
三国志の著者 陳寿伝
このノートは、正史三国志の著者・陳寿(ちんじゅ)について、彼の伝記が収録されている正史晋書のなかから、原文(漢文)とその日本語訳を記したものです。漢文は、中央研究院・歴史語言研究所の『漢籍全文資料庫』から引用し、日本語訳は、OpenAIのo1モデル(2025年初頭のLLM)に指示して作成し、それに私が修正を加えたものです。日本語訳の信頼性については、専門家による伝統的な手順を踏んだ翻訳方法ではないため、書き下し文もなく、信頼ある日本語訳とは言えませんが、どんなことが書いてあるかが分かる程度だと思って使っていただけますと幸いです。
正史晉書 漢文日本語訳
巻八十二 列傳第五十二 陳壽傳
陳寿
陳壽字承祚,巴西安漢人也。少好學,師事同郡譙周,仕蜀為觀閣令史。宦人黃皓專弄威權,大臣皆曲意附之,壽獨不為之屈,由是屢被譴黜。遭父喪,有疾,使婢丸藥,客往見之,鄉黨以為貶議。及蜀平,坐是沈滯者累年。司空張華愛其才,以壽雖不遠嫌,原情不至貶廢,舉為孝廉,除佐著作郎,出補陽平令。撰蜀相諸葛亮集,奏之。除著作郎,領本郡中正。撰魏吳蜀三國志,凡六十五篇。時人稱其善敘事,有良史之才。夏侯湛時著魏書,見壽所作,便壞己書而罷。張華深善之,謂壽曰:「當以晉書相付耳。」其為時所重如此。或云丁儀、丁廙有盛名於魏,壽謂其子曰:「可覓千斛米見與,當為尊公作佳傳。」丁不與之,竟不為立傳。壽父為馬謖參軍,謖為諸葛亮所誅,壽父亦坐被髠,諸葛瞻又輕壽。壽為亮立傳,謂亮將略非長,無應敵之才,言瞻惟工書,名過其實。議者以此少之。張華將舉壽為中書郎,荀勖忌華而疾壽,遂諷吏部遷壽為長廣太守。辭母老不就。杜預將之鎮,復薦之於帝,宜補黃散。由是授御史治書。以母憂去職。母遺言令葬洛陽,壽遵其志。又坐不以母歸葬,竟被貶議。初,譙周嘗謂壽曰:「卿必以才學成名,當被損折,亦非不幸也。宜深慎之。」壽至此,再致廢辱,皆如周言。後數歲,起為太子中庶子,未拜。元康七年,病卒,時年六十五。梁州大中正、尚書郎范頵等上表曰:「昔漢武帝詔曰:『司馬相如病甚,可遣悉取其書。』使者得其遺書,言封禪事,天子異焉。臣等案:故治書侍御史陳壽作三國志,辭多勸誡,明乎得失,有益風化,雖文艷不若相如,而質直過之,願垂採錄。」於是詔下河南尹、洛陽令,就家寫其書。壽又撰古國志五十篇、益都耆舊傳十篇,餘文章傳於世。
陳寿は字を承祚といい、巴西郡安漢県の人です。若いころから学問を好み、同郡の譙周に師事しました。蜀漢に仕え、観閣令史という職務に就きましたが、宦官の黄皓が専横を振るい、大臣たちが皆これに媚びていました。しかし、陳寿だけは屈服しなかったため、たびたび譴責され降格されました。
父親が亡くなった際、陳寿は病を患い、召使いに薬を調合させていました。その様子を訪問者が目にし、郷里の人々から(親の喪に服している間は、慎み深く振る舞い、苦境や病があっても他人に負担をかけたり、召使いに労働を強いたりすることは不適切とみなされていたため、)非難されることになりました。蜀漢が滅んだ後も、この件が原因で長い間、任用されることがありませんでした。
司空の張華は陳寿の才能を愛し、彼が過ちを避けることをしなかったとはいえ、その意図(当時の権力者や慣習に迎合せず、自らの信念を貫いた態度)を理解すれば廃されるべきではないと考えました。張華は陳寿を孝廉に推薦し、佐著作郎に任命しました。その後、陽平県令に転任し、蜀漢の宰相『諸葛亮集』を編纂して朝廷に上奏しました。再び著作郎に任じられ、本郡の中正を兼務しました。そして、魏・呉・蜀の『三国志』を撰し、全六十五篇を完成させました。当時の人々は陳寿が事実を巧みに叙述し、優れた歴史家としての才能を持っていると評価しました。
同時期に夏侯湛が『魏書』を著していましたが、陳寿の『三国志』を目にすると、自分の著作を破棄して執筆をやめてしまいました。張華は陳寿を深く評価し、「晋の歴史書を君に託したい」と語りました。これほどまでに彼の才能は当時の人々に重んじられていました。
一説によると、魏の丁儀と丁廙は評判が高く、そのことについて、陳寿はその息子に「千斛の米を用意してくれれば、お父上の優れた伝記を書いて差し上げる」と持ち掛けましたが、米は提供されなかったため、結局伝記を執筆しませんでした。
また、陳寿の父は馬謖の参軍でしたが、馬謖が諸葛亮に処刑された際、父も連座して頭を剃られる刑を受けました。さらに、諸葛瞻も陳寿を軽視していました。このため、陳寿が諸葛亮の伝記を執筆した際、彼を評して「軍略に優れておらず、敵に対処する才能もない」と述べ、諸葛瞻については「書道に優れているだけで、実力以上に評価されている」と記しました。この記述のため、陳寿は批判されることもありました。
張華は陳寿を中書郎に推薦しようとしましたが、荀勗は張華を妬み、陳寿に敵意を抱いていました。そのため、吏部に働きかけ、陳寿を長広太守に左遷させました。しかし陳寿は、母親が高齢であることを理由にこれを辞退しました。
その後、杜預が鎮地に赴く際に、再び陳寿を帝に推薦し、「黄散(重要な役職)に補任すべきだ」と述べました。このため、陳寿は御史治書に任命されました。
しかし、母親が亡くなったため喪に服し職を辞しました。母親は遺言で洛陽に埋葬されることを望んでおり、陳寿はその意思を尊重しましたが、母親を故郷に帰して葬らなかったことが非難の対象となりました。
以前、譙周は陳寿に対し、「君はその才学によって名を成すが、そのために挫折を経験するだろう。しかし、それは必ずしも不幸ではない。慎重に行動するべきだ」と助言していました。陳寿が再び屈辱を受けたことは、譙周の予言どおりでした。
数年後、陳寿は太子中庶子に任命されましたが、就任しませんでした。
元康七年(297年)、陳寿は病のため亡くなりました。享年六十五歳でした。梁州の大中正と尚書郎である范頵らが上表して次のように述べました。
「かつて漢の武帝は詔で『司馬相如が重病にあるので、使者を派遣して彼の著作をすべて集めよ』と命じました。その使者が相如の遺作を手に入れ、そこに封禅(天に祈る儀式)についての記述があると知ると、天子(漢武帝)はその内容を特別なものと感じました。
臣たちが考えるに、故治書侍御史の陳寿が著した『三国志』は、多くの勧戒の言葉が含まれており、得失を明らかにし、風俗を改善する助けとなるものであります。その文体は司馬相如ほど華麗ではないものの、その質実さにおいては相如を上回っています。ぜひ採録をお許しください。」
これを受けて、朝廷は河南尹と洛陽令に命じて、陳寿の家で『三国志』を写し取るよう指示しました。
さらに、陳寿は『古国志』五十篇や『益都耆旧伝』十篇を著し、それ以外の文章も世に伝わっています。
さくらのコメント:三国志の著者陳寿は、伝記によると、自身の著書三国志が正史として取り上げられる前に、亡くなっていました。生前は不遇な境遇にあったことが読み取れますが、そうしたなか、三国志が完成していたことが何よりも奇跡だと思いました。彼の信念がそうさせたのでしょうか。彼の思いは、三国志各巻末の評を通じて読み取ることができます。
以下2025年3月1日追記
陳寿が書いた三国志には、普通の現代語訳を読んだだけでは分からない暗号のようなメッセージが込められているという話もあります。そんな記事を見つけましたので、ここで紹介させていただきます。
陳寿著三国志の専門家による日本語訳は、書籍として販売されています。
正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)