グラニュレーション 9話
九月になり、まだまだ暑い日が続いているが、熱帯夜になることがなくなり、確実に季節は進んでいる。
愛佳と真中は、時々アトリエで夕飯を一緒に食べるようになっていた。
夕飯の後、真中と柴三郎はロープのおもちゃで引っ張り合いゲームを楽しむのが定番だ。
「柴三郎さん、ナカさんと遊んだ後はゴキゲンなんだよ!」
真中からロープをゲットした柴三郎は、尾を振り、かじりついている。
「そうなのか、柴三郎さん」
ニコニコ顔で柴三郎に話しかける真中だが、柴三郎はお構いなしにロープに夢中である。
「そういえば、まなのところに百貨店から個展の依頼が来たんだって?」
真中がダイニングチェアに向かい合わせで座った。
「6月頃に描いた小説のカバーイラストが評判良かったみたい。自分の個展はまだやったことないから、緊張するよ」
愛佳が食後のほうじ茶を啜った。
「搬入する前に、個展会場の下見に行きたいと思うんだ。今度の日曜に行ってくる」
「あれ?オーナーは付いていかないの?」
日曜日は、オーナーは出勤日である。
「今回はギャラリーを介してないから、一人で行くよ」
そう言ってみたものの、愛佳は不安げな表情をしている。
「ふーん……」
真中は、顎に手を当てて考えていた。
日曜日、愛佳が百貨店の会場へ下見に行こうとしたら、アトリエに真中が現れた。
「オーナーに相談したら、ぜひ付き添ってやってほしいって!」
真中は屈託のない笑顔を浮かべた。
「えぇ!?オーナー、さすがに下見ぐらい私一人で行けるのに」
甘やかされてると思いつつも、真中がいるのは心強かった。
電車を乗り継いで百貨店に着くと、二人は会場のある階を確認し、エレベーターに乗って会場を目指した。
会場では、グループ展が催されていた。思ったより多くの客が来場していた。
「私の個展で、ここまで集客出来るかな……」
愛佳は思わず不安を漏らした。
「大丈夫、出版社も告知してくれてるし、何よりまなの絵は魅力的だから!」
真中がキッパリと言い切ったので、愛佳は思わず笑いが込み上がってしまった。
下見を終えた二人が、昼食をどうするか話していた時だった。
「──ナカ?」
三十歳くらいに見える背の高い男性が、真中を呼んだ。
真中は大きな目を見開いて、その男性を凝視した。
「水野……先生」
動揺して震える声しか出ない真中の様子が、水野が高校時代の元カレであることを物語っていた。
それを見た刹那、愛佳は心臓を夢の中の巨人が握る感覚に襲われた。しかし、真中は水野の方を見ていて、愛佳の変化に気づかない。
どうにか呼吸を整えて、愛佳は声を絞り出した。
「ナカさん、私は『一人で大丈夫』だから、先生のところに行って!あなたは私と違って『人を愛せるんだから」
愛佳は口角を上げ、笑顔を作った。
「ナカ、連れの人もそう言ってくれてるし、少し話さないか?」
水野に真中へのかつての恋心が燻っているのは明らかだった。
「まな……」
真中は何かを言いかけたが、愛佳は遮るように「さようなら、『真中』さん」と、その場を後にした。
愛佳は忘れてしまっていたのだ。真中を偽装恋人として縛り付けていたことを。あまりにも、一緒にいることが自然になっていて、巨人が愛佳を見張っていることすら忘れかけていたのだ。
百貨店を出ると、愛佳の目から涙が溢れて止まらなくなった。巨人に対する恐怖と、そんな自分の情けなさと、真中への言葉にならない思いでグチャグチャだった。愛佳が泣いていることなど、雑踏に紛れて誰も気に留めることはなかった。電車の窓から流れる景色は色を失い、真中との距離がどんどん離れていくのを実感していった。
最寄り駅に着くと、昼食を食べてないことに気づき、駅前のファミレスに入ったが、食欲がわかずにほとんど残してしまった。
アトリエに帰りたくなくて、本屋に入り浸っていたが、閉店時間になり帰宅せざるを得なくなった。
「……柴三郎さん、ただいま」
飼い主の憔悴ぶりに、柴三郎が心配そうに見つめてきた。
「ご飯、今用意するからね」
残された力を振り絞って、柴三郎の餌を準備し、愛佳は外出着のままベッドに倒れ込んでしまった。
夢の中で、愛佳は巨人に捕まっていた。いつもと違うのは、巨人が声を発したということだった。
「俺の……生まれて来なければ……」
巨人の悲しい程に見開かれた目から涙が溢れ、愛佳の顔を濡らした。
もう食べられてもいい、愛佳は目を閉じた。
真中と顔を合わせたくなくて、愛佳はギャラリーから足が遠のいていた。しばらくして、オーナーから「真中くん、一週間有給休暇取ったんだけど何かあったの?」とLINEが入ってきた。「もう、戻らないかもしれません」と返信を打ちかけたが、詮索されたくなくて、既読スルーしてしまった。
個展に搬入する絵を選んでいた愛佳は、ふと真中との約束を思い出した。気づくと、F6サイズの水彩紙と、画材セットを準備していた。
「これを使おう」
そう言って手にとったのは、真中からプレゼントされた分離色絵具だった。
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