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満たされると絵が描けない
「私生活が満たされると絵が描けなくなる」という話をよく耳にする。私もその感覚がわかる。何か欠けているものを埋める為に描いてきた人にとって、幸せになるということが壁になる時がある。だけど芸術家はずっと不幸なまま?今はそんな時代ではない。描くことが人生であったとしても、人間としての幸せを諦める必要はないと私は思う。
ずっと不幸でないと絵が描けないのならそれは、状況に甘えているのかもしれない。きっと、欠けた場所を埋めるため必死に描いていた孤独な時間は、食べることも話すことも眠ることも忘れてガムシャラに描いていたはず。制作が生活だった。そんな風に制作=生活だった人が、描くことによって少しずつ光を取り戻し、いつしか生活が満たされると、制作にその感覚がなだれ込んでくる。満たされた五感に戸惑って、筆が止まる。頭に霧がかかったようになる。
そのようになった時、自分の制作の根源は何だったのかと思い悩む。私もそうだった。だけどそこで絵を描くことを辞められなかった私たちは、きっとこの先も絵を描くのだから、自分なりの方法を見つけなくちゃならない。
また不幸に戻る?
様々な道があると思うけれど、この先も長く作品を人々へ届けたいのなら、それは正しいと思えない。人間として、社会の一部として人生を長く、賢く続ける必要がある。きちんと食べ、眠り、人と関わり、しっかりとした土台の上で戦い続けたい。
心にぽっかり穴が空いた孤独な時間に絵を描くのは、実はとても簡単なことだったのだと思う。満たされてもなお描くには、自分でしゃんと背筋を伸ばす神聖な時間を作る強さが必要になる。幸せで居続けるということは、実は不幸を埋めることよりも厳しくストイックな道である。そういう意味では幸せや満たされる感情に本気で向き合うということで、鋭さが増すと言える。
「生活と制作を、分けること」単純なようだけど、私はこれに尽きると思う。経験や感情の全てを絵に繋げて何とか生きてきた作家にとって、これは一つの乗り越えるべき壁である。
五感を、研ぎ澄ます。
空っぽになる、自分で。
もっといい作品になる、必ず。
いつだって始まりと終わりには制作があるのだから、精一杯生きればいい。物凄く悲しくて心に穴が空くようなことも、最高に満たされる幸せな時間も、制作の為にあっていい。そうして人生というものを謳歌してこそ、描くのではないか。
幸せになっていい。一息つく時間や帰る場所があってもいい。でも、制作の現場に背もたれはないということを忘れてはならない。
切り替え、立ち向かおう。
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