230304
このnoteを書いてから暫くして秋、思い出の場所に行くことが出来た。
わざわざ行こうと思わなければ二度と行くこともないだろう場所に。わざわざ、行ってきた。片道4時間以上かけて。
駅からも離れていたし、どうやって行けばいいかもよく分からなくてとりあえずタクシーに乗った。
だんだん知っている景色になってきたけど、あまり大きく感動は出来なかった。コロナ真っ只中、ひろがる農園を珍しがっていたら、都心からなんかきたと思われたらイヤだな、なんて思ってしまったから。まあ検査はしていたけれど。
見覚えのある畦道、見覚えのある鉄塔、見覚えのある、毎日歩いたこの道。
涙が出た。
私はこの道を、父と手を繋いで歩いた。
私にとってたくさんの"家族4人での"思い出が詰まったこの場所は、変わらず存在して、でもあの時とは大きく雰囲気を変えてそこに居て。
人気なんかなくて、近くの学校の物置になっていた。
まあ、元々教員住宅だったし。不自然ではないけれど。
思い出の栗の木は無くなっていた。
庭に作った砂場は残っていた。(確か)
たくさん撮った写真たちは、行って満足しちゃったのかな。1枚もまだ現像できていない。
iPhoneで撮った2.3枚しか手元にはない。
松本には、何度か引越しを繰り返しながら計6年くらいは住んでいたのだと思う。
もう1軒、1年間だけ住んでいた古民家があった。
当時で築80年とかだったような、今はもう100年か、なんて思いながら。
引き戸の玄関扉、何部屋も続く和室、鍵がかけられた開かずの間、夜になると動物が通って沈む天井、汲み取り式のトイレ、そしてそこまで行く途中に軋む廊下と窓、とても立派な、しかし手入れは行き届いていない庭。
近所の開業医さんの持ち家を借りて住んでいた。
トイレに行くのが怖すぎて、母と妹3人で毎日一緒にトイレに行っていた。
ひとりがお花摘みの間は、外のふたりは歌いながら待っていた。
だから私は今でも歌が好き。きっかけの時間。
父は単身赴任で東信地方にいた。
そんな思い出の場所はなくなっていた。
綺麗な薬局が建っていた。
歩いて30秒の場所には、私が2年間通った保育園がある。
よく泣く子だった。
プールには入れなかった。
母と離れたくなくて、何度も追いかけて走ったことは忘れないし、『ボタン閉めたまま服着るんだ』とわがままいって困らせていたことは、実は少し覚えている。ごめんなさい。
そんな困った子は2年後中野市に引越し、立派に年少の妹の世話焼きをしていたし、スイミングスクールに通って更に5年後には長野県4位の成績を残しています、多分。
やりたいことをやって生きてたきたと思う。
まだ死ねないと思うけど、後悔していることはあまり無い。
少し体調が悪い時は、また文章を書いてしまう気がする。