった。

「愛佳さん、初個展おめでとう」
 オーナーがギャラリーを臨時休館にして、祝いに来てくれていた。
「オーナー、ありがとうございます。お花まで贈っていただいて、感謝しきれません」
 愛佳はオーナーに向かって、深くお辞儀をした。

「出版社協賛だけあって、人が集まったね。新聞やSNSでも告知してたからかな」
 オーナーが会場内を見渡す。
「こんなに大勢の人が、私の絵を観に来てくれるなんて嬉しいです」
 そう言いながらも、愛佳が本当に来てほしい人の姿はない。

「あの入口のところに展示してあるの、真中くんの絵だよね。本人来てないのかな?」
 オーナーは真中の姿を探そうとした。
「本人には、この絵を描いたことは伝えてないんです」
 愛佳の表情が曇る。

 真中に連絡しようと思えば出来る。だが、自分から真中を手放してしまったのに、絵を観に来てほしいとは言えなかった。
 それでも会場にこの絵を搬入したのは、真中が来場してくれたらという希望からだった。

 個展の会期は、金曜日である今日から来週木曜日の一週間。愛佳が在廊しているのは、金土日の三日間である。

「本当は真中くん、今日から有給休暇明けて出勤日だったんだけど、臨時休館にしてきちゃったからさ。明日は出勤するから、こっちに向かうよう伝えようか?」
 オーナーの申し出に、愛佳は横に首を振った。

「オーナーも一週間、一人で仕事こなしてきたんですから、ナカさんにはギャラリーの仕事を優先させてください」
 愛佳は、彼が在廊日に絵を観に来てくれるのを諦めた。

「二人喧嘩でもしたのかな……」
 怪訝そうに呟くオーナーの言葉は聞こえなかったことにする愛佳だった。

「すいません、〇〇新聞ですがインタビュー宜しいでしょうか?」
 新聞社からインタビューの要請があったので、オーナーと別れた。

 インタビューでは、略歴で書かれていることの確認、小説のカバーイラストを描いた時の裏話、仕事以外の時間の過ごし方などを聞かれた。柴三郎がいなかったら、自分には絵以外に何もなかったと思った。

「──最後になりますが、会場の入口に展示されている最新作、あの人物のモデルはいらっしゃるのですか?とても美しい方ですね」
 愛佳はあの絵について聞かれるとは思ってもみなかったが、正直に答えることにした。

「はい。お世話になっているギャラリーのスタッフで、大切な恩人なんです。本人と絵を描く約束をしてました。そして完成したのが、この絵です。会期が終わったら、本人に贈ろうと思っています」
 インタビューを経て、個展が終わったら、自分から真中に会いに行こうと決意した。


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