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正史三国志★漢文日本語訳 第31巻 蜀書1
このノートは、正史(歴史書)三国志 第31巻(漢文)とその日本語訳です。漢文は、中央研究院・歴史語言研究所の『漢籍全文資料庫』から引用し、日本語訳は、ChatGPT-4o(2024年夏バージョン)に指示して作成し、それに私が修正を加えたものです。引用元の漢文に、裴松之の注は含まれていません。日本語訳の信頼性については、専門家による伝統的な手順を踏んだ翻訳方法ではないため、書き下し文もなく、信頼ある日本語訳とは言えませんが、どんなことが書いてあるかが分かる程度だと思って使っていただけますと幸いです。
引用元:
中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』
正史三國志 漢文日本語訳
巻三十一 蜀書一 劉二牧第一 (劉焉,劉璋)
劉焉
劉焉字君郎,江夏竟陵人也,漢魯恭王之後裔,章帝元和中徙封竟陵,支庶家焉。焉少仕州郡,以宗室拜中郎,後以師祝公喪去官。居陽城山,積學教授,舉賢良方正,辟司徒府,歷雒陽令、冀州刺史、南陽太守、宗正、太常。焉覩靈帝政治衰缺,王室多故,乃建議言:「刺史、太守,貨賂為官,割剝百姓,以致離叛。可選清名重臣以為牧伯,鎮安方夏。」焉內求交阯牧,欲避世難。議未即行,侍中廣漢董扶私謂焉曰:「京師將亂,益州分野有天子氣。」焉聞扶言,意更在益州。會益州刺史郤儉賦斂煩擾,謠言遠聞,而并州殺刺史張壹,涼州殺刺史耿鄙,焉謀得施。出為監軍使者,領益州牧,封陽城侯,當收儉治罪;扶亦求為蜀郡西部屬國都尉,及太倉令(會)巴西趙韙去官,俱隨焉。
劉焉は字を君郎といい、江夏郡の竟陵の人です。彼は漢の魯恭王の後裔であり、章帝の元和年間(84-87年)に一族が竟陵に移され、支族として定住しました。
劉焉は若い頃に州郡で役人として仕え、一族であることから中郎に任じられましたが、その後、祝公の喪を悼むために官を辞しました。その後、陽城山に住み、学問を積んで弟子を教え、賢良方正として推挙されて司徒府に招かれました。その後、洛陽令、冀州刺史、南陽太守、宗正、太常と歴任しました。
劉焉は霊帝の時代に政治が衰え、王室が多くの問題を抱えているのを見て、意見を上申しました。「刺史や太守は賄賂で官職に就き、民を搾取しているため、反乱が生じています。清廉で名声のある重臣を牧伯(州の長官)として選び、各地の安定を図るべきです」と提案しました。
その一方で、劉焉は内心、交阯郡の牧になることを望み、世の乱を避けようとしていましたが、この提案はすぐには実行されませんでした。侍中である広漢の董扶が、密かに劉焉に「京師は乱れようとしていますが、益州には天子の気運があります」と告げると、劉焉は董扶の言葉を聞き、益州に対する関心をさらに深めました。
その頃、益州刺史の郤儉が賦税の徴収で民を煩わせているという噂が広がり、また、并州では刺史の張壹が、涼州では刺史の耿鄙が殺害されるなどの事態が相次いでいました。この状況により劉焉の計画は実現に向かい、彼は監軍使者として益州牧を兼ね、陽城侯に封じられ、郤儉を収監し罪を問うこととなりました。董扶も蜀郡西部属国都尉と太倉令を求め、巴西郡の趙韙も官職を辞して劉焉に随行しました。
是時(涼)〔益〕州逆賊馬相、趙祗等於綿竹縣自號黃巾,合聚疲役之民,一二日中得數千人,先殺綿竹令李升,吏民翕集,合萬餘人,便前破雒縣,攻益州殺儉,又到蜀郡、犍為,旬月之間,破壞三郡。相自稱天子,眾以萬數。州從事賈龍(素)領〔家〕兵數百人在犍為東界,攝斂吏民,得千餘人,攻相等,數日破走,州界清靜。龍乃選吏卒迎焉。焉徙治綿竹,撫納離叛,務行寬惠,陰圖異計。張魯母始以鬼道,又有少容,常往來焉家,故焉遣魯為督義司馬,住漢中,斷絕谷閣,殺害漢使。焉上書言米賊斷道,不得復通,又託他事殺州中豪強王咸、李權等十餘人,以立威刑。犍為太守任岐及賈龍由此反攻焉,焉擊殺岐、龍。
この時、益州の反乱者である馬相と趙祗らが綿竹県において自らを黄巾軍と称し、疲弊した民を集めました。一、二日のうちに数千人を得て、まず綿竹の県令である李升を殺害しました。役人や民衆が次々と集まり、合わせて一万人以上となりました。彼らはすぐに雒県を攻め落とし、益州刺史の郤儉を殺害し、さらに蜀郡や犍為郡に進軍し、十日ほどの間に三郡を破壊しました。馬相は自ら天子を称し、その軍勢は万を数えました。
州の従事であった賈龍は、普段から家兵数百人を率いており、犍為郡の東境で役人や民を糾合し、千人以上を得ました。賈龍は数日かけて馬相らを攻撃し、ついに彼らを破り追い散らしました。その後、益州は平穏を取り戻しました。賈龍はそこで兵士を選び、劉焉を迎え入れました。
劉焉は拠点を綿竹に移し、離散した民を保護し、寛大で慈愛に満ちた統治を行いながら、密かに別の計画を進めていました。
張魯の母は鬼道に通じ、また容姿端麗であったため、頻繁に劉焉の家を訪れていました。この縁があり、劉焉は張魯を督義司馬に任命し、漢中に駐屯させました。
張魯はここで谷を封鎖し、漢朝の使者を殺害しました。劉焉は朝廷に上書して、賊が道を断ち通行不能となったと報告し、さらに様々な理由を口実に州内の豪族である王咸や李権ら十数名を殺害し、威厳を示しました。
このため、犍為太守の任岐や賈龍は劉焉に反抗して攻撃しましたが、劉焉は彼らを打ち破り、任岐と賈龍を討ち取りました。
焉意漸盛,造作乘輿車具千餘乘。荊州牧劉表表上焉有似子夏在西河疑聖人之論。時焉子範為左中郎將,誕治書御史,璋為奉車都尉,皆從獻帝在長安,惟(小)〔叔〕子別部司馬瑁素隨焉。獻帝使璋曉諭焉,焉留璋不遣。時征西將軍馬騰屯郿而反,焉及範與騰通謀,引兵襲長安。範謀泄,奔槐里,騰敗,退還涼州,範應時見殺,於是收誕行刑。議郎河南龐羲與焉通家,乃募將焉諸孫入蜀。時焉被天火燒城,車具蕩盡,延及民家。焉徙治成都,既痛其子,又感祅災,興平元年,癰疽發背而卒。州大吏趙韙等貪璋溫仁,共上璋為益州刺史,詔書因以為監軍使者,領益州牧,以韙為征東中郎將,率眾擊劉表。
劉焉の野心は次第に増し、天子の乗車や用具を千台余りも作らせました。荊州牧の劉表は、この行動について「西河にいた子夏が聖人を疑ったのと似ている」と上奏しました。当時、劉焉の子劉範は左中郎将、劉誕は治書御史、劉璋は奉車都尉としていずれも献帝に従い長安にいましたが、末子で別部司馬の劉瑁だけは劉焉の傍にいました。献帝は劉焉を説得させようと劉璋を派遣しましたが、劉焉が劉璋を留めて帰らせませんでした。
その頃、征西将軍の馬騰が郿に駐屯し反乱を起こしており、劉焉と劉範は馬騰と密かに通じ、兵を引き連れて長安を襲撃しようと企てました。しかし、劉範の計画が漏れて逃亡し、槐里で捕えられました。馬騰も敗北して涼州へ退き、劉範は処刑されました。これに伴い、劉誕も捕らえられて処刑されました。
議郎の河南出身の龐羲は劉焉と親しい間柄であったため、劉焉の孫たちを募って蜀に入れました。その頃、天災による火災が発生し、劉焉の城は焼かれ、車具もすべて焼失し、さらに民家にまで延焼しました。劉焉は拠点を成都に移し、息子の死を悼むとともにこの天災に心を痛めました。興平元年(194年)、劉焉は背中に腫れ物を患い亡くなりました。
その後、益州の大官である趙韙らは劉璋の温厚で仁愛に満ちた性格を評価し、共に劉璋を益州刺史に推挙しました。詔書により劉璋は監軍使者として益州牧を兼任し、趙韙は征東中郎将に任命され、劉表を討つべく軍を率いることとなりました。
劉璋
璋,字季玉,既襲焉位,而張魯稍驕恣,不承順璋,璋殺魯母及弟,遂為讎敵。璋累遣龐羲等攻魯,〔數為〕所破。魯部曲多在巴西,故以羲為巴西太守,領兵禦魯。後羲與璋情好攜隙,趙韙稱兵內向,眾散見殺,皆由璋明斷少而外言入故也。璋聞曹公征荊州,已定漢中,遣河內陰溥致敬於曹公。加璋振威將軍,兄瑁平寇將軍。瑁狂疾物故。璋復遣別駕從事蜀郡張肅送叟兵三百人并雜御物於曹公,曹公拜肅為廣漢太守。璋復遣別駕張松詣曹公,曹公時已定荊州,走先主,不復存錄松,松以此怨。會曹公軍不利於赤壁,兼以疫死。松還,疵毀曹公,勸璋自絕,因說璋曰:「劉豫州,使君之肺腑,可與交通。」璋皆然之,遣法正連好先主,尋又令正及孟達送兵數千助先主守禦,正遂還。後松復說璋曰:「今州中諸將龐羲、李異等皆恃功驕豪,欲有外意,不得豫州,則敵攻其外,民攻其內,必敗之道也。」璋又從之,遣法正請先主。璋主簿黃權陳其利害,從事廣漢王累自倒縣於州門以諫,璋一無所納,敕在所供奉先主,先主入境如歸。先主至江州北,由墊江水墊音徒協反。詣涪,音浮。去成都三百六十里,是歲建安十六年也。璋率步騎三萬餘人,車乘帳幔,精光曜日,往就與會;先主所將將士,更相之適,歡飲百餘日。璋資給先主,使討張魯,然後分別。
劉璋は字を季玉といい、父の劉焉の地位を継ぎました。しかし、張魯は次第に傲慢となり、劉璋に従わなくなりました。これに対して劉璋は張魯の母と弟を殺し、張魯とは仇敵関係になりました。劉璋は龐羲らを何度も派遣して張魯を攻めましたが、しばしば敗れました。張魯の配下は巴西郡にも多くいたため、龐羲を巴西太守に任命し、兵を率いて張魯を防がせました。
しかし、後に龐羲と劉璋の間に不和が生じ、趙韙が軍を起こして劉璋を攻めましたが、趙韙の軍は敗れて兵は散り、趙韙も殺されました。これは劉璋が明断に欠け、外部の意見に左右されたためでした。
その後、劉璋は曹操が荊州を征服し漢中を平定したと聞き、河内の陰溥を派遣して曹操に敬意を表しました。これにより、曹操は劉璋を振威将軍、兄の劉瑁を平寇将軍に任命しましたが、劉瑁は病気で亡くなりました。劉璋は再び別駕従事の蜀郡の張肅を派遣し、兵士三百人と各種の献上品を曹操に送ったため、曹操は張肅を広漢太守に任命しました。
その後、劉璋はさらに別駕の張松を曹操のもとに派遣しましたが、その頃には曹操が荊州を平定し劉備を追い払っていたため、張松は軽んじられて相手にされませんでした。このことに不満を抱いた張松は、劉璋に「劉豫州(劉備)はあなたの信頼できる人物です。彼と交流を深めるべきです」と進言しました。劉璋はこれを受け入れ、法正を派遣して劉備と友好関係を築かせました。その後、法正と孟達に兵数千を託し、劉備のもとに送って防備を助けさせました。
その後、張松は再び劉璋に進言し、「現在、州の将軍である龐羲や李異らは皆、功績を誇り傲慢になり、反意を抱いています。もし劉豫州(劉備)を受け入れなければ、外から敵が攻め、内から民が反乱を起こし、必ず敗北に至ります」と説きました。劉璋はこれを聞き入れ、法正を派遣して劉備を招き入れました。
一方で、劉璋の主簿である黄権は利害を述べて諫め、従事である広漢の王累は州門で首を吊って諫めましたが、劉璋は一切聞き入れず、各地に命じて劉備をもてなすように指示しました。劉備が入境するにあたり、まるで帰郷するかのように歓迎されました。劉備は江州の北、涪に到着しましたが、そこは成都から三百六十里(約180キロメートル)の距離でした。この年は建安十六年(211年)でした。
劉璋は歩兵と騎兵三万余を率いて車と幕を整え、光り輝く装備で迎えに行き、劉備と会見しました。両軍の将兵は互いに交流し、百日以上も共に宴を楽しみました。劉璋は劉備に資材を提供して張魯を討伐させ、その後の別れを約束しました。
明年,先主至葭萌,還兵南向,所在皆克。十九年,進圍成都數十日,城中尚有精兵三萬人,穀帛支一年,吏民咸欲死戰。璋言:「父子在州二十餘年,無恩德以加百姓。百姓攻戰三年,肌膏草野者,以璋故也,何心能安!」遂開城出降,羣下莫不流涕。先主遷璋于南郡公安,盡歸其財物及故佩振威將軍印綬。孫權殺關羽,取荊州,以璋為益州牧,駐秭歸。璋卒,南中豪率雍闓據益郡反,附於吳。權復以璋子闡為益州刺史,處交、益界首。丞相諸葛亮平南土,闡還吳,為御史中丞。初,璋長子循妻,龐羲女也。先主定蜀,羲為左將軍司馬,璋時從羲啟留循,先主以為奉車中郎將。是以璋二子之後,分在吳、蜀。
翌年、先主(劉備)は葭萌に至り、軍を南に向けました。各地で戦いに勝利を収め、建安十九年(214年)、成都を攻囲して数十日が経ちましたが、城内にはまだ精兵三万が残り、穀物や布も一年分の備えがありました。官吏や民衆は皆、死を覚悟して戦うことを望んでいましたが、劉璋は次のように語りました。「父子がこの州に二十年以上いましたが、民に恩徳を施すことはできませんでした。百姓は三年にわたり戦い、骨肉が草野に散らばる有様となったのは劉璋のせいです。このままでは心安らかでいることはできません!」こうして劉璋は城門を開いて降伏し、部下たちは皆、涙を流しました。
先主は劉璋を南郡の公安に移し、財産をすべて返還するとともに、かつての振威将軍の印綬も返しました。やがて孫権が関羽を殺し荊州を奪うと、劉璋を益州牧に任命し、秭帰に駐屯させました。その後、劉璋は亡くなりましたが、南中の豪族である雍闓が益州郡を拠点に反乱を起こし、呉に附属しました。孫権は再び劉璋の子の劉闡を益州刺史に任命し、交州と益州の境界に駐屯させました。その後、丞相の諸葛亮が南方を平定し、劉闡は呉に戻り、御史中丞に任命されました。
なお、劉璋の長男である劉循は龐羲の娘を妻にしていました。先主が蜀を平定した後、龐羲は左将軍司馬に任命され、劉璋は龐羲に頼んで劉循の留任を願い出たため、先主は劉循を奉車中郎将としました。こうして、劉璋の二人の息子の子孫は呉と蜀に分かれて仕えることとなりました。
評(陳寿の評)
評曰:昔魏豹聞許負之言則納薄姬於室,劉歆見圖讖之文則名字改易,終於不免其身,而慶鍾二主。此則神明不可虛要,天命不可妄冀,必然之驗也。而劉焉聞董扶之辭則心存益土,聽相者之言則求婚吳氏,遽造輿服,圖竊神器,其惑甚矣。璋才非人雄,而據土亂世,負乘致寇,自然之理,其見奪取,非不幸也。
評して言います。昔、魏豹は許負の言葉を信じて薄姫を妻とし、劉歆は図讖の文を見て自らの名を変えましたが、いずれも身を全うできず、その結果、福は他者に移り二主が栄えました。このことは、神明は軽々しく呼び寄せられず、天命はむやみに期待するべきでないことの確かな証です。
劉焉は董扶の言葉を聞いて益州に意を抱き、占い師の助言に従って呉氏と縁組を求め、急ぎ皇帝の服装を作り、皇位を狙おうとしましたが、その惑いは甚だしいものでした。劉璋は才覚が人並みでしかなかったのに、乱世に一地方を支配し、安易に領地を保とうとしたために敵を招いたのは当然の成り行きであり、彼の領土が奪われたのも不運ではないと言えるでしょう。
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正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)
渡邉義浩著 三国志事典は、三国志の時代を深く知ることができる神本です。
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