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正史三国志★漢文日本語訳 第4巻 魏書4

このノートは、正史(歴史書)三国志 第4巻(漢文)とその日本語訳です。漢文は、中央研究院・歴史語言研究所の『漢籍全文資料庫』から引用し、日本語訳は、ChatGPT-4o(2024年夏バージョン)に指示して作成し、それに私が修正を加えたものです。引用元の漢文に、裴松之の注は含まれていません。日本語訳の信頼性については、専門家による伝統的な手順を踏んだ翻訳方法ではないため、書き下し文もなく、信頼ある日本語訳とは言えませんが、どんなことが書いてあるかが分かる程度だと思って使っていただけますと幸いです。

引用元:
中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』

正史三國志 漢文日本語訳
巻四 魏書四 三少帝紀第四 (曹芳,曹髦,曹奐)


曹芳

齊王諱芳,字蘭卿。明帝無子,養王及秦王詢;宮省事祕,莫有知其所由來者。青龍三年,立為齊王。景初三年正月丁亥朔,帝甚病,乃立為皇太子。是日,即皇帝位,大赦。尊皇后曰皇太后。大將軍曹爽、太尉司馬宣王輔政。詔曰:「朕以眇身,繼承鴻業,煢煢在疚,靡所控告。大將軍、太尉奉受末命,夾輔朕躬,司徒、司空、冢宰、元輔總率百寮,以寧社稷,其與羣卿大夫勉勗乃心,稱朕意焉。諸所興作宮室之役,皆以遺詔罷之。官奴婢六十已上,免為良人。」

二月,西域重譯獻火浣布,詔大將軍、太尉臨試以示百寮。
丁丑詔曰:「太尉體道正直,盡忠三世,南擒孟達,西破蜀虜,東滅公孫淵,功蓋海內。昔周成建保傅之官,近漢顯宗崇寵鄧禹,所以優隆雋乂,必有尊也。其以太尉為太傅,持節統兵都督諸軍事如故。」

三月,以征東將軍滿寵為太尉。夏六月,以遼東東沓縣吏民渡海居齊郡界,以故縱城為新沓縣以居徙民。秋七月,上始親臨朝,聽公卿奏事。八月,大赦。冬十月,鎮南將軍黃權為車騎將軍。

十二月,詔曰:「烈祖明皇帝以正月棄背天下,臣子永惟忌日之哀,其復用夏正;雖違先帝通三統之義,斯亦禮制所由變改也。又夏正於數為得天正,其以建寅之月為正始元年正月,以建丑月為後十二月。」

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

斉王(曹芳)は、諱を芳、字を蘭卿といいます。明帝(曹叡)には子がいなかったため、曹芳と秦王曹詢を養子としましたが、宮中の事情は秘匿されており、その出自を知る者はいません。青龍三年(235年)、曹芳は斉王に立てられました。景初三年正月丁亥朔の日(239年1月22日)、明帝が重病となり、曹芳を皇太子に立てました。その日に即位し、大赦を行いました。皇后を尊び皇太后としました。大将軍の曹爽と太尉の司馬宣王(司馬懿)が輔政を担いました。詔にて、「朕は弱き身でありながら、鴻業を継ぎ、苦しみの中で孤立しており、頼る者もいない。大将軍と太尉は最後の命を受け、朕を補佐してくれている。司徒、司空、冢宰(宰相)および元老の諸輔たちは、百官を率い、社稷を安んじてくれるよう、群臣大夫と共に心を尽くして、朕の意思を体してほしい。すべての宮室建設事業は、遺詔により停止する。60歳以上の官奴婢は良民とするように」と述べました。

二月、西域からの使者が火浣布(耐火性の布)を献上し、詔して大将軍と太尉にこれを試し、百官に示しました。丁丑の日(2月22日)、詔して、「太尉は道を体し正直であり、三代にわたり忠義を尽くし、南では孟達を捕え、西では蜀の賊を破り、東では公孫淵を滅ぼし、功績は国内に満ちている。昔、周の成王は保傅の官を建て、漢の顕宗(劉荘)は鄧禹を重用し、賢能を尊んだ。太尉を太傅とし、節を持たせ、兵を統率し、都督として諸軍を指揮させる」としました。

三月、征東将軍の満寵を太尉に任じました。夏六月、遼東の東沓県の吏民が海を渡り、齊郡の境内に移住したため、故縦城を新沓県として徙民を住まわせました。秋七月、皇帝が初めて親臨して朝会に臨み、公卿の奏事を聞きました。八月、大赦が行われました。冬十月、鎮南将軍の黄權を車騎将軍に任じました。

十二月、詔して言いました。「烈祖明皇帝(曹叡)は正月に崩御され、臣子としては永くその忌日を哀しむべきである。ゆえに夏正(夏の暦)を復用することとする。先帝の三統(夏・殷・周の三代の暦)を通用するという意義には反するが、これも礼制により改めるものである。また、夏正は天正に合致しているため、建寅の月(旧暦1月)を正始元年の正月とし、建丑の月(旧暦12月)をその前年の12月とする。」

正始元年(240年)

正始元年春二月乙丑,加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。丙戌,以遼東汶、北豐縣民流徙渡海,規齊郡之西安、臨菑、昌國縣界為新汶、南豐縣,以居流民。自去冬十二月至此月不雨。丙寅,詔令獄官亟平寃枉,理出輕微;羣公卿士讜言嘉謀,各悉乃心。夏四月,車騎將軍黃權薨。秋七月,詔曰:「易稱損上益下,節以制度,不傷財,不害民。方今百姓不足而御府多作金銀雜物,將奚以為?今出黃金銀物百五十種,千八百餘斤,銷冶以供軍用」八月,車駕巡省洛陽界秋稼,賜高年力田各有差。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

正始元年(240年)春二月乙丑の日(2月17日)、侍中中書監の劉放と侍中中書令の孫資を左右光祿大夫に任じました。丙戌の日(2月18日)、遼東の汶県および北豊県の民が海を渡って流住し、齊郡の西安、臨菑、昌国県の境内に新しい汶県および南豊県を設置して流民を居住させました。

昨年の十二月からこの月まで雨が降らなかったため、丙寅の日(3月3日)、詔を発し、獄官に命じて急いで冤罪を正し、軽微な罪は理を尽くして解決するようにしました。また、群臣に対しては、正直な言葉と良い謀を尽くすよう促しました。夏四月、車騎将軍の黄權が薨去しました。

秋七月、詔して言いました。「『易経』には、上を損じて下を益し、節度を守り、制度に従うべきだとあります。財を浪費せず、民を害することもありません。現在、百姓は不足しているのに、御府では金銀の雑物を多く作っていますが、これを何のためにするのですか?今、金銀の物百五十種類、千八百余斤を溶かして軍用に供給するようにせよ。」

八月、車駕は洛陽の境内の秋の稼作を巡視し、高齢者や耕作に力を尽くした者にそれぞれ恩賜を与えました。

正始二年(241年)

二年春二月,帝初通論語,使太常以太牢祭孔子於辟雍,以顏淵配。夏五月,吳將朱然等圍襄陽之樊城,太傅司馬宣王率眾拒之。六月辛丑,退。己卯,以征東將軍王淩為車騎將軍。冬十二月,南安郡地震。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

正始二年(241年)春二月、皇帝が初めて『論語』を学び、太常に命じて太牢の供物をもって辟雍で孔子を祭り、顔淵をその祭配としました。

夏五月、呉の将軍朱然らが襄陽の樊城を包囲しましたが、太傅の司馬宣王(司馬懿)が軍を率いてこれを防ぎました。六月辛丑の日(6月18日)、朱然は退却しました。己卯の日(6月26日)、征東将軍の王淩を車騎将軍に任じました。冬十二月、南安郡で地震が発生しました。

正始三年(242年)

三年春正月,東平王徽薨。三月,太尉滿寵薨。秋七月甲申,南安郡地震。乙酉,以領軍將軍蔣濟為太尉。冬十二月,魏郡地震。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

正始三年(242年)春正月、東平王の曹徽が薨去しました。三月、太尉の満寵が薨去しました。秋七月甲申の日(7月24日)、南安郡で地震が発生しました。乙酉の日(7月25日)、領軍将軍の蔣濟を太尉に任じました。冬十二月、魏郡で地震が発生しました。

正始四年(243年)

四年春正月,帝加元服,賜羣臣各有差。夏四月乙卯,立皇后甄氏,大赦。五月朔,日有食之,既。秋七月,詔祀故大司馬曹真、曹休、征南大將軍夏侯尚、太常桓階、司空陳羣、太傅鍾繇、車騎將軍張郃、左將軍徐晃、前將軍張遼、右將軍樂進、太尉華歆、司徒王朗、驃騎將軍曹洪、征西將軍夏侯淵、後將軍朱靈、文聘、執金吾臧霸、破虜將軍李典、立義將軍龐德、武猛校尉典韋於太祖廟庭。冬十二月,倭國女王俾彌呼遣使奉獻。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

正始四年(243年)春正月、皇帝が元服(成年の礼)を行い、群臣にそれぞれ恩賜を与えました。夏四月乙卯の日(4月19日)、皇后として甄氏を立て、大赦を行いました。五月朔の日(5月1日)、日食があり、皆既日食となりました。秋七月、詔を発し、故大司馬の曹真、曹休、征南大将軍の夏侯尚、太常の桓階、司空の陳羣、太傅の鍾繇、車騎将軍の張郃、左将軍の徐晃、前将軍の張遼、右将軍の楽進、太尉の華歆、司徒の王朗、驃騎将軍の曹洪、征西将軍の夏侯淵、後将軍の朱霊、文聘、執金吾の臧覇、破虜将軍の李典、立義将軍の龐徳、武猛校尉の典韋を太祖廟の庭で祀るよう命じました。冬十二月、倭国の女王である卑弥呼が使者を送り、貢物を献上しました。

正始五年(244年)

五年春二月,詔大將軍曹爽率眾征蜀。夏四月朔,日有蝕之。五月癸巳,講尚書經通,使太常以太牢祀孔子於辟雍,以顏淵配;賜太傅、大將軍及侍講者各有差。丙午,大將軍曹爽引軍還。秋八月,秦王詢薨。九月,鮮卑內附,置遼東屬國,立昌黎縣以居之。冬十一月癸卯,詔祀故尚書令荀攸于太祖廟庭。己酉,復秦國為京兆郡。十二月,司空崔林薨。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

正始五年(244年)春二月、詔して大将軍の曹爽に命じ、軍を率いて蜀を征討させました。夏四月朔の日(4月20日)、日食がありました。

五月癸巳の日(5月18日)、『尚書』の講義が行われ、太常に命じて太牢の供物をもって辟雍で孔子を祀り、顔淵をその祭配としました。また、太傅、大将軍および侍講者にそれぞれ恩賜を与えました。丙午の日(5月21日)、大将軍の曹爽は軍を引き返しました。

秋八月、秦王の曹詢が薨去しました。九月、鮮卑が内附し、遼東に属国を設置し、昌黎県を立てて鮮卑を居住させました。冬十一月癸卯の日(11月24日)、故尚書令の荀攸を太祖廟の庭で祀るよう命じました。己酉の日(11月30日)、秦国を京兆郡に復しました。十二月、司空の崔林が薨去しました。

正始六年(245年)

六年春二月丁卯,南安郡地震。丙子,以驃騎將軍趙儼為司空;夏六月,儼薨。八月丁卯,以太常高柔為司空。癸巳,以左光祿大夫劉放為驃騎將軍,右光祿大夫孫資為衞將軍。冬十一月,祫祭太祖廟,始祀前所論佐命臣二十一人。十二月辛亥,詔故司徒王朗所作易傳,令學者得以課試。乙亥,詔曰:「明日大會羣臣,其令太傅乘輿上殿。」

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

正始六年(245年)春二月丁卯の日(2月23日)、南安郡で地震が発生しました。丙子の日(2月26日)、驃騎将軍の趙儼を司空に任じましたが、夏六月に趙儼が薨去しました。八月丁卯の日(8月19日)、太常の高柔を司空に任じました。癸巳の日(8月25日)、左光禄大夫の劉放を驃騎将軍に、右光禄大夫の孫資を衛将軍に任じました。

冬十一月、太祖廟で祫祭(祖先を祭る儀式)が行われ、初めて前に議論された佐命の臣21人が祀られました。十二月辛亥の日(12月26日)、故司徒の王朗が作成した『易伝』を学者に課試させるよう詔が出されました。乙亥の日(12月30日)、詔して「明日、大会を開いて群臣を集める際、太傅に輿に乗って殿に上がることを許す」と命じました。

正始七年(246年)

七年春二月,幽州刺史毌丘儉討高句驪,夏五月,討濊貊,皆破之。韓那奚等數十國各率種落降。秋八月戊申,詔曰:「屬到巿觀見所斥賣官奴婢,年皆七十,或癃疾殘病,所謂天民之窮者也。且官以其力竭而復鬻之,進退無謂,其悉遣為良民。若有不能自存者,郡縣振給之。」己酉,詔曰:「吾乃當以十九日親祠,而昨出已見治道,得雨當復更治,徒棄功夫。每念百姓力少役多,夙夜存心。道路但當期于通利,聞乃撾捶老小,務崇脩飾,疲困流離,以至哀歎,吾豈安乘此而行,致馨德于宗廟邪?自今已後,明申勑之。」冬十二月,講禮記通,使太常以太牢祀孔子於辟雍,以顏淵配。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

正始七年(246年)春二月、幽州刺史の毌丘儉が高句麗を討ち、夏五月には濊貊を討伐し、いずれもこれを破りました。韓那奚など数十の国がそれぞれ部族を率いて降伏しました。

秋八月戊申の日(8月13日)、詔して言いました。「市場で官奴婢が売られているのを見たが、年齢は皆七十歳で、癃疾(重病)や残病を抱えており、いわゆる天民(国の民)の中で最も困窮した者たちである。官は彼らの力を使い果たしてから再び売るのでは、進退ともに意味をなさない。よって、すべて良民にして、もし自活できない者があれば、郡県がこれを救済するようにせよ。」

己酉の日(8月14日)、詔して言いました。「私は十九日(8月27日)に親自(自ら)祠を行う予定であったが、昨日出かけた際に道を修繕しているのを見た。雨が降ったため、再度修繕が必要となったが、これは労力の無駄である。常に百姓の力が少なく、負担が多いことを思い、朝夕考えている。道路はただ通行の利便を期すべきであり、老若を働かせ、修繕を過度に行い、百姓を疲弊させてはならない。私はどうしてこのような道を使って宗廟に徳を捧げることができようか。今後、このことを厳重に勅命するようにせよ。」

冬十二月、『礼記』の講義が行われ、太常に命じて太牢の供物をもって辟雍で孔子を祀り、顔淵をその祭配としました。

正始八年(247年)

八年春二月朔,日有蝕之。夏五月,分河東之汾北十縣為平陽郡。秋七月,尚書何晏奏曰:「善為國者必先治其身,治其身者慎其所習。所習正則其身正,其身正則不令而行;所習不正則其身不正,其身不正則雖令不從。是故為人君者,所與游必擇正人,所觀覽必察正象,放鄭聲而弗聽,遠佞人而弗近,然後邪心不生而正道可弘也。季末闇主,不知損益,斥遠君子,引近小人,忠良疏遠,便辟褻狎,亂生近暱,譬之社鼠;考其昏明,所積以然,故聖賢諄諄以為至慮。舜戒禹曰『鄰哉鄰哉』,言慎所近也,周公戒成王曰『其朋其朋』,言慎所與也。(詩)〔書〕云:『一人有慶,兆民賴之。』可自今以後,御幸式乾殿及游豫後園,皆大臣侍從,因從容戲宴,兼省文書,詢謀政事,講論經義,為萬世法。」冬十二月,散騎常侍諫議大夫孔乂奏曰:「禮,天子之宮,有斲礱之制,無朱丹之飾,宜循禮復古。今天下已平,君臣之分明,陛下但當不懈于位,平公正之心,審賞罰以使之。可絕後園習騎乘馬,出必御輦乘車,天下之福,臣子之願也。」晏、乂咸因闕以進規諫。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

正始八年(247年)春二月朔の日(2月1日)、日食がありました。夏五月、河東郡の汾北の十県を分けて平陽郡を設置しました。

秋七月、尚書の何晏が奏上して言いました。「国を治める者はまず自身を正すべきであり、自身を正すためにはその習慣を慎重に選ぶ必要があります。習うことが正しければ身も正しくなり、身が正しければ命令せずとも人々は従います。逆に、習うことが不正であれば身も不正となり、身が不正であればいくら命令しても人々は従いません。したがって、君主たる者は遊ぶ相手を正しい人から選び、観るものも正しいものに留意し、鄭の乱れた音楽を避け、佞臣を遠ざけるべきです。そうすれば邪心が生まれず、正道が広まります。暗愚な君主は善悪の判断ができず、正しい人物を遠ざけ、小人を引き寄せ、忠良を疎んじて佞臣と親しむため、乱れが生じます。これを『社の鼠』にたとえることができ、長年の積み重ねでそのような状態が生まれるのです。聖賢たちはこれを非常に警戒していました。舜が禹に『慎むべし、慎むべし』と戒めたのは、近づくべき相手を慎重に選べという意味です。周公が成王に『その友、その友を慎め』と戒めたのも同じです。(詩経)〔書経〕に、『一人が幸いを得れば、兆民がこれに頼る』とあります。今後、陛下が乾殿において御幸される際や後園で遊ばれる際は、常に大臣を侍らせ、宴席の間に文書を省み、政務を議論し、経義を講じ、これを万世の規範とすべきです。」

冬十二月、散騎常侍・諫議大夫の孔乂が上奏して言いました。「礼によれば、天子の宮殿には斲礱(削り磨く)程度の装飾があり、朱や丹で彩る装飾はありません。礼に従い、古の制度に復すべきです。天下はすでに平定されており、君臣の分は明らかです。陛下はただその位にあって怠らず、公正な心で事にあたり、賞罰を適正に行って治めてください。後園での馬の騎乗訓練をやめ、外出の際は輦や車に乗るべきです。これこそが天下の福であり、臣子たちの願いです。」何晏と孔乂はともに機会を得て規諫を進めました。

正始九年(248年)

九年春二月,衞將軍中書令孫資,癸巳,驃騎將軍中書監劉放,三月甲午,司徒衞臻,各遜位,以侯就第,位特進。四月,以司空高柔為司徒;光祿大夫徐邈為司空,固辭不受。秋九月,以車騎將軍王淩為司空。冬十月,大風發屋折樹。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

正始九年(248年)春二月、衛将軍・中書令の孫資が退位し、癸巳の日(2月14日)、驃騎将軍・中書監の劉放も退位しました。三月甲午の日(3月27日)、司徒の衛臻が退位し、それぞれ侯に封じられ、自邸に戻り、位は特進とされました。

四月、司空の高柔を司徒に任じ、光禄大夫の徐邈を司空に任じましたが、徐邈は固辞して受けませんでした。

秋九月、車騎将軍の王淩を司空に任じました。

冬十月、大風が吹き、屋根が飛び、樹木が折れる被害が発生しました。

嘉平元年(249年)

嘉平元年春正月甲午,車駕謁高平陵。太傅司馬宣王奏免大將軍曹爽、爽弟中領軍羲、武衞將軍訓、散騎常侍彥官,以侯就第。戊戌,有司奏收黃門張當付廷尉,考實其辭,爽與謀不軌。又尚書丁謐、鄧颺、何晏、司隸校尉畢軌、荊州刺史李勝、大司農桓範皆與爽通姦謀,夷三族。語在爽傳。丙午,大赦。丁未,以太傅司馬宣王為丞相,固讓乃止。夏四月乙丑,改年。丙子,太尉蔣濟薨。冬十二月辛卯,以司空王淩為太尉。庚子,以司隸校尉孫禮為司空。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

嘉平元年(249年)春正月甲午の日(1月5日)、皇帝が高平陵に謁しました。太傅の司馬宣王(司馬懿)が上奏し、大将軍の曹爽、その弟で中領軍の曹羲、武衛将軍の曹訓、散騎常侍の曹彥を免職させ、侯に封じて自邸に戻らせました。戊戌の日(1月9日)、有司が黄門の張当を廷尉に引き渡し、彼の供述を調査したところ、曹爽が謀反を企んでいたことが発覚しました。また、尚書の丁謐、鄧颺、何晏、司隷校尉の畢軌、荊州刺史の李勝、大司農の桓範も曹爽と姦謀を通じていたため、三族が誅滅されました(詳細は曹爽伝に記されています)。丙午の日(1月27日)、大赦が行われました。丁未の日(1月28日)、太傅の司馬宣王が丞相に任じられましたが、固辞したため、そのまま留任しました。

夏四月乙丑の日(4月17日)、年号を改めました。丙子の日(4月18日)、太尉の蒋済が薨去しました。冬十二月辛卯の日(12月22日)、司空の王淩を太尉に任じました。庚子の日(12月31日)、司隷校尉の孫礼を司空に任じました。

嘉平二年(250年)

二年夏五月,以征西將軍郭淮為車騎將軍。冬十月,以特進孫資為驃騎將軍。十一月,司空孫禮薨。十二月甲辰,東海王霖薨。乙未,征南將軍王昶渡江,掩攻吳,破之。

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嘉平二年(250年)夏五月、征西将軍の郭淮を車騎将軍に任じました。冬十月、特進の孫資を驃騎将軍に任じました。十一月、司空の孫礼が薨去しました。十二月甲辰の日(12月19日)、東海王の曹霖が薨去しました。乙未の日(12月30日)、征南将軍の王昶が長江を渡って呉を攻撃し、これを破りました。

嘉平三年(251年)

三年春正月,荊州刺史王基、新城太守(陳泰)〔州泰〕攻吳,破之,降者數千口。二月,置南郡之夷陵縣以居降附。三月,以尚書令司馬孚為司空。四月甲申,以征南將軍王昶為征南大將軍。壬辰,大赦。丙午,聞太尉王淩謀廢帝,立楚王彪,太傅司馬宣王東征淩。五月甲寅,淩自殺。六月,彪賜死。秋七月壬戌,皇后甄氏崩。辛未,以司空司馬孚為太尉。戊寅,太傅司馬宣王薨,以衞將軍司馬景王為撫軍大將軍,錄尚書事。乙未,葬懷甄后於太清陵。庚子,驃騎將軍孫資薨。十一月,有司奏諸功臣應饗食於太祖廟者,更以官為次,太傅司馬宣王功高爵尊,最在上。十二月,以光祿勳鄭沖為司空。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

嘉平三年(251年)春正月、荊州刺史の王基と新城太守の州泰が呉を攻撃し、これを破り、数千人を降伏させました。二月、南郡の夷陵県を設置し、降伏した者たちを住まわせました。三月、尚書令の司馬孚を司空に任じました。四月甲申の日(4月8日)、征南将軍の王昶を征南大将軍に任じました。壬辰の日(4月16日)、大赦を行いました。丙午の日(4月30日)、太尉の王淩が帝を廃して楚王曹彪を立てようと謀反を企てたことが発覚し、太傅の司馬宣王(司馬懿)が東征して王淩を討ちました。五月甲寅の日(5月8日)、王淩は自殺しました。六月、楚王曹彪も賜死されました。

秋七月壬戌の日(7月22日)、皇后の甄氏が崩御しました。辛未の日(7月31日)、司空の司馬孚を太尉に任じました。戊寅の日(8月7日)、太傅の司馬宣王(司馬懿)が薨去し、衛将軍の司馬景王(司馬師)を撫軍大将軍に任じ、尚書の業務を統括させました。乙未の日(8月14日)、懐甄后を太清陵に葬りました。庚子の日(8月29日)、驃騎将軍の孫資が薨去しました。

十一月、有司が上奏し、功臣たちが太祖廟で祀られる順序を官位に基づいて改めることとなり、太傅司馬宣王の功績が最も高く、最上位に置かれることが決定されました。十二月、光禄勲の鄭沖を司空に任じました。

嘉平四年(252年)

四年春正月癸卯,以撫軍大將軍司馬景王為大將軍。二月,立皇后張氏,大赦。夏五月,魚二,見於武庫屋上。冬十一月,詔征南大將軍王昶、征東將軍胡遵、鎮南將軍毌丘儉等征吳。十二月,吳大將軍諸葛恪拒戰,大破眾軍于東關。不利而還。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

嘉平四年(252年)春正月癸卯の日(1月27日)、撫軍大将軍の司馬景王(司馬師)を大将軍に任じました。二月、皇后として張氏を立て、大赦を行いました。

夏五月、武庫の屋根の上に魚が二尾現れました。冬十一月、詔を発し、征南大将軍の王昶、征東将軍の胡遵、鎮南将軍の毌丘儉らに命じて呉を討伐させました。十二月、呉の大将軍諸葛恪が戦いを拒み、東関で諸軍を大破しました。魏軍は不利となり、撤退しました。

嘉平五年(253年)

五年夏四月,大赦。五月,吳太傅諸葛恪圍合肥新城,詔太尉司馬孚拒之。秋七月,恪退還。八月,詔曰:「故中郎西平郭脩,砥節厲行,秉心不回。乃者蜀將姜維寇鈔脩郡,為所執略。往歲偽大將軍費禕驅率羣眾,陰圖闚𨵦,道經漢壽,請會眾賓,脩於廣坐之中手刃擊禕,勇過聶政,功逾介子,可謂殺身成仁,釋生取義者矣。夫追加褒寵,所以表揚忠義;祚及後胤,所以奬勸將來。其追封脩為長樂鄉侯,食邑千戶,諡曰威侯;子襲爵,加拜奉車都尉;賜銀千鉼,絹千匹,以光寵存亡,永垂來世焉。」自帝即位至于是歲,郡國縣道多所置省,俄或還復,不可勝紀。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

嘉平五年(253年)夏四月、大赦が行われました。五月、呉の太傅諸葛恪が合肥新城を包囲したため、詔を発し、太尉の司馬孚にこれを防ぐよう命じました。秋七月、諸葛恪は退却しました。

八月、詔して言いました。「故中郎の西平の郭脩は、節操を守り行動を厳しく律し、心を正しく保ちました。以前、蜀の将である姜維が襲撃し、郭脩の郡を略奪して彼を捕らえました。昨年、偽の大将軍である費禕(蜀漢の大将軍)が軍勢を率いて漢寿を経由し、宴会を開くように求めましたが、郭脩は大勢の中で禕を手で刺し殺しました。その勇気は聶政を超え、功績は介子推を上回るものです。彼はまさに命を捨てて仁義を成し遂げ、生を捨てて大義を取った者といえます。追加の褒賞は忠義を顕彰するためであり、その恩恵が子孫にも及ぶのは、将来の者たちへの奨励とするためです。よって、郭脩を長楽郷侯に追封し、千戸の食邑を与え、諡号を『威侯』とします。彼の子が爵位を継承し、奉車都尉に任じ、さらに銀千鉼と絹千匹を賜り、存命の者にも亡くなった者にも光栄を与え、後世にその名を伝えることとします。」

帝が即位してからこの年までに、郡や国、県や道の設置や廃止が数多く行われ、その後に再設置されたり復帰したものも多く、記録しきれないほどです。

嘉平六年(254年)

六年春二月己丑,鎮東將軍毌丘儉上言:「昔諸葛恪圍合肥新城,城中遣士劉整出圍傳消息,為賊所得,考問所傳,語整曰:『諸葛公欲活汝,汝可具服。』整罵曰:『死狗,此何言也!我當必死為魏國鬼,不苟求活,逐汝去也。欲殺我者,便速殺之。』終無他辭。又遣士鄭像出城傳消息,或以語恪,恪遣馬騎尋圍跡索,得像還。四五人(的)〔靮〕頭面縛,將繞城表,勑語像,使大呼,言『大軍已還洛,不如早降。』像不從其言,更大呼城中曰:『大軍近在圍外,壯士努力!』賊以刀築其口,使不得言,像遂大呼,令城中聞知。整、像為兵,能守義執節,子弟宜有差異。」詔曰:「夫顯爵所以褒元功,重賞所以寵烈士。整、像召募通使,越蹈重圍,冒突白刃,輕身守信,不幸見獲,抗節彌厲,揚六軍之大勢,安城守之懼心,臨難不顧,畢志傳命。昔解楊執楚,有隕無貳,齊路中大夫以死成命,方之整、像,所不能加。今追賜整、像爵關中侯,各除士名,使子襲爵,如部曲將死事科。」庚戌,中書令李豐與皇后父光祿大夫張緝等謀廢易大臣,以太常夏侯玄為大將軍。事覺,諸所連及者皆伏誅。辛亥,大赦。三月,廢皇后張氏。夏四月,立皇后王氏,大赦。五月,封后父奉車都尉王夔為廣明鄉侯、光祿大夫,位特進,妻田氏為宣陽鄉君。秋九月,大將軍司馬景王將謀廢帝,以聞皇太后。甲戌,太后令曰:「皇帝芳春秋已長,不親萬機,耽淫內寵,沈漫女德,日延倡優,縱其醜謔;迎六宮家人留止內房,毀人倫之敍,亂男女之節;恭孝日虧,悖慠滋甚,不可以承天緒,奉宗廟。使兼太尉高柔奉策,用一元大武告于宗廟,遣芳歸藩于齊,以避皇位。」是日遷居別宮,年二十三。使者持節送衞,營齊王宮於河內〔之〕重門,制度皆如藩國之禮。丁丑,令曰:「東海王霖,高祖文皇帝之子。霖之諸子,與國至親,高貴鄉公髦有大成之量,其以為明皇帝嗣。」

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

嘉平六年(254年)春二月己丑の日(2月24日)、鎮東将軍の毌丘儉が上奏しました。「かつて諸葛恪が合肥新城を包囲したとき、城中から兵士の劉整が包囲を突破して消息を伝えようとしましたが、賊に捕らえられました。賊は彼を拷問し、言葉を強要しようとして『諸葛公(諸葛恪)はお前を助けてやる。素直に従え』と言いましたが、整は『死にかけの犬め、何を言うか!私は必ず魏国の忠実な亡霊となる。命を惜しんで生き延びようとは思わぬ。さあ、さっさと私を殺せ!』と罵りました。結局、他の言葉は何も漏らしませんでした。また、兵士の鄭像も同様に包囲を突破して消息を伝えようとしましたが、諸葛恪に捕らえられました。恪は馬騎を使って包囲跡を追跡し、鄭像を捕らえて戻しました。像は四五人に縛られ、城の周りを引き回されましたが、恪は彼に大声で城中に『大軍は洛陽に戻った。降伏したほうがよい』と言わせようとしました。ところが、鄭像は従わず、逆に『大軍は包囲の外に近づいている。壮士たちは頑張れ!』と大声で叫びました。賊は彼の口を刀で打ち、声を出せなくしましたが、像はさらに大声で叫び、城中に知られるようにしました。整と像は、兵士として忠義を守り、節操を堅持しました。彼らの子弟に相応の恩賞を与えるべきです。」詔して言いました。「爵位は元勲を褒めるためにあり、重賞は烈士を称えるためにある。整と像は、招募に応じて命令を伝えるために危険を冒し、包囲を突破し、白刃の中を進み、身を軽んじて信義を守った。不幸にも捕らえられたが、節操をますます固くし、魏軍の勢いを広め、城中の守兵の不安を取り除きました。困難に直面しても決して動揺せず、命を賭して任務を全うしました。昔、解楊は楚軍に捕らえられ、命を捨てて任務を果たしましたが、整と像はそれに匹敵する忠義を示したと言えます。今、整と像を追封し、関中侯の爵位を与え、彼らの士籍を除名し、子が爵位を継承し、部曲将(軍の将軍)の死事に準じた恩賞を与えることとします。」

同月庚戌の日(2月25日)、中書令の李豊が皇后の父である光禄大夫の張緝らと共に、大臣を廃して太常の夏侯玄を大将軍に立てる謀反を企てました。この計画が発覚し、関係者は全員誅殺されました。辛亥の日(2月26日)、大赦が行われました。三月、皇后の張氏が廃されました。

夏四月、王氏を新たに皇后に立て、大赦が行われました。五月、皇后の父である奉車都尉の王夔を広明郷侯に封じ、光禄大夫に任じ、位は特進としました。また、王夔の妻である田氏を宣陽郷君に封じました。

秋九月、大将軍の司馬景王(司馬師)は皇帝を廃位する計画を立て、皇太后に報告しました。甲戌の日(9月29日)、皇太后は詔を発し、「皇帝(曹芳)はすでに成年に達しているにもかかわらず、政務に親しまず、内宮の寵愛にふけり、女官に耽溺し、日々、歌舞や戯れに興じています。また、六宮の家族を内房に迎え入れて留め置き、人倫の秩序を乱し、男女の節度を破りました。恭孝の心は日ごとに失われ、悖逆(不道徳)はますます甚だしく、これでは天命を受け継ぎ、宗廟を守ることはできません。太尉の高柔に策命を持たせ、天命を告げて宗廟に報告し、皇帝を廃して、曹芳を齊王として藩国に帰らせ、皇位を避けさせます」と述べました。その日に曹芳は別宮に移され、23歳でありました。使者が節を持って護衛し、河内にある齊王宮に送り届けました。その制度は藩国の礼に準じて整えられました。

丁丑の日(10月12日)、詔を発して、「東海王曹霖は高祖文皇帝(曹丕)の子であり、霖の子孫は魏の宗族で最も近い親族です。高貴郷公(曹髦)は大いなる器量を持っているため、彼を明皇帝(曹叡)の後継者とする」としました。

曹髦

高貴鄉公諱髦,字彥士,文帝孫,東海定王霖子也。正始五年,封郯縣高貴鄉公。少好學,夙成。齊王廢,公卿議迎立公。十月己丑,公至于玄武館,羣臣奏請舍前殿,公以先帝舊處,避止西廂;羣臣又請以法駕迎,公不聽。庚寅,公入于洛陽,羣臣迎拜西掖門南,公下輿將答拜,儐者請曰:「儀不拜。」公曰:「吾人臣也。」遂答拜。至止車門下輿。左右曰:「舊乘輿入。」公曰:「吾被皇太后徵,未知所為!」遂步至太極東堂,見于太后。其日即皇帝位於太極前殿,百僚陪位者欣欣焉。詔曰:「昔三祖神武聖德,應天受祚。齊王嗣位,肆行非度,顛覆厥德。皇太后深惟社稷之重,延納宰輔之謀,用替厥位,集大命于余一人。以眇眇之身,託于王公之上,夙夜祗畏,懼不能嗣守祖宗之大訓,恢中興之弘業,戰戰兢兢,如臨于谷。今羣公卿士股肱之輔,四方征鎮宣力之佐,皆積德累功,忠勤帝室;庶憑先祖先父有德之臣,左右小子,用保乂皇家,俾朕蒙闇,垂拱而治。蓋聞人君之道,德厚侔天地,潤澤施四海,先之以慈愛,示之以好惡,然後教化行於上,兆民聽於下。朕雖不德,昧於大道,思與宇內共臻茲路。書不云乎:『安民則惠,黎民懷之。』」大赦,改元。減乘輿服御,後宮用度,及罷尚方御府百工技巧靡麗無益之物。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

高貴郷公(曹髦)は、諱を髦、字を彦士といい、文帝(曹丕)の孫で、東海定王の曹霖の子です。正始五年(244年)に郯県高貴郷公に封じられました。幼い頃から学問を好み、早くに才能を発揮しました。齊王(曹芳)が廃位された後、公卿たちは曹髦を皇帝に迎えることを議論し、十月己丑の日(254年10月27日)、曹髦が玄武館に到着しました。群臣は前殿に宿泊させるよう請願しましたが、曹髦は先帝(曹芳)の旧居であるとして、西廂に身を避けました。さらに群臣が法駕で迎えるよう請願しましたが、曹髦はこれを聞き入れませんでした。

庚寅の日(10月28日)、曹髦は洛陽に入城し、群臣が西掖門南で出迎えて拝礼しました。曹髦は輿から降り、拝礼を返そうとしましたが、儀式を執行する者が「皇帝は拝礼しない」と言いました。これに対して曹髦は「私は人臣である」と答え、拝礼を返しました。そして、車門に到着すると輿から降り、左右が「皇帝は輿に乗って入るべきです」と言いましたが、曹髦は「私は皇太后に召されただけであり、何のためかまだ知らない」と答え、歩いて太極殿の東堂まで進み、皇太后に拝謁しました。その日に太極殿前で即位し、百官は皆歓喜しました。

曹髦の詔で次のように述べました。「昔、三祖(曹操、曹丕、曹叡)は神武で聖徳を備え、天命を受けて王位に就かれた。齊王(曹芳)はその位を継ぎましたが、法度を乱して徳を失いました。皇太后は社稷の重責を深く考え、宰輔の謀を取り入れ、その位を廃して、私に大命を委ねました。私の身は微弱でありながら、王公の上に立つこととなり、朝夕に畏れつつも、祖宗の大きな教訓を守り、中興の大業を拡大することができるか恐れています。私は非常に慎重であり、まるで深い谷に臨むかのような心持ちです。今、群臣や卿士、四方の征鎮の将が皆、徳を積み重ね、忠勤を尽くして帝室を支えており、彼らが祖先や父祖の徳ある臣たちの力を借りて、私を助け、皇家を守ってくれることを願っています。私はただ、蒙昧な身で、慎み深く治めようとしています。人君の道は、厚い徳をもって天地に匹敵し、その恩恵を四海に施し、慈愛をもって導き、好悪を示すことで、教化が上に行われ、民がそれに従うというものです。私は不徳であり、大道に暗いが、天下とともにこの道を歩みたいと考えています。『書経』にも『民を安んじれば、民はこれを懐う』とあります。」

このとき、大赦が行われ、元号を改めました。また、皇帝の乗物や服飾、後宮の費用を削減し、尚方御府の贅沢で役に立たない工芸品や技巧を廃止しました。

正元元年(254年)

正元元年冬十月壬辰,遣侍中持節分適四方,觀風俗,勞士民,察寃枉失職者。癸巳,假大將軍司馬景王黃鉞,入朝不趨,奏事不名,劍履上殿。戊戌,黃龍見于鄴井中。甲辰,命有司論廢立定策之功,封爵、增邑、進位、班賜各有差。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

正元元年(254年)冬十月壬辰の日(10月21日)、侍中を派遣し、節を持たせて四方に送り、風俗を視察し、士民を慰労し、冤罪や職務を失った者を調査させました。癸巳の日(10月22日)、大将軍の司馬景王(司馬師)に黄鉞を授け、入朝する際に歩かずに乗物に乗ることを許し、奏事の際に名を呼ばず、剣を帯びて殿上に昇ることを許可しました。戊戌の日(10月27日)、鄴の井戸の中に黄龍が現れました。甲辰の日(11月2日)、有司に命じて、皇帝廃立に関する功績を議論させ、封爵、領地の増加、位の進級、賜与がそれぞれ功績に応じて行われました。

正元二年(255年)

二年春正月乙丑,鎮東將軍毌丘儉、揚州刺史文欽反。(戊戌)〔戊寅〕,大將軍司馬景王征之。癸未,車騎將軍郭淮薨。閏月己亥,破欽于樂嘉。欽遁走,遂奔吳。甲辰,(安風淮津)〔安風津〕都尉斬儉,傳首京都。壬子,復特赦淮南士民諸為儉、欽所詿誤者。以鎮南將軍諸葛誕為鎮東大將軍。司馬景王薨于許昌。二月丁巳,以衞將軍司馬文王為大將軍,錄尚書事。

甲子,吳大將孫峻等眾號十萬至壽春,諸葛誕拒擊破之,斬吳左將軍留贊,獻捷于京都。三月,立皇后卞氏,大赦。夏四月甲寅,封后父卞隆為列侯。甲戌,以征南大將軍王昶為驃騎將軍。秋七月,以征東大將軍胡遵為衛將軍,鎮東大將軍諸葛誕為征東大將軍。

八月辛亥,蜀大將軍姜維寇狄道,雍州刺史王經與戰洮西,經大敗,還保狄道城。辛未,以長水校尉鄧艾行安西將軍,與征西將軍陳泰并力拒維。戊辰,復遣太尉司馬孚為後繼。九月庚子,講尚書業終,賜執經親授者司空鄭沖、侍中鄭小同等各有差。甲辰,姜維退還。

冬十月,詔曰:「朕以寡德,不能式遏寇虐,乃令蜀賊陸梁邊陲。洮西之戰,至取負敗,將士死亡,計以千數,或沒命戰場,寃魂不反,或牽掣虜手,流離異域,吾深痛愍,為之悼心。其令所在郡典農及安撫夷二護軍各部大吏慰卹其門戶,無差賦役一年;其力戰死事者,皆如舊科,勿有所漏。」

十一月甲午,以隴右四郡及金城,連年受敵,或亡叛投賊,其親戚留在本土者不安,皆特赦之。癸丑,詔曰:「往者洮西之戰,將吏士民或臨陳戰亡,或沈溺洮水,骸骨不收,棄於原野,吾常痛之。其告征西、安西將軍,各令部人於戰處及水次鉤求屍喪,收斂藏埋,以慰存亡。」

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

正元二年(255年)春正月乙丑の日(1月26日)、鎮東将軍の毌丘儉と揚州刺史の文欽が反乱を起こしました。戊寅の日(1月29日)、大将軍の司馬景王(司馬師)がこれを討伐するために出征しました。癸未の日(2月3日)、車騎将軍の郭淮が薨去しました。閏月己亥の日(2月25日)、文欽を楽嘉で打ち破り、欽は逃亡して呉に奔りました。甲辰の日(3月3日)、安風津の都尉が毌丘儉を斬り、その首を京都に送られました。壬子の日(3月11日)、淮南の士民で毌丘儉と文欽に誤って従った者たちに特赦が与えられました。鎮南将軍の諸葛誕が鎮東大将軍に任じられました。同月、司馬景王が許昌で薨去しました。二月丁巳の日(3月20日)、衛将軍の司馬文王(司馬昭)が大将軍に任じられ、尚書の業務を統括しました。

甲子の日(4月6日)、呉の大将である孫峻が10万の軍勢を率いて壽春に進軍しましたが、諸葛誕がこれを防ぎ、大破しました。呉の左将軍である留贊を斬り、その勝利を京都に報告しました。三月、皇后として卞氏を立て、大赦が行われました。夏四月甲寅の日(5月21日)、皇后の父である卞隆を列侯に封じました。甲戌の日(5月31日)、征南大将軍の王昶が驃騎将軍に任じられました。秋七月、征東大将軍の胡遵が衛将軍に任じられ、鎮東大将軍の諸葛誕が征東大将軍に任じられました。

八月辛亥の日(8月22日)、蜀の大将軍姜維が狄道を攻撃し、雍州刺史の王経と洮西で戦いましたが、王経は大敗し、狄道城に退却しました。辛未の日(9月10日)、長水校尉の鄧艾が安西将軍に任じられ、征西将軍の陳泰と共に力を合わせて姜維を防ぎました。戊辰の日(9月17日)、さらに太尉の司馬孚が後詰として派遣されました。九月庚子の日(9月29日)、『尚書』の講義が終わり、執経して講義を行った司空の鄭沖や侍中の鄭小同らにそれぞれ恩賞が与えられました。甲辰の日(10月3日)、姜維は撤退しました。

冬十月、詔が発せられました。「私は徳が薄く、賊を抑えることができず、蜀の賊が辺境で横行するに任せてしまいました。洮西の戦いでは、甚大な敗北を喫し、将士の死者は千人に及び、ある者は戦場で命を落とし、ある者は捕虜となって異境に流浪しています。私は深くこれを痛み、悼む心に満たされています。各地の郡典農や安撫夷二護軍の官吏に命じて、これらの遺族を慰労し、賦役を一年間免除します。また、力戦して死んだ者については、旧来の制度通りに恩賞を与え、漏れることがないようにします。」

十一月甲午の日(11月14日)、隴右四郡および金城では、連年の敵襲により、亡命や反乱で賊に投降する者が続出し、残された親族も安心できない状態にあるため、彼らに特赦が与えられました。癸丑の日(11月23日)、詔して言いました。「かつて洮西の戦いでは、将士や士民が戦場で命を落とし、洮水に沈み、遺体が収容されず、野に捨て置かれています。私はこれを常に痛ましく思っています。征西、安西将軍に命じ、部下の者に戦場や川岸で遺体を探し出し、収容して埋葬し、生者と亡者の心を慰めるようにせよ。」

甘露元年(256年)

甘露元年春正月辛丑,青龍見軹縣井中。乙巳,沛王林薨。夏四月庚戌,賜大將軍司馬文王兗冕之服,赤舄副焉。丙辰,帝幸太學,問諸儒曰:「聖人幽贊神明,仰觀俯察,始作八卦,後聖重之為六十四,立爻以極數,凡斯大義,罔有不備,而夏有連山,殷有歸藏,周曰周易,易之書,其故何也?」易博士淳于俊對曰:「包羲因燧皇之圖而制八卦,神農演之為六十四,黃帝、堯、舜通其變,三代隨時,質文各繇其事。故易者,變易也,名曰連山,似山出內〔雲〕氣,連天地也;歸藏者,萬事莫不歸藏于其中也。」帝又曰:「若使包羲因燧皇而作易,孔子何以不云燧人氏沒包羲氏作乎?」俊不能答。帝又問曰:「孔子作彖、象,鄭玄作注,雖聖賢不同,其所釋經義一也。今彖、象不與經文相連,而注連之,何也?」俊對曰:「鄭玄合彖、象于經者,欲使學者尋省易了也。」帝曰:「若鄭玄合之,於學誠便,則孔子曷為不合以了學者乎?」俊對曰:「孔子恐其與文王相亂,是以不合,此聖人以不合為謙。」帝曰:「若聖人以不合為謙,則鄭玄何獨不謙邪?」俊對曰:「古義弘深,聖問奧遠,非臣所能詳盡。」帝又問曰:「繫辭云『黃帝、堯、舜垂衣裳而天下治』,此包羲、神農之世為無衣裳。但聖人化天下,何殊異爾邪?」俊對曰:「三皇之時,人寡而禽獸眾,故取其羽皮而天下用足,及至黃帝,人眾而禽獸寡,是以作為衣裳以濟時變也。」帝又問:「乾為天,而復為金,為玉,為老馬,與細物並邪?」俊對曰:「聖人取象,或遠或近,近取諸物,遠則天地。」

講易畢,復命講尚書。帝問曰:「鄭玄曰『稽古同天,言堯同於天也』。王肅云『堯順考古道而行之』。二義不同,何者為是?」博士庾峻對曰:「先儒所執,各有乖異,臣不足以定之。然洪範稱『三人占,從二人之言』。賈、馬及肅皆以為『順考古道』。以洪範言之,肅義為長。」帝曰:「仲尼言『唯天為大,唯堯則之』。堯之大美,在乎則天,順考古道,非其至也。今發篇開義以明聖德,而舍其大,更稱其細,豈作者之意邪?」峻對曰:「臣奉遵師說,未喻大義,至于折中,裁之聖思。」

次及四嶽舉鯀,帝又問曰:「夫大人者,與天地合其德,與日月合其明,思無不周,明無不照,今王肅云『堯意不能明鯀,是以試用』。如此,聖人之明有所未盡邪?」峻對曰:「雖聖人之弘,猶有所未盡,故禹曰『知人則哲,惟帝難之』,然卒能改授聖賢,緝熙庶績,亦所以成聖也。」帝曰:「夫有始有卒,其唯聖人。若不能始,何以為聖?其言『惟帝難之』,然卒能改授,蓋謂知人,聖人所難,非不盡之言也。經云:『知人則哲,能官人。』若堯疑鯀,試之九年,官人失敍,何得謂之聖哲?」峻對曰:「臣竊觀經傳,聖人行事不能無失,是以堯失之四凶,周公失之二叔,仲尼失之宰予。」帝曰:「堯之任鯀,九載無成,汨陳五行,民用昏墊。至於仲尼失之宰予,言行之間,輕重不同也。至于周公、管、蔡之事,亦尚書所載,皆博士所當通也。」峻對曰:「此皆先賢所疑,非臣寡見所能究論。」

次及「有鰥在下曰虞舜」,帝問曰:「當堯之時,洪水為害,四凶在朝,宜速登賢聖濟斯民之時也。舜年在既立,聖德光明,而久不進用,何也?」峻對曰:「堯咨嗟求賢,欲遜己位,嶽曰『否德忝帝位』。堯復使嶽揚舉仄陋,然後薦舜。薦舜之本,實由於堯,此蓋聖人欲盡眾心也。」帝曰:「堯既聞舜而不登用,又時忠臣亦不進達,乃使獄揚仄陋而後薦舉,非急於用聖恤民之謂也。」峻對曰:「非臣愚見所能逮及。」

於是復命講禮記。帝問曰:「『太上立德,其次務施報』。為治何由而教化各異;皆脩何政而能致于立德,施而不報乎?」博士馬照對曰:「太上立德,謂三皇五帝之世以德化民,其次報施,謂三王之世以禮為治也。」帝曰:「二者致化薄厚不同,將主有優劣邪?時使之然乎?」照對曰:「誠由時有樸文,故化有薄厚也。」

五月,鄴及(上谷)〔上洛〕並言甘露降。夏六月丙午,改元為甘露。乙丑,青龍見元城縣界井中。秋七月己卯,衞將軍胡遵薨。癸未,安西將軍鄧艾大破蜀大將姜維于上邽,詔曰:「兵未極武,醜虜摧破,斬首獲生,動以萬計,自頃戰克,無如此者。今遣使者犒賜將士,大會臨饗,飲宴終日,稱朕意焉。」

八月庚午,命大將軍司馬文王加號大都督,奏事不名,假黃鉞。癸酉,以太尉司馬孚為太傅。九月,以司徒高柔為太尉。冬十月,以司空鄭沖為司徒,尚書左僕射盧毓為司空。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

甘露元年(256年)春正月辛丑の日(1月23日)、青龍が軹県の井戸の中に現れました。乙巳の日(1月27日)、沛王曹林が薨去しました。

夏四月庚戌の日(5月22日)、大将軍司馬文王(司馬昭)に兗冕の服と赤舄を賜りました。

丙辰の日(5月28日)、皇帝は太学を訪れ、儒者たちに問いました。
「聖人は神明を助け、天を仰ぎ、地を観察して八卦を創り、後の聖人がそれを重んじて六十四卦に発展させ、爻を立てて数を尽くしました。この大義はすべてを網羅していますが、夏には『連山』、殷には『帰蔵』、周には『周易』があります。易の書がこのように異なるのはどうしてですか?」

易博士の淳于俊が答えて言いました。
「包羲(伏羲)は燧皇の図をもとに八卦を作り、神農がそれを六十四卦に発展させました。黄帝、堯、舜はその変化を理解し、三代の王(夏・殷・周)は時代に応じて、質素と華麗をそれぞれ取り入れました。『連山』とは、山の形が雲気を内に含み、天地をつなぐという意味です。『帰蔵』とは、万事がすべてその中に帰蔵されるという意味です。」

皇帝はさらに問いました。
「もし包羲が燧皇に因んで易を作ったのなら、孔子はなぜ『燧人氏が没してから包羲氏が易を作った』と記さなかったのでしょうか?」
淳于俊は答えられませんでした。

皇帝 「孔子は『彖』や『象』を作り、鄭玄は注を作りました。聖人と賢人は異なりますが、彼らが解釈する経義は同じです。しかし、『彖』や『象』は経文と連結されておらず、鄭玄がそれを連結させています。これはどうしてですか?」
淳于俊 「鄭玄が『彖』や『象』を経文と合わせたのは、学者が学びやすくするためです。」

皇帝 「もし鄭玄がそれを合わせたのが学習の便を図ったためなら、孔子はどうしてそれをしなかったのですか?」
淳于俊 「孔子は文王と混同することを恐れたため、あえて連結しなかったのです。これは聖人の謙虚さによるものです。」

皇帝 「もし聖人が謙虚さゆえに連結しなかったというなら、鄭玄はどうして謙虚でなかったのですか?」

淳于俊 「古代の義は広く深遠であり、聖人の問いは奥深く、私には詳しく説明することはできません。」

皇帝 「繋辞には『黄帝、堯、舜は衣裳を垂れて天下を治めた』とあります。しかし、包羲や神農の時代には衣裳がなかったはずです。聖人が天下を教化することに何か違いがあるのでしょうか?」 淳于俊 「三皇の時代には人が少なく、禽獣が多かったため、羽や皮を使って生活をしていました。黄帝の時代には人が多くなり、禽獣が少なくなったため、衣裳を作って時代の変化に対応したのです。」

皇帝 「『乾』は天を表し、また金や玉、老馬などをも表しますが、これら細かな物と同じように扱われるのですか?」
淳于俊 「聖人が取る象(比喩)は、時に遠く、時に近く、近くの象は物に取られ、遠くの象は天地に取られるのです。」

『易経』の講義が終わり、次に『尚書』の講義に移りました。

皇帝は問いました。
「鄭玄は『稽古同天』と言い、これは堯が天に従ったという意味です。王肅は『堯は古の道を順に行った』と言います。この二つの解釈は異なりますが、どちらが正しいのでしょうか?」

博士の庾峻は答えて言いました。
「先学者たちの見解はそれぞれ異なりますが、私には決めかねます。しかし、『洪範』では『三人で占い、二人の意見に従う』とあります。賈逵、馬融、王肅は皆『古の道を順に行った』と解釈しています。『洪範』に基づくと、王肅の解釈が正しいと思われます。」

皇帝 「孔子は『天だけが偉大であり、堯はそれに従った』と言っています。堯の偉大さは天に則ったことにありますが、古の道を順に行ったという解釈では、その偉大さが十分に表現されていません。聖徳を明らかにするために篇を開いて義を解釈するのに、その大きな意義を捨てて細かい部分を強調するのは、解釈者の意図に反しているのではないでしょうか?」
庾峻 「私は師の教えに従っていますが、大義を理解しておらず、最終的な判断は聖人の思索に委ねます。」

次に、四嶽が鯀を推薦した件に移りました。

皇帝 「大人(聖人)はその徳を天地と合わせ、その明を日月と合わせ、思いは周り、明は全てを照らすものです。ところが、王肅は『堯は鯀の能力を見極めることができず、試用した』と言っています。もしそうなら、聖人の明察は完全ではないということでしょうか?」
庾峻 「聖人であっても、全てを知り尽くすことはできません。だからこそ禹は『人を知ることは哲であり、帝であっても難しい』と言ったのです。しかし、最終的に堯は賢者に授け直し、業績を立てたことで、聖人としての徳を完成させたのです。」

皇帝 「聖人は始めたことを終えることができる者です。もし始められなければ、どうして聖人と言えるでしょうか?『知人則哲、能官人』と言います。もし堯が鯀を疑い、九年間も試用した結果、官人が適切に配置されなかったならば、どうして聖哲と呼ばれることができるのでしょうか?」
庾峻 「私は経書や伝書を観察するに、聖人であっても過ちは避けられません。堯が四凶を任用したり、周公が二叔(管叔・蔡叔)を誤って任じたり、孔子が宰予を任じたのもその例です。」

皇帝 「堯が鯀を任じた結果、九年間にわたって何の成果もなく、五行が乱れ、民は困窮しました。孔子が宰予を誤ったのは言行の軽重の問題であり、周公の管叔・蔡叔の件も『尚書』に記されています。これらの問題はすべて博士が通じているべきものです。」
庾峻 「これらは先賢たちが疑問に思った問題であり、私の浅学では詳しく論じることができません。」

次に「有鰥在下曰虞舜」の件に移りました。

皇帝 「堯の時代、大洪水が起こり、四凶が朝廷にいたため、賢人を速やかに登用して民を救うべき時でした。舜はすでに立派な聖徳を備えていたのに、なぜ長い間登用されなかったのでしょうか?」
庾峻 「堯は賢者を探し、位を譲ることを考えましたが、四嶽は『自分にはその徳がなく、帝位にふさわしくない』と答えました。そこで堯は再び四嶽に命じて、隠れている賢者を推薦させ、舜が推挙されたのです。舜を推挙したのは堯の意図であり、聖人が民の心を尽くそうとした結果です。」

皇帝 「堯はすでに舜の名を聞いていながら登用せず、忠臣たちも進められず、試しに隠れた者を探し出してから推薦しましたが、これは聖人が急いで賢者を用いて民を救うこととは言えません。」
庾峻 「これは私の愚見では及びません。」

その後、皇帝は『礼記』の講義に移りました。

皇帝 「『太上は徳を立て、次は報施を務める』と言います。統治によって教化が異なるのは何故ですか?どのような政策を修めることで、報施をせずとも徳を立てることができるのでしょうか?」
博士の馬照は答えて言いました。
「『太上は徳を立てる』とは、三皇五帝の時代には徳によって民を教化したことを指し、『次は報施を務める』とは、三王の時代には礼によって統治したことを指します。」

皇帝 「この二つの教化の効果に差があるのは、君主の優劣によるものか、それとも時代によるものですか?」
馬照 「それは時代に質素な時期と華美な時期があったためであり、そのため教化の効果に濃淡が生じたのです。」

五月、鄴および上洛で甘露の降下が報告されました。夏六月丙午の日(6月28日)、元号を甘露に改めました。乙丑の日(6月30日)、青龍が元城県の井戸の中に現れました。秋七月己卯の日(8月23日)、衛将軍の胡遵が薨去しました。

癸未の日(9月6日)、安西将軍の鄧艾が上邽で蜀の大将軍姜維を大破しました。詔を発し、「兵力を極めることなく、賊を破り、斬首と捕虜は万を数える。これほどの勝利は近年にはなかった。今、使者を派遣して将士を労い、大宴を開き、朕の意を伝える」と述べました。

八月庚午の日(9月17日)、大将軍司馬文王に大都督の号を加え、奏事の際に名を呼ばず、黄鉞を授けました。癸酉の日(9月20日)、太尉の司馬孚を太傅に任じました。九月、高柔を太尉に任じました。冬十月、司空の鄭沖を司徒に任じ、尚書左僕射の盧毓を司空に任じました。

甘露二年(257年)

二年春二月,青龍見溫縣井中。三月,司空盧毓薨。夏四月癸卯,詔曰:「玄菟郡高顯縣吏民反叛,長鄭熙為賊所殺。民王簡負擔熙喪,晨夜星行,遠致本州,忠節可嘉。其特拜簡為忠義都尉,以旌殊行。」甲子,以征東大將軍諸葛誕為司空。五月辛未,帝幸辟雍,會命羣臣賦詩。侍中和逌、尚書陳騫等作詩稽留,有司奏免官,詔曰:「吾以暗昧,愛好文雅,廣延詩賦,以知得失,而乃爾紛紜,良用反仄。其原逌等。主者宜勑自今以後,羣臣皆當玩習古義,脩明經典,稱朕意焉。」乙亥,諸葛誕不就徵,發兵反,殺揚州刺史樂綝。丙子,赦淮南將吏士民為誕所詿誤者。丁丑,詔曰:「諸葛誕造為凶亂,盪覆揚州。昔黥布逆叛,漢祖親戎,隗囂違戾,光武西伐,及烈祖明皇帝躬征吳、蜀,皆所以奮揚赫斯,震耀威武也。今宜皇太后與朕暫共臨戎,速定醜虜,時寧東夏。」己卯,詔曰:「諸葛誕造構逆亂,迫脅忠義,平寇將軍臨渭亭侯龐會、騎督偏將軍路蕃,各將左右,斬門突出,忠壯勇烈,所宜嘉異。其進會爵鄉侯,蕃封亭侯。」六月乙巳,詔:「吳使持節都督夏口諸軍事鎮軍將軍沙羡侯孫壹,賊之枝屬,位為上將,畏天知命,深鑒禍福,翻然舉眾,遠歸大國,雖微子去殷,樂毅遁燕,無以加之。其以壹為侍中車騎將軍、假節、交州牧、吳侯,開府辟召儀同三司,依古侯伯八命之禮,兗冕赤舄,事從豐厚。」甲子,詔曰:「今車駕駐項,大將軍恭行天罰,前臨淮浦。昔相國大司馬征討,皆與尚書俱行,今宜如舊。」乃令散騎常侍裴秀、給事黃門侍郎鍾會咸與大將軍俱行。秋八月,詔曰:「昔燕刺王謀反,韓誼等諫而死,漢朝顯登其子。諸葛誕創造凶亂,主簿宣隆、部曲督秦絜秉節守義,臨事固爭,為誕所殺,所謂無比干之親而受其戮者。其以隆、絜子為騎都尉,加以贈賜,光示遠近,以殊忠義。」九月,大赦。冬十二月,吳大將全端、全懌等率眾降。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

甘露二年(257年)春二月、青龍が温県の井戸の中に現れました。三月、司空の盧毓が薨去しました。

夏四月癸卯の日(4月26日)、詔を発して言いました。「玄菟郡の高顯県の吏民が反乱を起こし、県長の鄭熙が賊によって殺されました。民の王簡は鄭熙の遺体を背負って運び、朝夜を問わず星の下で道を急ぎ、遠くまで本州に運び届けました。その忠節は賞賛に値します。よって、王簡を忠義都尉に特別に任じ、その行いを称揚します。」

甲子の日(5月7日)、征東大将軍の諸葛誕を司空に任じました。

五月辛未の日(5月13日)、皇帝は辟雍を訪れ、群臣に詩を賦させました。侍中の和逌や尚書の陳騫らが詩作を遅らせたため、有司が奏して官を免じようとしましたが、詔して言いました。「私は暗愚でありながら文雅を愛し、詩賦を広く募って人々の得失を知ろうとしましたが、このように遅延してしまいました。これは良い結果ではありません。よって和逌らを赦免します。主事者は今後、群臣に古義を学び、経典を修め、私の意に沿うよう勧告しなさい。」

乙亥の日(5月27日)、諸葛誕は召命に応じず、兵を挙げて反乱を起こし、揚州刺史の楽綝を殺しました。丙子の日(5月28日)、淮南の将吏や士民で諸葛誕に誤って従った者たちに赦免が与えられました。

丁丑の日(5月29日)、詔して言いました。「諸葛誕は反乱を企て、揚州を乱しました。かつて黥布が反乱を起こしたとき、漢祖は親征し、隗囂が叛逆したとき、光武帝は西に討伐しました。また、烈祖(曹操)や明皇帝(曹叡)は呉や蜀を自ら征伐し、威武を振りかざしました。今、皇太后と共に私も一時的に軍を統率し、この賊を速やかに鎮定し、東方の安寧を図るべきです。」

己卯の日(5月31日)、詔して言いました。「諸葛誕は反乱を企て、忠義の士を脅迫しましたが、平寇将軍臨渭亭侯の龐会と騎督偏将軍の路蕃は、それぞれ部隊を率いて門を突破し、忠義を示しました。よって龐会の爵位を郷侯に進め、路蕃を亭侯に封じます。」

六月乙巳の日(6月16日)、詔して言いました。「呉の使持節都督で夏口の諸軍を統括する鎮軍将軍、沙羡侯の孫壹は、賊の一族でありながら上将の位にあり、天命を恐れ、禍福を深く理解し、賢明にも軍勢を率いて大国(魏)に帰順しました。これは殷から去った微子や、燕から逃れた楽毅にも匹敵します。よって孫壹を侍中・車騎将軍に任じ、節を授け、交州牧に任じ、呉侯とし、開府儀同三司として、侯伯の八命に従った礼で接します。また、兗冕と赤舄を与え、その待遇は非常に厚いものとします。」

甲子の日(7月5日)、詔して言いました。「今、車駕は項に駐留し、大将軍は天罰を執行し、淮浦の前に進んでいる。昔、相国や大司馬が征討を行う際には尚書も同行していた。今も旧例に従うべきである。」こうして散騎常侍の裴秀、給事黄門侍郎の鍾会を大将軍に同行させました。

秋八月、詔して言いました。「昔、燕刺王が反乱を起こした際、韓誼らが諫言して死に、漢朝は彼らの子を顕彰しました。諸葛誕が反乱を企てた際、主簿の宣隆と部曲督の秦絜は忠節を守り、職務を全うし、命を懸けて諸葛誕に反対しましたが、誕に殺されました。これは比干の親族ではなくとも、義のために殺された者たちです。よって、宣隆と秦絜の子を騎都尉に任じ、さらに恩賜を加え、忠義を遠近に示すこととします。」

九月、大赦が行われました。冬十二月、呉の大将である全端、全懌らが軍を率いて降伏しました。

甘露三年(258年)

三年春二月,大將軍司馬文王陷壽春城,斬諸葛誕。三月,詔曰:「古者克敵,收其屍以為京觀,所以懲昏逆而章武功也。漢孝武元鼎中,改桐鄉為聞喜,新鄉為獲嘉,以著南越之亡。大將軍親總六戎,營據丘頭,內夷羣凶,外殄寇虜,功濟兆民,聲振四海。克敵之地,宜有令名,其改丘頭為武丘,明以武平亂,後世不忘,亦京觀二邑之義也。」夏五月,命大將軍司馬文王為相國,封晉公,食邑八郡,加之九錫,文王前後九讓乃止。六月丙子,詔曰:「昔南陽郡山賊擾攘,欲劫質故太守東里袞,功曹應余獨身捍袞,遂免於難。余顛沛殞斃,殺身濟君。其下司徒,署余孫倫吏,使蒙伏節之報。」辛卯,大論淮南之功,封爵行賞各有差。秋八月甲戌,以驃騎將軍王昶為司空。丙寅,詔曰:「夫養老興教,三代所以樹風化垂不朽也,必有三老、五更以崇至敬,乞言納誨,著在惇史,然後六合承流,下觀而化。宜妙簡德行,以充其選。關內侯王祥,履仁秉義,雅志淳固。關內侯鄭小同,溫恭孝友,帥禮不忒。其以祥為三老,小同為五更。」車駕親率羣司,躬行古禮焉。是歲,青龍、黃龍仍見頓丘、冠軍、陽夏縣界井中。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

甘露三年(258年)春二月、大将軍の司馬文王(司馬昭)が寿春城を攻略し、諸葛誕を斬りました。三月、詔して言いました。「古代では敵を討ち、敵の屍を集めて京観(戦勝記念の塚)を築くことで、反逆者を戒め、武功を顕彰しました。漢の孝武帝は、元鼎の頃に桐郷を聞喜に、新郷を獲嘉に改め、南越の滅亡を記念しました。今、大将軍(司馬昭)は自ら六軍を率いて丘頭に陣を敷き、内においては反乱者を討ち、外においては賊を殲滅し、功績は人民を救い、その名声は四海に響きました。この勝利の地には名を残すべきです。丘頭を武丘に改め、武力で乱を平定したことを後世に忘れさせないようにし、これは京観を築いた二邑(聞喜・獲嘉)の意義に通じるものです。」

夏五月、大将軍の司馬文王を相国に任じ、晋公に封じ、八郡を食邑とし、さらに九錫を加えましたが、司馬昭は前後九度にわたり固辞しました。

六月丙子の日(6月25日)、詔して言いました。「昔、南陽郡で山賊が騒動を起こし、太守の東里袞を人質に取ろうとしましたが、功曹の応余が単身で袞を守り、難を逃れさせました。応余は命を落として君主を救いました。司徒に命じて、応余の孫である倫を吏に任じ、その忠節に報いるようにさせます。」

辛卯の日(6月30日)、淮南討伐の功績が大いに論じられ、功労者たちに封爵と賞賛がそれぞれ与えられました。

秋八月甲戌の日(9月22日)、驃騎将軍の王昶を司空に任じました。丙寅の日(9月24日)、詔して言いました。「老を敬い、教育を興すことは、三代(夏・商・周)以来の風化を長く伝え、永続させるための方法であり、三老、五更を立てて敬意を表し、教えを乞うことが重要です。このことは歴史に刻まれ、天下がこれを見て模範とし、教化が広まるのです。徳行に優れた者を選び、この役職を充てるべきです。関内侯の王祥は仁徳と義を守り、誠実で堅固な志を持っています。関内侯の鄭小同は温厚で恭順、孝行に篤く、礼を守り誤りがありません。よって、王祥を三老に、鄭小同を五更に任じます。」皇帝自ら群司を率いて古代の礼を行いました。

この年、青龍と黄龍が頓丘、冠軍、陽夏県の井戸に現れました。

甘露四年(259年)

四年春正月,黃龍二,見寧陵縣界井中。夏六月,司空王昶薨。秋七月,陳留王峻薨。冬十月丙寅,分新城郡,復置上庸郡。十一月癸卯,車騎將軍孫壹為婢所殺。

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甘露四年(259年)春正月、二匹の黄龍が寧陵県の井戸に現れました。

夏六月、司空の王昶が薨去しました。

秋七月、陳留王の曹峻が薨去しました。

冬十月丙寅の日(10月28日)、新城郡を分割して、上庸郡を再び設置しました。

十一月癸卯の日(11月14日)、車騎将軍の孫壹が婢(召使)によって殺されました。

甘露五年(260年)

五年春正月朔,日有蝕之。夏四月,詔有司率遵前命,復進大將軍司馬文王位為相國,封晉公,加九錫。

五月己丑,高貴鄉公卒,年二十。皇太后令曰:「吾以不德,遭家不造,昔援立東海王子髦,以為明帝嗣,見其好書疏文章,冀可成濟,而情性暴戾,日月滋甚。吾數呵責,遂更忿恚,造作醜逆不道之言以誣謗吾,遂隔絕兩宮。其所言道,不可忍聽,非天地所覆載。吾即密有令語大將軍,不可以奉宗廟,恐顛覆社稷,死無面目以見先帝。大將軍以其尚幼,謂當改心為善,殷勤執據。而此兒忿戾,所行益甚,舉弩遙射吾宮,祝當令中吾項,箭親墮吾前。吾語大將軍,不可不廢之,前後數十。此兒具聞,自知罪重,便圖為弒逆,賂遺吾左右人,令因吾服藥,密因酖毒,重相設計。事已覺露,直欲因際會舉兵入西宮殺吾,出取大將軍,呼侍中王沈、散騎常侍王業、尚書王經,出懷中黃素詔示之,言今日便當施行。吾之危殆,過于累卵。吾老寡,豈復多惜餘命邪?但傷先帝遺意不遂,社稷顛覆為痛耳。賴宗廟之靈,沈、業即馳語大將軍,得先嚴警,而此兒便將左右出雲龍門,雷戰鼓,躬自拔刃,與左右雜衞共入兵陳間,為前鋒所害。此兒既行悖逆不道,而又自陷大禍,重令吾悼心不可言。昔漢昌邑王以罪廢為庶人,此兒亦宜以民禮葬之,當令內外咸知此兒所行。又尚書王經,凶逆無狀,其收經及家屬皆詣廷尉。」

庚寅,太傅孚、大將軍文王、太尉柔、司徒沖稽首言:「伏見中令,故高貴鄉公悖逆不道,自陷大禍,依漢昌邑王罪廢故事,以民禮葬。臣等備位,不能匡救禍亂,式遏姦逆,奉令震悚,肝心悼慄。春秋之義,王者無外,而書『襄王出居于鄭』,不能事母,故絕之于位也。今高貴鄉公肆行不軌,幾危社稷,自取傾覆,人神所絕,葬以民禮,誠當舊典。然臣等伏惟殿下仁慈過隆,雖存大義,猶垂哀矜,臣等之心實有不忍,以為可加恩以王禮葬之。」太后從之。
使使持節行中護軍中壘將軍司馬炎北迎常道鄉公璜嗣明帝後。帝卯,羣公奏太后曰:「殿下聖德光隆,寧濟六合,而猶稱令,與藩國同。請自今殿下令書,皆稱詔制,如先代故事。」

癸卯,大將車固讓相國、晉公、九錫之寵。太后詔曰:「夫有功不隱,周易大義,成人之美,古賢所尚,今聽所執,出表示外,以章公之謙光焉。」

戊申,大將軍文王上言:「高貴鄉公率將從駕人兵,拔刃鳴金鼓向臣所止;懼兵刃相接,即勑將士不得有所傷害,違令以軍法從事。騎督成倅弟太子舍人濟,橫入兵陳傷公,遂至隕命;輒收濟行軍法。臣聞人臣之節,有死無二,事上之義,不敢逃難。前者變故卒至,禍同發機,誠欲委身守死,唯命所裁。然惟本謀乃欲上危皇太后,傾覆宗廟。臣忝當大任,義在安國,懼雖身死,罪責彌重。欲遵伊、周之權,以安社稷之難,即駱驛申勑,不得迫近輦輿,而濟遽入陳間,以致大變。哀怛痛恨,五內摧裂,不知何地可以隕墜?科律大逆無道,父母妻子同產皆斬。濟凶戾悖逆,干國亂紀,罪不容誅。輒勑侍御史收濟家屬,付廷尉,結正其罪。」太后詔曰:「夫五刑之罪,莫大於不孝。夫人有子不孝,尚告治之,此兒豈復成人主邪?吾婦人不達大義,以謂濟不得便為大逆也。然大將軍志意懇切,發言惻愴,故聽如所奏。當班下遠近,使知本末也。」

六月癸丑,詔曰:「古者人君之為名字,難犯而易諱。今常道鄉公諱字甚難避,其朝臣博議改易,列奏。」

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甘露五年(260年)春正月朔日、日食がありました。

夏四月、詔を発し、有司に命じて以前の命令に従い、大将軍司馬文王(司馬昭)を再び相国に任じ、晋公に封じ、九錫を加えました。

五月己丑の日(5月2日)、高貴郷公(曹髦)が20歳で崩御しました。皇太后は詔を発し、次のように言いました。「私は徳がなく、不幸な時代に直面しました。かつて東海王の子である髦を立て、明帝(曹叡)の後継としましたが、彼は書や文章を好んでいたため、立派な皇帝になることを期待しました。しかし、その性情は暴虐で、日を追うごとに悪化しました。私はたびたび彼を叱責しましたが、彼はますます怒り、醜悪で不道徳な言葉を作り上げて私を誹謗しました。そのため、二つの宮(皇帝と皇太后)は断絶しました。彼の言葉はあまりにも酷く、天地も許さないものでした。私は密かに大将軍に言いましたが、彼が宗廟を奉じることは不可能であり、社稷が危うくなるのではないかと心配しました。大将軍はまだ若いから改心するかもしれないと考え、彼を見守っていましたが、髦はさらに悪化し、弓を取り私の宮に向けて矢を放ち、『矢が私の首に当たるようにしろ』と祈りました。矢は私の前に落ちました。私は大将軍に言いましたが、髦はすでにその罪を知っており、殺害を図り、私の左右の者に賄賂を送り、薬で私を毒殺しようと企てました。これが発覚したため、兵を率いて西宮に入り、私を殺し、大将軍をも殺害しようとしました。侍中王沈、散騎常侍王業、尚書王経を呼び、懐中から黄素の詔を取り出して『今日この計画を実行する』と言いました。私の命は危うく、もはや望みがありませんでした。私は老いて寡婦であり、命を惜しむわけではありませんが、ただ先帝の遺志が遂げられず、社稷が崩壊することを痛ましく思います。宗廟の霊のおかげで、沈と業がすぐに大将軍に知らせ、事前に防ぐことができました。髦は左右の者を連れて雲龍門から出て、雷鼓を打ち、自ら刃を抜いて前線に突入しましたが、前鋒に殺されました。髦は反逆して不道徳な行いをし、自ら大禍に陥り、私の心は痛みでいっぱいです。昔、漢の昌邑王は罪により庶人に降格されました。この髦も民礼にて葬り、内外に彼の行いを知らせるべきです。尚書の王経も凶逆な行いをしたので、経とその家族を廷尉に送って処罰しなさい。」

庚寅の日(5月5日)、太傅の司馬孚、大将軍の司馬文王、太尉の高柔、司徒の鄭沖らが頭を下げて申し上げました。「かつての中令、高貴郷公は反逆し不道徳な行為を行い、自ら大禍を招きました。昌邑王の例に従い、民礼で葬るというご判断は正しいものです。私たちは地位にありながら、禍乱を防ぐことができず、反逆を止めることができなかったため、恐れと悲しみに震えています。『春秋』の義では、王者に外はなく、しかし『襄王は鄭に出居す』とあります。母を敬わず、位を絶たれた者は、例外としてその位を剥奪されました。高貴郷公は不法な行いをし、社稷を危うくし、自ら滅びました。人神に拒絶され、民礼で葬るのは当然です。しかし、殿下の仁慈は非常に深く、大義を守りながらもなお哀れみをかけておられることを、私たちは心から痛感しています。私たちはこのままでは忍びないので、恩を加えて王礼で葬ることを願います。」皇太后はこれを許可しました。

使者を派遣し、中護軍・中壘将軍の司馬炎に命じて、常道郷公の曹璜を北へ迎え、明帝(曹叡)の後を継がせました。

帝卯の日(具体的な日付不明)、群臣が皇太后に申し上げました。「殿下は聖徳が非常に高く、天下を安定させていますが、なおも詔を『令』と称し、藩国の称号と同じになっています。今後、殿下の令は『詔制』と呼び、先代の故事に倣うようお願いします。」

癸卯の日(5月8日)、大将軍の車固は相国、晋公、九錫の栄誉を固辞しました。皇太后は詔して言いました。「功績を隠さず、『周易』の大義は他人の美を成すことにあります。古の賢者たちがこれを尊んでいたように、固の意を表してその謙遜を明らかにしなさい。」

戊申の日(5月13日)、大将軍司馬文王は上奏して言いました。「高貴郷公は兵を率いて私のもとに向かい、刃を抜き金鼓を打ち鳴らしました。私は兵刃が交わるのを恐れ、将士に傷害を加えないよう命じましたが、命令に従わなかった者は軍法で裁かれました。騎督の成倅の弟である太子舎人の成濟が陣に飛び込み、高貴郷公を傷つけ、ついに命を落としました。濟を捕えて軍法で処分しました。臣は、人臣の節としては死に直面しても二心を持たず、上に仕える義としては難を逃れることをしませんでした。しかし、変事が突然起こり、禍が一気に発生した際には、誠心を尽くして死を守りたいと思っていました。ところが、これは皇太后を危険に晒し、宗廟を崩壊させる謀略でした。臣は大任を負い、国を安んじる義務があり、もし死んでも罪は重くなるだけでした。伊尹や周公のように国家の難を救うために策を講じましたが、濟は急に陣に入り、大変な事態を引き起こしました。哀しく悔しく、五臓六腑が裂けるような思いです。科律によれば、大逆無道の罪では父母や妻子、兄弟姉妹は皆斬刑に処されるべきです。濟の行為は凶悪で反逆的であり、国家の秩序を乱しました。処刑に値します。私は侍御史に濟の家族を廷尉に送り、厳重に罪を裁くよう命じました。」

皇太后は詔して言いました。「五刑の中で最大の罪は不孝です。親が子の不孝を訴えても、まだ治める方法があります。このような者がどうして天子の位にふさわしいでしょうか?私は婦人であり、大義を十分に理解していませんが、濟の行為が大逆であることに疑いはありません。しかし、大将軍の志は誠実であり、その言葉は痛ましいものでしたので、その言う通りに処理しなさい。この事件の全貌を遠近に示して、事情を明らかにしなさい。」

六月癸丑の日(6月17日)、詔して言いました。「古来より君主の名前は尊重され、避けるのが難しいものでした。今、常道郷公(曹璜)の諱や字は避けるのが非常に困難です。朝臣たちは広く議論し、改名について意見を集めて報告するように。」

曹奐

陳留王諱奐,字景明,武帝孫,燕王宇子也。甘露三年,封安次縣常道鄉公。高貴鄉公卒,公卿議迎立公。六月甲寅,入于洛陽,見皇太后,是日即皇帝位于太極前殿,大赦,改年,賜民爵及穀帛各有差。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

陳留王(曹奐)は、諱を奐、字を景明といい、武帝(曹操)の孫であり、燕王曹宇の子です。甘露三年(258年)、安次県常道郷公に封ぜられました。高貴郷公が卒すると、公卿は公を迎え立てることを議しました。六月甲寅の日に洛陽に入り、皇太后に会い、その日に太極前殿で即位し、大赦を行い、年号を改め、民に爵位と穀帛を差し上げました。

景元元年(260年)

景元元年夏六月丙辰,進大將軍司馬文王位為相國,封晉公,增封二郡,并前滿十,加九錫之禮,一如前(奏)〔詔〕;諸羣從子弟,其未有侯者皆封亭侯,賜錢千萬,帛萬匹,文王固讓乃止。己未,故漢獻帝夫人節薨,帝臨于華林園,使使持節追諡夫人為獻穆皇后。及葬,車服制度皆如漢氏故事。癸亥,以尚書右僕射王觀為司空,冬十月,觀薨。

十一月,燕王上表賀冬至,稱臣。詔曰:「古之王者,或有所不臣,王將宜依此義。表不稱臣乎!又當為報。夫後大宗者,降其私親,況所繼者重邪!若便同之臣妾,亦情所未安。其皆依禮典處,當務盡其宜。」有司奏,以為「禮莫崇于尊祖,制莫大于正典。陛下稽德期運,撫臨萬國,紹大宗之重,隆三祖之基。伏惟燕王體尊戚屬,正位藩服,躬秉虔肅,率蹈恭德以先萬國;其于正典,闡濟大順,所不得制。聖朝誠宜崇以非常之制,奉以不臣之禮。臣等平議以為燕王章表,可聽如舊式。中詔所施,或存好問,準之義類,則『(宴)〔燕〕覿之(族)〔敬〕』也,可少順聖敬,加崇儀稱,示不敢斥,宜曰『皇帝敬問大王侍御』。至于制書,國之正典,朝廷所以辨章公制,宣昭軌儀于天下者也,宜循法,故曰『制詔燕王』。凡詔命、制書、奏事、上書諸稱燕王者,可皆上平。其非宗廟助祭之事,皆不得稱王名,奏事、上書、文書及吏民皆不得觸王諱,以彰殊禮,加于羣后。上遵王典尊祖之制,俯順聖敬烝烝之心,二者不愆,禮實宜之,可普告施行。」

十二月甲申,黃龍見華陰縣井中。甲午,以司隸校尉王祥為司空。

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景元元年(260年)夏六月丙辰の日(6月26日)、大将軍の司馬文王(司馬昭)の位を進めて相国とし、晋公に封じました。封地はさらに二郡を加えて、合わせて十郡となり、九錫の礼が加えられ、以前の詔に従って行われました。また、司馬昭の親族でまだ侯に封じられていない者はすべて亭侯に封じられ、金1千万銭、布帛1万匹が賜与されました。司馬文王は固辞しましたが、最終的に受け入れました。

己未の日(6月29日)、故漢献帝の夫人である節が薨去しました。皇帝は華林園にて哀悼し、使者を持節として送り、夫人を「献穆皇后」と追諡しました。葬儀の際、車服や制度はすべて漢の故事に倣いました。

癸亥の日(7月13日)、尚書右僕射の王観を司空に任じましたが、同年冬十月に王観は薨去しました。

十一月、燕王(曹宇)が冬至を祝賀する表を上げ、臣と称しました。これに対して詔が発せられました。「古の王者には臣と称しない例もありました。王はこの義に従うべきです。表には臣と称さないようにし、また応じて返答を出します。大宗を継ぐ者は、私的な関係を降格するものです。ましてや重要な継承者に対してはなおさらです。臣妾と同じ扱いにすることは情としても納得しがたいものです。すべて礼典に従い、適切に処理するように心がけなさい。」

有司がこれに奏して言いました。「礼の中で最も崇高なものは祖を尊ぶことにあり、制度の中で最も重大なものは正典を正すことにあります。陛下は徳を引き継ぎ、万国を治め、大宗を継ぎ、三祖の基を隆盛させております。燕王は尊い戚属として正しい位にあり、敬虔で慎み深く、恭徳を率先して万国の模範となっています。正典に基づき、特別な礼をもって扱うべきです。朝廷は誠に燕王に対して、臣として扱わない礼を与えるべきです。私たちが議論するに、燕王の章表は従来の形式に従わせるべきです。中詔で何か問う場合には、『燕覿の族に敬意を示す』という意味合いで、少しは皇帝の敬意を加えて称し、『皇帝は大王の侍御に敬意を表す』と言うべきです。詔書においては、国家の正典であり、朝廷が天下に規範を示すものであるため、『制詔燕王』と称するべきです。

詔命、制書、奏事、上書において、燕王に言及する際には、すべて王の名を使うべきです。ただし、宗廟での助祭に関連する事柄を除いては、王の名を直接称してはなりません。また、奏事、上書、文書、吏民すべてが王の諱に触れることを避け、特別な礼を加えて、他の諸侯に対してもその礼を示すべきです。こうして王典を遵守し、祖を尊ぶ制度を守りつつ、また皇帝の敬意を加えて、その礼が適切であることを確認し、広く施行すべきです。」

十二月甲申の日(12月11日)、黄龍が華陰県の井戸に現れました。

甲午の日(12月21日)、司隸校尉の王祥を司空に任じました。

景元二年(261年)

二年夏五月朔,日有食之。秋七月,樂浪外夷韓、濊貊各率其屬來朝貢。八月戊寅,趙王幹薨。甲寅,復命大將軍進爵晉公,加位相國,備禮崇錫,一如前詔;又固辭乃止。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

景元二年(261年)夏五月朔の日、日食がありました。

秋七月、楽浪郡の外夷である韓や濊貊が、それぞれの属民を率いて朝貢に訪れました。

八月戊寅の日(8月23日)、趙王(曹幹)が薨去しました。

甲寅の日(8月29日)、大将軍(司馬昭)に再び命じて晋公に爵位を進め、相国に加え、礼儀を整え、九錫を崇高に与えました。司馬昭は固辞しましたが、最終的に受け入れました。

景元三年(262年)

三年春二月,青龍見于軹縣井中。夏四月,遼東郡言肅慎國遣使重譯入貢,獻其國弓三十張,長三尺五寸,楛矢長一尺八寸,石弩三百枚,皮骨鐵雜鎧二十領,貂皮四百枚。冬十月,蜀大將姜維寇洮陽,鎮西將軍鄧艾拒之,破維于侯和,維遁走。是歲,詔祀故軍祭酒郭嘉於太祖廟庭。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

景元三年(262年)春二月、青龍が軹県の井戸に現れました。

夏四月、遼東郡から報告があり、肅慎国が使者を通じて朝貢しました。肅慎国は国の弓30張(長さ三尺五寸)、楛矢30本(長さ一尺八寸)、石弩300枚、皮骨鉄などを用いた雑鎧20領、貂皮400枚を献上しました。

冬十月、蜀の大将姜維が洮陽を攻撃し、鎮西将軍鄧艾がこれを迎撃し、侯和で姜維を破りました。姜維は敗走しました。

その年、詔を発し、故軍祭酒の郭嘉を太祖廟庭に祀りました。

景元四年(263年)

四年春二月,復命大將軍進位爵賜一如前詔,又固辭乃止。夏五月,詔曰:「蜀,蕞爾小國,土狹民寡,而姜維虐用其眾,曾無廢志;往歲破敗之後,猶復耕種沓中,刻剝眾羌,勞役無已,民不堪命。夫兼弱攻昧,武之善經,致人而不致於人,兵家之上略。蜀所恃賴,唯維而已,因其遠離巢窟,用力為易。今使征西將軍鄧艾督帥諸軍,趣甘松、沓中以羅取維,雍州刺史諸葛緒督諸軍趣武都、高樓,首尾蹵討。若擒維,便當東西並進,掃滅巴蜀也。」又命鎮西將軍鍾會由駱谷伐蜀。秋九月,太尉高柔薨。冬十月甲寅,復命大將軍進位爵賜一如前詔。癸卯,立皇后卞氏,十一月,大赦。自鄧艾、鍾會率眾伐蜀,所至輒克。是月,蜀主劉禪詣艾降,巴蜀皆平。十二月庚戌,以司徒鄭沖為太保。壬子,分益州為梁州。癸丑,特赦益州士民,復除租賦之半五年。乙卯,以征西將軍鄧艾為太尉,鎮西將軍鍾會為司徒。皇太后崩。

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景元四年(263年)春二月、大将軍(司馬昭)に再び位を進め、爵位と賜与を前の詔の通り行いましたが、司馬昭は固辞しました。

夏五月、詔を発して言いました。「蜀は小さな国で、土地は狭く民は少ないにもかかわらず、姜維はその民を酷使し、戦意を失うことなく動員を続けています。昨年の敗北後も、沓中で耕作を再開し、羌族を厳しく扱い、労役は絶えず、民はその苦しみに耐えかねています。弱者を兼ねて攻め、敵を制することは武力の良い方法であり、自らが動かずに敵を動かすのは兵法の最上策です。蜀が頼るのは姜維だけです。彼が巣窟を離れて遠方にいる今こそ、攻撃が容易です。今、征西将軍の鄧艾に命じ、諸軍を率いて甘松、沓中に急行させ、姜維を捕らえるために包囲します。また、雍州刺史の諸葛緒に命じ、武都、高楼に進軍し、両方から討伐を開始します。もし姜維を捕らえたならば、東西から進軍して巴蜀を平定すべきです。」また、鎮西将軍の鍾会に駱谷を経由して蜀を討つよう命じました。

秋九月、太尉の高柔が薨去しました。冬十月甲寅の日(11月20日)、再び大将軍の位を進め、爵位と賜与を前の詔の通り行いました。

癸卯の日(12月1日)、皇后卞氏が立てられました。十一月、大赦が行われました。

鄧艾と鍾会がそれぞれ軍を率いて蜀を討ち、到達する先々で勝利を収めました。この月、蜀の主である劉禅が鄧艾に降伏し、巴蜀はすべて平定されました。

十二月庚戌の日(12月16日)、司徒の鄭沖が太保に任命されました。壬子の日(12月18日)、益州を分割して梁州を設置しました。癸丑の日(12月19日)、益州の士民に特赦を与え、5年間、租税を半減しました。

乙卯の日(12月21日)、征西将軍の鄧艾を太尉に、鎮西将軍の鍾会を司徒に任じました。皇太后が崩御しました。

咸熙元年(264年)

咸熙元年春正月壬戌,檻車徵鄧艾。甲子,行幸長安。壬申,使使者以璧幣祀華山。是月,鍾會反于蜀,為眾所討;鄧艾亦見殺。二月辛卯,特赦諸在益土者。庚申,葬明元郭后。三月丁丑,以司空王祥為太尉,征北將軍何曾為司徒,尚書左僕射荀顗為司空。己卯,進晉公爵為王,封十郡,并前二十。丁亥,封劉禪為安樂公。夏五月庚申,相國晉王奏復五等爵。甲戌,改年。癸未,追命舞陽宣文侯為晉宣王,舞陽忠武侯為晉景王。六月,鎮西將軍衞瓘上雍州兵于成都縣獲璧玉印各一,印文似「成信」字,依周成王歸禾之義,宣示百官,藏于相國府。

初,自平蜀之後,吳寇屯逼永安,遣荊、豫諸軍掎角赴救。七月,賊皆遁退。八月庚寅,命中撫軍司馬炎副貳相國事,以同魯公拜後之義。
癸巳,詔曰:「前逆臣鍾會構造反亂,聚集征行將士,劫以兵威,始吐姦謀,發言桀逆,逼脅眾人,皆使下議,倉卒之際,莫不驚懾。相國左司馬夏侯和、騎士曹屬朱撫時使在成都,中領軍司馬賈輔、郎中羊琇各參會軍事;和、琇、撫皆抗節不撓,拒會凶言,臨危不顧,詞指正烈。輔語散將王起,說『會姦逆凶暴,欲盡殺將士』,又云『相國已率三十萬眾西行討會』,欲以稱張形勢,感激眾心。起出,以輔言宣語諸軍,遂使將士益懷奮勵。宜加顯寵,以彰忠義。其進和、輔爵為鄉侯,琇、撫爵關內侯。起宣傳輔言,告令將士,所宜賞異。其以起為部曲將。」
癸卯,以衞將軍司馬望為驃騎將軍。九月戊午,以中撫軍司馬炎為撫軍大將軍。
辛未,詔曰:「吳賊政刑暴虐,賦斂無極。孫休遣使鄧句,勑交阯太守鎖送其民,發以為兵。吳將呂興因民心憤怒,又承王師平定巴蜀,即糾合豪傑,誅除句等,驅逐太守長吏,撫和吏民,以待國命。九真、日南郡聞興去逆即順,亦齊心響應,與興協同。興移書日南州郡,開示大計,兵臨合浦,告以禍福;遣都尉唐譜等詣進乘縣,因南中都督護軍霍弋上表自陳。又交阯將吏各上表,言『興創造事業,大小承命。郡有山寇,入連諸郡,懼其計異,各有攜貳。權時之宜,以興為督交阯諸軍事、上大將軍、定安縣侯,乞賜褒奬,以慰邊荒』。乃心款誠,形于辭旨。昔儀父朝魯,春秋所美;竇融歸漢,待以殊禮。今國威遠震,撫懷六合,方包舉殊裔,混一四表。興首向王化,舉眾稽服,萬里馳義,請吏帥職,宜加寵遇,崇其爵位。
既使興等懷忠感悅,遠人聞之,必皆競勸。其以興為使持節、都督交州諸軍事、南中大將軍,封定安縣侯,得以便宜從事,先行後上。」策命未至,興為下人所殺。

冬十月丁亥,詔曰:「昔聖帝明王,靜亂濟世,保大定功,文武殊塗,勳烈同歸。是故或舞干戚以訓不庭,或陳師旅以威暴慢。至于愛民全國,康惠庶類,必先脩文教,示之軌儀,不得已然後用兵,此盛德之所同也。往者季漢分崩,九土顛覆,劉備、孫權乘間作禍。三祖綏寧中夏,日不暇給,遂使遺寇僭逆歷世。幸賴宗廟威靈,宰輔忠武,爰發四方,拓定庸、蜀,役不浹時,一征而克。自頃江表衰弊,政刑荒闇,巴、漢平定,孤危無援,交、荊、揚、越,靡然向風。今交阯偽將呂興已帥三郡,萬里歸命;武陵邑侯相嚴等糾合五縣,請為臣妾;豫章廬陵山民舉眾叛吳,以助北將軍為號。又孫休病死,主帥改易,國內乖違,人各有心。偽將施績,賊之名臣,懷疑自猜,深見忌惡。眾叛親離,莫有固志,自古及今,未有亡徵若此之甚。若六軍震曜,南臨江、漢,吳會之域必扶老攜幼以迎王師,必然之理也。然興動大眾,猶有勞費,宜告喻威德,開示仁信,使知順附和同之利。相國參軍事徐紹、水曹掾孫彧,昔在壽春,並見虜獲。紹本偽南陵督,才質開壯;彧,孫權支屬,忠良見事。其遣紹南還,以彧為副,宣揚國命,告喻吳人,諸所示語,皆以事實,若其覺悟,不損征伐之計,蓋廟勝長算,自古之道也。其以紹兼散騎常侍,加奉車都尉,封都亭侯;彧兼給事黃門侍郎,賜爵關內侯。紹等所賜妾及男女家人在此者,悉聽自隨,以明國恩,不必使還,以開廣大信。」丙午,命撫軍大將軍新昌鄉侯炎為晉世子。是歲,罷屯田官以均政役,諸典農皆為太守,都尉皆為令長;勸募蜀人能內移者,給廩二年,復除二十歲。安彌、福祿縣各言嘉禾生。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

咸熙元年(264年)春正月壬戌の日(1月16日)、鄧艾が檻車に乗せられ召還されました。甲子の日(1月28日)、皇帝は長安に行幸しました。壬申の日(2月5日)、使者を派遣し、璧と幣を持って華山を祀らせました。この月、鍾会が蜀で反乱を起こしましたが、討たれて殺されました。同時に鄧艾も殺されました。

二月辛卯の日(2月14日)、益州にいる者たちに特赦が与えられました。庚申の日(2月23日)、明元郭后が葬られました。三月丁丑の日(3月11日)、司空の王祥を太尉に任じ、征北将軍の何曾を司徒に任じ、尚書左僕射の荀顗を司空に任命しました。己卯の日(3月23日)、晋公の爵位を晋王に進め、十郡を封じ、合計二十郡を与えました。丁亥の日(4月10日)、劉禅を安楽公に封じました。

夏五月庚申の日(6月12日)、相国である晋王(司馬昭)が五等爵を復活させることを奏上しました。甲戌の日(6月26日)、元号を改めました。癸未の日(6月25日)、舞陽宣文侯を「晋宣王」、舞陽忠武侯を「晋景王」と追命しました。

六月、鎮西将軍の衛瓘が雍州の兵を率いて成都県にて璧と玉印を獲得しました。印文は「成信」という字に似ており、これは周成王が禾を帰した故事に倣ったものとして、百官に示し、相国府に保管されました。

蜀が平定された後、呉の賊が永安に駐屯し圧迫を続けていたため、荊州・豫州の諸軍を派遣して協力し救援に向かいました。七月、賊はすべて退却しました。八月庚寅の日(8月22日)、中撫軍の司馬炎を相国の副貳とし、魯公が後継者を指名する故事に倣いました。

癸巳の日(9月4日)、詔を発して言いました。「かつて逆臣である鍾会が反乱を企て、征行の将士を集め、武力で脅して奸計を露わにし、暴逆の言葉を吐きました。彼は人々を脅して議論させ、皆を驚かせ従わせました。相国の左司馬である夏侯和、騎士曹属の朱撫、中領軍の司馬賈輔、郎中の羊琇は、それぞれ成都で軍事に関わっていました。和、琇、撫は節を守り、鍾会の暴言に屈せず、危険に直面しても動じず、正々堂々とした言葉を貫きました。賈輔は散将の王起に『鍾会は奸計を巡らし、全ての将士を殺すつもりだ』と伝え、『相国(司馬昭)はすでに30万の兵を率いて西に向かい、鍾会を討伐しに来ている』と言って、これを広め、士気を鼓舞させました。王起は賈輔の言葉を将士たちに伝え、彼らの奮起を促しました。これらの忠義を顕彰し、夏侯和と賈輔に鄉侯の爵位を、羊琇と朱撫には関内侯の爵位を授けます。また、王起にもその功績を称え、部曲将に任命します。」

癸卯の日(9月16日)、衛将軍の司馬望を驃騎将軍に任命しました。

九月戊午の日(9月21日)、中撫軍の司馬炎を撫軍大将軍に任命しました。

辛未の日(264年9月24日)、詔して言いました。「呉の賊政は暴虐であり、賦税の徴収には限りがありません。孫休は使者の鄧句を派遣し、交阯の太守に命じて民を兵士として送らせました。これに対し、呉の将である呂興は、民の憤りに乗じ、さらに王師(魏の軍)が巴蜀を平定したことを承けて豪傑を糾合し、鄧句らを誅殺し、太守や長吏を追放し、民を安撫して国家の命を待っています。九真郡と日南郡も、呂興が反乱者を追い払ったことを聞き、心を一つにして響応し、呂興と協力しました。呂興は日南州郡に書を送り、大計を示し、兵を合浦に進め、禍福を告げました。また、唐譜らを都尉として進乗県に派遣し、南中都督護軍の霍弋に表を上げて自らの功績を報告しました。交阯の将吏もまた表を上げ、呂興が国家の命に従い、大小の事業を創り上げたことを報告しました。山賊が郡に入り込み、諸郡に連絡を取って計略を練っているため、呂興を交阯の諸軍事の都督、上大将軍、定安県侯に任命し、褒賞を賜って辺境を慰めるべきだとのことです。呂興の誠実な心が明らかになり、その表現にも忠誠が見て取れます。かつて儀父が魯に朝貢したことは春秋に美徳として記されていますし、竇融が漢に帰順した際には殊遇を受けました。今、国家の威徳は遠方にまで広まり、六合を撫で、異民族を包み込もうとしています。呂興は王化に心を向けて民を率いて服従し、遠方から義を尽くして職を請願しています。彼には寵遇を与え、その爵位を崇高なものにすべきです。

呂興が忠誠を持って感激し、遠方の者もこれを聞いて競い合って忠誠を尽くすようになるでしょう。彼を使持節、都督交州諸軍事、南中大将軍に任じ、定安県侯に封じ、便宜に応じて行動することを許可し、後から正式な策命を行います。」しかし、策命が届く前に呂興は部下に殺されました。

冬十月丁亥の日(264年10月28日)、詔を発して言いました。「かつて聖帝明王たちは乱を鎮めて世を救い、大きな功績を保ちました。文と武は異なる道を進みましたが、勲功は同じところに帰しました。だからこそ、時には武力を示して反逆者を戒め、時には軍隊を用いて暴徒を制圧しました。しかし、民を愛し国を全うし、庶民を幸せにするためには、まず文教を修め、規範を示し、どうしても必要な時だけ武力を用いることが、盛徳を持つ者の共通する道です。過去、蜀漢は分裂し、九州は動揺し、劉備と孫権はその機を狙って災いをもたらしました。三祖(曹操、曹丕、曹叡)は中華を安定させるために多忙で、呉の残党は逆賊として歴代にわたって続きました。しかし、宗廟の威光と宰相の忠武により、四方の軍が発動され、庸と蜀を短期間で平定し、すぐに成功を収めました。最近、江南は衰退し、政治も刑罰も乱れ、巴と漢が平定され、孤立無援の状況にあり、交阯、荊州、揚州、越州は皆風に靡くように従いました。

現在、交阯の偽将呂興は三郡を率いて、万里の彼方から服従し、武陵邑侯の相嚴らは五県を糾合して臣下となることを願い出ました。また、豫章と廬陵の山民たちは呉に背き、北将軍を援助することを誓っています。さらに、孫休が病死し、主将が交代し、国内は乱れ、民心は離反しています。偽将である施績は呉の名臣であったが、猜疑心を抱き、周囲に忌まれていました。人々は親を捨てて反逆し、固い信念を持つ者はなく、これほどの亡国の兆候が古今において存在したことはありません。もし六軍が震撼して江と漢に臨めば、呉の領土は必ずや王師を迎え入れるでしょう。しかし、大軍を動かすことは労力と費用がかかるため、まず威徳を告げ、仁信を示し、彼らに服従の利益を知らせるべきです。

相国参軍事の徐紹と水曹掾の孫彧は、かつて壽春で虜にされたことがありました。徐紹は偽南陵督であり、才能も立派です。孫彧は孫権の支族で、忠良の士として知られています。徐紹を南に帰還させ、孫彧を副官とし、国命を宣揚して呉の人々に告げさせるべきです。これらの言葉は事実に基づいており、彼らが覚醒するならば征伐の計画を妨げることはありません。これこそ、廟堂における長期的な計画であり、古来の道です。徐紹には散騎常侍、奉車都尉を兼ねさせ、都亭侯に封じます。孫彧は給事黄門侍郎を兼ね、関内侯に封じます。また、徐紹たちが賜った妾や男女の家族は、ここに留めずにすべて同行させ、国の恩を示し、広大な信頼を築くべきです。」

丙午の日(264年11月30日)、撫軍大将軍である新昌郷侯の司馬炎を晋の世子に任命しました。

この年、屯田官が廃止され、行政の負担が均等化されました。諸典農はすべて太守に、都尉はすべて県令や県長に任命されました。蜀の民が移住を希望する者には、2年間の穀物を支給し、20年間の賦役を免除しました。安彌県と福禄県では嘉禾(めでたい稲)が生えたと報告されました。

咸熙二年(265年)

二年春二月甲辰,朐䏰縣獲靈龜以獻,歸之于相國府。庚戌,以虎賁張脩昔於成都馳馬至諸營言鍾會反逆,以至沒身,賜脩弟倚爵關內侯。夏四月,南深澤縣言甘露降。吳遣使紀陟、弘璆請和。

五月,詔曰:「相國晉王誕敷神慮,光被四海;震燿武功,則威蓋殊荒,流風邁化,則旁洽無外。愍卹江表,務存濟育,戢武崇仁,示以威德。文告所加,承風嚮慕,遣使納獻,以明委順,方寶纖珍,歡以效意。而王謙讓之至,一皆簿送,非所以慰副初附,從其款願也。孫皓諸所獻致,其皆還送,歸之于王,以協古義。」王固辭乃止。又命晉王冕十有二旒,建天子旌旗,出警入蹕,乘金根車、六馬,備五時副車,置旄頭雲罕,樂舞八佾,設鐘虡宮縣。進王妃為王后,世子為太子,王子、王女、王孫,爵命之號如舊儀。癸未,大赦。秋八月辛卯,相國晉王薨。壬辰,晉太子炎紹封襲位,總攝百揆,備物典冊,一皆如前。是月,襄武縣言有大人見,〔長〕三丈餘,跡長三尺二寸,白髮,著黃單衣,黃巾,柱杖,呼民王始語云:「今當太平。」九月乙未,大赦。戊午,司徒何曾為晉丞相。癸亥,以驃騎將軍司馬望為司徒,征東大將軍石苞為驃騎將軍,征南大將軍陳騫為車騎將軍。乙亥,葬晉文王。閏月庚辰,康居、大宛獻名馬,歸于相國府,以顯懷萬國致遠之勳。

十二月壬戌,天祿永終,曆數在晉。詔羣公卿士具儀設壇于南郊,使使者奉皇帝璽綬冊,禪位于晉嗣王,如漢魏故事。甲子,使使者奉策。遂改次于金墉城,而終館于鄴,時年二十。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻四

咸熙二年(265年)春二月甲辰の日(3月13日)、朐䏰県で霊亀を得て、それを相国府に献じました。庚戌の日(3月19日)、虎賁の張脩が以前、成都で馬を駆って諸営を巡り、鍾会の反逆を告げ、自身も命を落としたため、脩の弟である張倚に関内侯の爵位を賜りました。夏四月、南深澤県で甘露が降ったと報告がありました。また、呉から使者として紀陟と弘璆が派遣され、和議を請いました。

五月、詔して言いました。「相国である晋王(司馬昭)は、神妙な思慮を広げ、その恩恵は四海に及びます。武功を輝かせて異境を震撼させ、風を広めて化を成し、どこまでも恩恵を施しています。江南の地を哀れみ、救済と育成に尽力し、武を収めて仁を崇め、威徳を示しました。文告が下ると、人々はそれを慕い、使者を派遣して献上物を送り、忠誠を示してくれました。しかし、晋王の謙譲の心が深いため、すべてを返送し、初めての誠意に報いようとしませんでした。孫皓の献上した物はすべて返し、晋王に送り届けることで、古の義を協調すべきです。」晋王は固辞しましたが、これを承諾しました。また、晋王に12旒の冕冠を授け、天子の旌旗を立て、出警入蹕(儀仗の整列)を行い、金根車と六馬を駆り、五時の副車を備え、旄頭雲罕を置き、八佾の舞楽を行い、鐘虡や宮県の楽器を設けました。王妃を王后とし、世子を太子、王子、王女、王孫にそれぞれの爵位と命を旧例に従って授けました。癸未の日(6月12日)、大赦を行いました。

秋八月辛卯の日(8月20日)、相国晋王(司馬昭)が薨去しました。壬辰の日(8月21日)、晋太子司馬炎が晋王の爵位を継承し、国政を掌握しました。物事の典礼はすべて以前と同様に行われました。この月、襄武県で「大人」が現れたと報告されました。その姿は3丈余り(約9メートル)もあり、足跡は3尺2寸(約96センチ)ありました。白髪で、黄色の単衣と黄巾を着け、杖をつきながら現れ、民である王始に「今は太平となる」と告げました。九月乙未の日(9月13日)、大赦が行われました。戊午の日(9月16日)、司徒である何曾が晋の丞相に任命されました。癸亥の日(9月21日)、驃騎将軍司馬望が司徒に、征東大将軍石苞が驃騎将軍に、征南大将軍陳騫が車騎将軍に任命されました。乙亥の日(9月23日)、晋文王(司馬昭)の葬儀が行われました。閏月庚辰の日(10月18日)、康居国と大宛国から名馬が献上され、相国府に送られました。これにより、万国が遠方から敬意を表していることが示されました。

十二月壬戌の日(265年1月4日)、天命が永く終わり、帝位は晋に移されるべきとの詔が発されました。群臣たちに儀式の準備を命じ、南郊に壇を設け、使者が皇帝の璽綬を持って晋の嗣王に禅譲することが決定しました。甲子の日(265年1月6日)、使者が策命を奉じました。その後、洛陽の金墉城に移され、鄴にて最後を迎えました。時に年二十。

評(陳寿の評)

評曰:古者以天下為公,唯賢是與。後代世位,立子以適;若適嗣不繼,則宜取旁親明德,若漢之文、宣者,斯不易之常準也。明帝既不能然,情繫私愛,撫養嬰孩,傳以大器,託付不專,必參枝族,終于曹爽誅夷,齊王替位。高貴公才慧夙成,好問尚辭,蓋亦文帝之風流也;然輕躁忿肆,自蹈大禍。陳留王恭己南面,宰輔統政,仰遵前式,揖讓而禪,遂饗封大國,作賓于晉,比之山陽,班寵有加焉。

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評して言います。古(いにしえ)においては、天下を公のものとし、ただ賢者にのみ位を与えることが重んじられていました。後代になると、位は世襲され、嫡子が立てられるようになりました。もし嫡子が継承できない場合には、近親の中で明徳を持つ者を選ぶべきであり、漢の文帝や宣帝の例のように、これは変わらない原則です。明帝(曹叡)はこれを守らず、私情に縛られ、幼子を育てて大きな責任を託し、信頼を分散させ、枝族にも委ねました。その結果、曹爽は誅され、齊王(曹芳)は位を失うこととなりました。高貴公(曹髦)は才知に恵まれ、若くして学問を好み、言辞を尊んでいました。これは文帝(曹丕)の風流を継ぐものでしたが、軽率で怒りを抑えられず、自ら大きな禍を招きました。陳留王(曹奐)は謙虚に帝位に就き、宰輔(司馬昭)が政務を統治し、前例を尊重して、揖譲(位を譲ること)により禅譲を行い、大国に封ぜられて晋に仕えました。その待遇は山陽公(劉協)の例よりもさらに優れたものでした。

#正史三国志 #正史三国志漢文日本語訳  No.4


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