写真に写る必要はどこにもなかった。
剣道部だった中学2年から中学3年、ことあるごとに写真に写っていた。
私の意志じゃない、部員だからという取ってつけたもの。
私の意志を働かせることができるのなら写真には写りたくないというのが写真に写らなければならない時にはいつも思っていたし写真を撮る時は隣の人物とは離れて撮った。
その頃の女子剣道部の中学3年生は私を含めて10人で、そのほとんどが私と同じ小学校から来た人だった。
でもそのほとんどは小学校のころからなんだかんだ仲良くしているようで。別に私はそこにはいなかった。私はその空間が合わなかったのか、それとも私がいていいような場所であったのかということは分かりきっている。私はそこにいてよかった人間ではない、つまりはいていいような場所ではなかった。
それにこれは今でも認識上にあることなのだが、私はいつからかは分からないけれどウイルス扱いされていて、誰かが物を落として私がそれを拾うと拾われた物の持ち主はそれを手や服で拭い、それを自身の机に擦り付ける。
これが5年も続いていたのを知っている。だからそこからなのかは分からないけど、私は汚いものという認識を持っている。だから私は写真には写りたくないし、誰かの隣にいたくはないのだ。
小学生時代も写真を撮る時は『私から離れて、邪魔』だとか『こいつ邪魔だなあ』みたいな顔をされていたり、言われたりしたこともある。
このことが理由だったりもするが私は周囲の人間には嫌われているという認識を持って未だに生きている。嫌われていると思っているから人を信用や信頼しない部分や写真を撮る時に距離を話してとる癖があると思う。後は空間の中に用件があってどうしてもいなければならないときは本当に苦痛である。声を出したくても出てこないことが多いので黙りこくることがあったり、どうすればいいのかが分からなくなることが多い。
でも思うのは中学時代の部活の写真には写る価値も意味もなかった。だから集合写真なんてもらわなくて正解だなんて思うし、買わなくて正解だなんて思うわけだ。私の顔はいつも表情が死んでいるので親に買われて批判的にいろいろ言われるだろうと思うと楽である。
成人式になったらまた集うのだろうかと思うと苦痛ではあるが、何とか写らなくて済むような方法を私になりに考えてみる。方法はいくらでもあるはずだからな。