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正史三国志★漢文日本語訳 第36巻 蜀書6

このノートは、正史(歴史書)三国志 第36巻(漢文)とその日本語訳です。漢文は、中央研究院・歴史語言研究所の『漢籍全文資料庫』から引用し、日本語訳は、ChatGPT-4o(2024年夏バージョン)に指示して作成し、それに私が修正を加えたものです。引用元の漢文に、裴松之の注は含まれていません。日本語訳の信頼性については、専門家による伝統的な手順を踏んだ翻訳方法ではないため、書き下し文もなく、信頼ある日本語訳とは言えませんが、どんなことが書いてあるかが分かる程度だと思って使っていただけますと幸いです。

引用元:
中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』

正史三國志 漢文日本語訳
巻三十六 蜀書六 関張馬黃趙第六 (関羽,張飛,馬超,黃忠,趙雲)


関羽

關羽字雲長,本字長生,河東解人也。亡命奔涿郡。先主於鄉里合徒眾,而羽與張飛為之禦侮。先主為平原相,以羽、飛為別部司馬,分統部曲。先主與二人寢則同牀,恩若兄弟。而稠人廣坐,侍立終日,隨先主周旋,不避艱險。先主之襲殺徐州刺史車冑,使羽守下邳城,行太守事,而身還小沛。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻三十六

関羽は字を雲長といい、もとの字は長生で、河東郡解県の出身です。彼は身を隠し涿郡に逃れました。先主(劉備)が故郷で兵を集めた際、関羽と張飛がその守り役となりました。先主が平原相に任命されると、関羽と張飛を別部司馬に任じ、各自の部隊を率いることを命じました。先主は二人と寝食を共にし、兄弟のように厚い恩愛を示しました。また、大勢の前でも二人は日中ずっと付き従い、先主がどこへ行っても苦難を厭わずに付き添いました。

その後、先主が徐州刺史の車冑を急襲して殺害した際、関羽を下邳城の守りに任じ、太守の職務を代行させました。一方で先主自身は小沛に戻りました。

建安五年,曹公東征,先主奔袁紹。曹公禽羽以歸,拜為偏將軍,禮之甚厚。紹遣大將(軍)顏良攻東郡太守劉延於白馬,曹公使張遼及羽為先鋒擊之。羽望見良麾蓋,策馬刺良於萬眾之中,斬其首還,紹諸將莫能當者,遂解白馬圍。曹公即表封羽為漢壽亭侯。初,曹公壯羽為人,而察其心神無久留之意,謂張遼曰:「卿試以情問之。」既而遼以問羽,羽歎曰:「吾極知曹公待我厚,然吾受劉將軍厚恩,誓以共死,不可背之。吾終不留,吾要當立效以報曹公乃去。」遼以羽言報曹公,曹公義之。及羽殺顏良,曹公知其必去,重加賞賜。羽盡封其所賜,拜書告辭,而奔先主於袁軍。左右欲追之,曹公曰:「彼各為其主,勿追也。」

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻三十六

建安五年(200年)、曹公(曹操)が東征すると、先主(劉備)は袁紹のもとへ逃れました。このとき曹公は関羽を捕らえて帰還し、偏将軍に任じて厚くもてなしました。やがて袁紹が大将軍の顔良を派遣して東郡太守の劉延を白馬で攻撃させると、曹公は張遼と関羽を先鋒としてこれを迎撃しました。関羽は顔良の旗印を見定めると、馬を駆けて敵軍の中に突入し、顔良を刺してその首を斬り取って戻りました。この戦功により、袁紹軍の諸将も対抗できず、白馬の包囲は解かれました。曹公は関羽を漢寿亭侯に封じました。

曹公は関羽の器量を称賛していましたが、彼が長く留まる意思はないと察し、張遼に「彼の真意を探るように」と命じました。張遼が関羽に問いかけると、関羽はため息をついて答えました。「曹公が私に厚くしてくださることはよくわかっていますが、私は劉将軍(劉備)から深い恩を受け、共に死ぬと誓っております。それを裏切ることはできません。ここには留まらず、功績を立てて曹公に報いた後に去るつもりです」と。張遼がこの言葉を曹公に伝えると、曹公はその義に感じ入りました。

関羽が顔良を討ち取ると、曹公は関羽がいずれ去ることを悟り、さらに多くの恩賞を与えました。関羽は全てを封じて礼状を書き、別れを告げ、袁紹のもとにいる先主のもとへ戻りました。側近が追撃を申し出ましたが、曹公は「彼もまたその主に尽くしているのだ。追うな」と命じました。

從先主就劉表。表卒,曹公定荊州,先主自樊將南渡江,別遣羽乘船數百艘會江陵。曹公追至當陽長阪,先主斜趣漢津,適與羽船相值,共至夏口。孫權遣兵佐先主拒曹公,曹公引軍退歸。先主收江南諸郡,乃封拜元勳,以羽為襄陽太守、盪寇將軍,駐江北。先主西定益州,拜羽董督荊州事。羽聞馬超來降,舊非故人,羽書與諸葛亮,問超人才可誰比類。亮知羽護前,乃答之曰:「孟起兼資文武,雄烈過人,一世之傑,黥、彭之徒,當與益德並驅爭先,猶未及髯之絕倫逸羣也。」羽美鬚髯,故亮謂之髯。羽省書大悅,以示賓客。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻三十六

劉備は劉表を頼って荊州に向かいましたが、劉表が亡くなると曹操が荊州を平定しました。劉備は樊城から南へ逃れ、関羽には数百隻の船を率いて江陵で合流するよう命じました。曹操が当陽長阪まで追撃してきましたが、劉備は漢津へ向かい、関羽の船と合流して共に夏口へ到達しました。ここで孫権が兵を派遣して劉備を支援し、曹操を退けました。

その後、劉備は江南の諸郡を支配下に収め、元勲を表彰し、関羽を襄陽太守および盪寇将軍に任命し、江北に駐屯させました。その後、劉備が益州を平定すると、関羽に荊州の統治を任せました。

また、関羽は馬超が降伏したと聞き、かつて親交がなかった馬超の人物について諸葛亮に書簡を送り、彼の才能が誰に匹敵するかを尋ねました。諸葛亮は関羽が自尊心を抱いていることを理解し、「孟起(馬超)は文武を兼ね備え、雄々しく人並み外れた人物であり、一世の傑物です。項羽や彭越にも匹敵します。彼は張飛と並んで競い合うことができるでしょうが、関羽殿の独特な気品や他を超える才能には及ばないでしょう」と答えました。関羽はその返答を読み大いに喜び、賓客にその書簡を示しました。

羽嘗為流矢所中,貫其左臂,後創雖愈,每至陰雨,骨常疼痛,醫曰:「矢鏃有毒,毒入于骨,當破臂作創,刮骨去毒,然後此患乃除耳。」羽便伸臂令醫劈之。時羽適請諸將飲食相對,臂血流離,盈於盤器,而羽割炙引酒,言笑自若。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻三十六

関羽はかつて流れ矢に当たり、左腕を貫通する傷を負いました。その後、傷は癒えたものの、陰雨の際には骨が常に痛むようになりました。医者は「矢の鏃に毒があり、毒が骨に入っています。この患いを除くには、腕を切り開いて傷を作り、骨を削って毒を取り除かねばなりません」と述べました。関羽は即座に腕を差し出し、医者に切開を命じました。

その時、関羽はちょうど諸将を招いて食事を共にしていましたが、切開された腕から流れ出た血が器に満ちる中でも、関羽は肉を切り分けて酒を飲み、談笑しながら平然としていました。

二十四年,先主為漢中王,拜羽為前將軍,假節鉞。是歲,羽率眾攻曹仁於樊。曹公遣于禁助仁。秋,大霖雨,漢水汎溢,禁所督七軍皆沒。禁降羽,羽又斬將軍龐悳。梁郟、陸渾羣盜或遙受羽印號,為之支黨,羽威震華夏。曹公議徙許都以避其銳,司馬宣王、蔣濟以為關羽得志,孫權必不願也。可遣人勸權躡其後,許割江南以封權,則樊圍自解。曹公從之。先是,權遣使為子索羽女,羽罵辱其使,不許婚,權大怒。又南郡太守麋芳在江陵,將軍(傅)士仁屯公安,素皆嫌羽(自)輕己。〔自〕羽之出軍,芳、仁供給軍資,不悉相救。羽言「還當治之」,芳、仁咸懷懼不安。於是權陰誘芳、仁,芳、仁使人迎權。而曹公遣徐晃救曹仁,羽不能克,引軍退還。權已據江陵,盡虜羽士眾妻子,羽軍遂散。權遣將逆擊羽,斬羽及子平于臨沮。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻三十六

二十四年(219年)、先主(劉備)は漢中王となり、関羽を前将軍に任じ、節鉞を授けました。この年、関羽は軍を率いて樊城で曹仁を攻撃しました。曹公(曹操)は于禁を派遣して曹仁を援護させましたが、秋に大雨が続き、漢水が氾濫して于禁が指揮する七軍が水没し、于禁は関羽に降伏しました。関羽はさらに将軍の龐徳を斬りました。これにより、梁郟や陸渾の盗賊たちが遠くから関羽に帰属を表明し、同盟勢力を形成するほどで、関羽の威名は華夏全土に広まりました。

曹操は関羽の勢力を恐れて許都への帰還を検討しましたが、司馬懿(宣王)と蔣済が「関羽が勢力を伸ばすことを孫権は快く思わないはずです。孫権に関羽の後方を襲撃させ、江南の一部を与えると約束すれば、樊城の包囲も解けるでしょう」と進言し、曹操はこれに同意しました。

以前、孫権は息子の妻として関羽の娘を求めましたが、関羽はその使者を罵倒して結婚を拒絶し、孫権は激怒していました。また、南郡太守の麋芳は江陵に、将軍の傅士仁は公安に駐屯していましたが、関羽が彼らを軽んじていたため、麋芳と傅士仁は内心不満を抱いていました。関羽が軍を出動させた際、二人は軍資を提供しましたが十分な支援を行わず、関羽は「戻ったら処罰する」と言ったため、二人は恐れと不安を感じていました。

そこで孫権は密かに麋芳と傅士仁を引き込み、彼らは孫権に降伏の意を伝えました。その間、曹操は徐晃を派遣して曹仁を救援し、関羽は樊城を攻略できず軍を撤退させました。孫権はすでに江陵を占拠し、関羽の兵士や家族を全て捕らえました。さらに孫権は将軍を派遣して関羽を迎え撃ち、臨沮で関羽とその子の関平を斬首しました。

追諡羽曰壯繆侯。子興嗣。興字安國,少有令問,丞相諸葛亮深器異之。弱冠為侍中、中監軍,數歲卒。子統嗣,尚公主,官至虎賁中郎將。卒,無子,以興庶子彝續封。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻三十六

関羽には「壮繆侯」の諡号が追贈されました。子の関興が後を継ぎました。関興の字は安国で、若くして良い評判を得、丞相諸葛亮から深く信頼されました。弱冠にして侍中および中監軍に任じられましたが、数年後に早逝しました。関興の子である関統が跡を継ぎ、皇女と結婚し、虎賁中郎将にまで昇進しましたが、子を残さずに亡くなりました。そのため、関興の庶子である関彝が後を継ぎました。

張飛

張飛字益德,涿郡人也,少與關羽俱事先主。羽年長數歲,飛兄事之。先主從曹公破呂布,隨還計,曹公拜飛為中郎將。先主背曹公依袁紹、劉表。表卒,曹公入荊州,先主奔江南。曹公追之,一日一夜,及於當陽之長阪。先主聞曹公卒至,棄妻子走,使飛將二十騎拒後。飛據水斷橋,瞋目橫矛曰:「身是張益德也,可來共決死!」敵皆無敢近者,故遂得免。先主既定江南,以飛為宜都太守、征虜將軍,封新亭侯,後轉在南郡。先主入益州,還攻劉璋,飛與諸葛亮等泝流而上,分定郡縣。至江州,破璋將巴郡太守嚴顏,生獲顏。飛呵顏曰:「大軍至,何以不降而敢拒戰?」顏答曰:「卿等無狀,侵奪我州,我州但有斷頭將軍,無有降將軍也。」飛怒,令左右牽去斫頭,顏色不變,曰:「斫頭便斫頭,何為怒邪!」飛壯而釋之,引為賓客。飛所過戰克,與先主會于成都。益州既平,賜諸葛亮、法正、飛及關羽金各五百斤,銀千斤,錢五千萬,錦千匹,其餘頒賜各有差,以飛領巴西太守。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻三十六

張飛は字を益徳といい、涿郡の出身です。若い頃から関羽と共に劉備に仕え、年上の関羽を兄のように敬いました。劉備が曹操に従い呂布を破った際、張飛は曹操から中郎将に任命されました。その後、劉備が曹操から離れ、袁紹や劉表を頼るようになりました。劉表が亡くなると、曹操が荊州に進軍し、劉備は江南に逃れました。曹操が当陽長阪まで追撃してくると、劉備は妻子を置いて逃げ、張飛に二十騎を率いて後衛を務めさせました。張飛は川を渡って橋を断ち、「我こそ張益徳である。死を覚悟している者は来い!」と睨みつけ、敵は誰も近寄ることができず、劉備は無事に逃れることができました。

劉備が江南を平定すると、張飛は宜都太守および征虜将軍に任命され、新亭侯に封じられました。その後、南郡に移されました。劉備が益州に入って劉璋を攻める際、張飛は諸葛亮と共に川を遡って郡県を分割しながら治めました。江州に到着すると、劉璋の将である巴郡太守の厳顔を生け捕りにしました。張飛が「大軍が到来したのに、なぜ降伏せず抗戦するのか」と問い詰めると、厳顔は「そなたたちが無礼にも我が州を侵略したのだ。我が州には首を差し出す将軍はいても降伏する将軍はいない」と答えました。張飛は怒り、処刑を命じましたが、厳顔は顔色一つ変えず「斬るなら斬れ。何を怒っているのか」と述べました。張飛はその毅然とした態度に感服し、厳顔を賓客として迎え入れました。

張飛は各地で戦いに勝利し、劉備と共に成都で再会しました。益州が平定されると、張飛には金五百斤、銀千斤、銭五千万、錦千匹が賜られ、巴西太守に任命されました。

曹公破張魯,留夏侯淵、張郃守漢川。郃別督諸軍下巴西,欲徙其民於漢中,進軍宕渠、蒙頭、盪石,與飛相拒五十餘日。飛率精卒萬餘人,從他道邀郃軍交戰,山道迮狹,前後不得相救,飛遂破郃。郃棄馬緣山,獨與麾下十餘人從間道退,引軍還南鄭,巴土獲安。先主為漢中王,拜飛為右將軍、假節。章武元年,遷車騎將軍,領司隸校尉,進封西鄉侯,策曰:「朕承天序,嗣奉洪業,除殘靖亂,未燭厥理。今寇虜作害,民被荼毒,思漢之士,延頸鶴望。朕用怛然,坐不安席,食不甘味,整軍誥誓,將行天罰。以君忠毅,侔蹤召、虎,名宣遐邇,故特顯命,高墉進爵,兼司于京。其誕將天威,柔服以德,伐叛以刑,稱朕意焉。詩不云乎,『匪疚匪棘,王國來極。肇敏戎功,用錫爾祉』。可不勉歟!」

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻三十六

曹操が張魯を破った後、夏侯淵と張郃を漢川に残して守らせました。張郃はさらに巴西へ軍を進め、民を漢中に移そうとし、宕渠、蒙頭、盪石にまで進軍して張飛と五十日余り対峙しました。張飛は精鋭一万余を率い、別の道から張郃の軍を待ち伏せ、山道が狭く前後の救援ができない地形を利用して張郃の軍を破りました。張郃は馬を捨て、部下十数人と共に山道を逃れ、南鄭へ撤退しました。これにより巴西は安定しました。

先主(劉備)が漢中王に即位すると、張飛は右将軍に任命され、節を授けられました。章武元年(221年)、張飛はさらに車騎将軍に昇進し、司隷校尉も兼任して西郷侯に封じられました。劉備からの任命書には次のように記されていました。

「朕は天命を受け、祖先の大業を継ぎ、悪を除き世を安定させようとしているが、未だ完全には達していない。今、賊が害をなして民が苦しめられ、漢の忠臣たちは首を長くして待ち望んでいる。朕も心を痛め、落ち着いて座ることもできず、食事も楽しめない日々である。軍を整え、誓いを立て、天罰を実行するつもりだ。君は忠誠と勇敢さにおいて召虎に匹敵し、その名声は遠くまで知れ渡っている。ゆえに、特別にこの地位を授け、爵位を高め、京において司隷を兼任させる。君が天の威をもって、徳をもって柔らかに従わせ、反乱者を討伐し、朕の意にかなうことを願う。詩に曰く、『王国が極まり、軍功を立てた者には幸福が与えられる』と。どうか努力を惜しまぬように。」

初,飛雄壯威猛,亞於關羽,魏謀臣程昱等咸稱羽、飛萬人之敵也。羽善待卒伍而驕於士大夫,飛愛敬君子而不恤小人。先主常戒之曰:「卿刑殺既過差,又日鞭撾健兒,而令在左右,此取禍之道也。」飛猶不悛。先主伐吳,飛當率兵萬人,自閬中會江州。臨發,其帳下將張達、范彊殺飛,持其首,順流而奔孫權。飛營都督表報先主,先主聞飛都督之有表也,曰:「噫!飛死矣。」追諡飛曰桓侯。長子苞,早夭。次子紹嗣,官至侍中尚書僕射。苞子遵為尚書,隨諸葛瞻於緜竹,與鄧艾戰,死。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻三十六

張飛は生来勇壮で威勢があり、その武勇は関羽に次ぐものでした。魏の謀臣である程昱らも、関羽と張飛は「万人に敵する強者」と称賛していました。関羽は兵士には親切でしたが士大夫には傲慢であり、張飛は君子を敬愛する一方で小人物には無関心でした。先主(劉備)は常に張飛に「おまえは処罰を乱用し、また日常的に兵士を鞭打ち、その者たちをそばに置いている。これは災いを招く行為だ」と忠告しましたが、張飛は改めませんでした。

劉備が呉を討とうとした際、張飛は閬中から一万の兵を率いて江州で合流する予定でしたが、出発直前に部下の将である張達と范彊に殺害されました。彼らは張飛の首を持って孫権のもとに逃げました。張飛の軍営の都督がこの報を劉備に知らせると、劉備は「張飛は死んだのだな」と言い、張飛には「桓侯」の諡号が追贈されました。

張飛の長子である張苞は若くして亡くなり、次子の張紹が跡を継ぎ、侍中や尚書僕射にまで昇進しました。張苞の子である張遵も尚書となり、諸葛瞻に従って緜竹で鄧艾と戦い、戦死しました。

馬超

馬超字孟起,(右)扶風茂陵人也。父騰,靈帝末與邊章、韓遂等俱起事於西州。初平三年,遂、騰率眾詣長安。漢朝以遂為鎮西將軍,遣還金城,騰為征西將軍,遣屯郿。後騰襲長安,敗走,退還涼州。司隸校尉鍾繇鎮關中,移書遂、騰,為陳禍福。騰遣超隨繇討郭援、高幹於平陽,超將龐德親斬援首。後騰與韓遂不和,求還京畿。於是徵為衞尉,以超為偏將軍,封都亭侯,領騰部曲。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻三十六

馬超は字を孟起といい、扶風郡茂陵の出身です。父の馬騰は霊帝の末年に辺章、韓遂らと共に西州で挙兵しました。初平三年(192年)、韓遂と馬騰は兵を率いて長安に向かい、漢朝は韓遂を鎮西将軍に任じて金城に戻らせ、馬騰を征西将軍として郿に駐屯させました。その後、馬騰は長安を襲撃しましたが敗北し、涼州へ退きました。

司隷校尉の鍾繇が関中を守り、韓遂と馬騰に書を送り、反乱を続ければ災いがあり、従えば利益があると説きました。これに応じて、馬騰は馬超を鍾繇のもとに派遣し、平陽で郭援と高幹を討伐させました。馬超は龐徳と共に郭援を討ち取り、その首を斬りました。

その後、馬騰は韓遂と不和になり、京畿への帰還を求めました。馬騰は衛尉に任じられ、馬超は偏将軍および都亭侯に封じられ、父の部隊を引き継ぎました。

超既統眾,遂與韓遂合從,及楊秋、李堪、成宜等相結,進軍至潼關。曹公與遂、超單馬會語,超負其多力,陰欲突前捉曹公,曹公左右將許褚瞋目盻之,超乃不敢動。曹公用賈詡謀,離間超、遂,更相猜疑,軍以大敗。超走保諸戎,曹公追至安定,會北方有事,引軍東還。楊阜說曹公曰:「超有信、布之勇,甚得羌、胡心。若大軍還,不嚴為其備,隴上諸郡非國家之有也。」超果率諸戎以擊隴上郡縣,隴上郡縣皆應之,殺涼州刺史韋康,據冀城,有其眾。超自稱征西將軍,領并州牧,督涼州軍事。康故吏民楊阜、姜敍、梁寬、趙衢等,合謀擊超。阜、敍起於鹵城,超出攻之,不能下;寬、衢閉冀城門,超不得入。進退狼狽,乃奔漢中依張魯。魯不足與計事,內懷於邑,聞先主圍劉璋於成都,密書請降。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻三十六

馬超は軍を率いると、韓遂と連合し、楊秋、李堪、成宜らと結び、潼関へ進軍しました。曹公(曹操)が韓遂と馬超に馬上で会談すると、馬超は自分の力に自信を持っており、密かに曹公を捕らえようと計画しましたが、曹公の側近である許褚が睨みつけたため、動くことができませんでした。その後、曹公は賈詡の策略を用いて馬超と韓遂の間に疑心を生じさせ、二人は互いに疑念を抱いて軍は大敗しました。

馬超は諸戎族のもとに逃れ、曹公は安定まで追撃しましたが、北方で問題が発生し、軍を引き返しました。楊阜は曹公に「馬超は信陵君や項羽に匹敵する勇者であり、羌族や胡族から厚い信頼を得ています。もし、軍を引き返し厳重な備えをしなければ、隴上の諸郡は国家の支配下には収まらないでしょう。」と進言しました。

馬超は予想通り、諸戎族を率いて隴上の郡県を攻撃し、多くの郡県が応じました。彼は涼州刺史韋康を殺し、冀城を拠点としました。そして、自らを征西将軍および并州牧と称し、涼州の軍事を統括しました。

しかし、韋康の旧臣や住民であった楊阜、姜敍、梁寛、趙衢らが共謀し、馬超を討つために挙兵しました。楊阜と姜敍が鹵城で兵を挙げ、馬超がこれを攻撃しましたが陥落させられませんでした。さらに梁寛と趙衢が冀城の門を閉じて馬超を入城させなかったため、進退窮まり、馬超は漢中に逃れて張魯を頼りました。しかし張魯とは協力できず、不満を抱えていたところ、先主(劉備)が成都で劉璋を包囲していることを聞き、密かに降伏を願い出ました。

先主遣人迎超,超將兵徑到城下。城中震怖,璋即稽首,以超為平西將軍,督臨沮,因為前都亭侯。先主為漢中王,拜超為左將軍,假節。章武元年,遷驃騎將軍,領涼州牧,進封斄鄉侯,策曰:「朕以不德,獲繼至尊,奉承宗廟。曹操父子,世載其罪,朕用慘怛,疢如疾首。海內怨憤,歸正反本,暨于氐、羌率服,獯鬻慕義。以君信著北土,威武並昭,是以委任授君,抗颺虓虎,兼董萬里,求民之瘼。其明宣朝化,懷保遠邇,肅慎賞罰,以篤漢祜,以對于天下。」二年卒,時年四十七。臨沒上疏曰:「臣門宗二百餘口,為孟德所誅略盡,惟有從弟岱,當為微宗血食之繼,深託陛下,餘無復言。」追諡超曰威侯,子承嗣。岱位至平北將軍,進爵陳倉侯。超女配安平王理。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻三十六

先主(劉備)は使者を派遣して馬超を迎えると、馬超は兵を率いて成都城下に到着しました。城内は震え上がり、劉璋はすぐに降伏し、馬超を平西将軍に任じ、臨沮の統治を任せ、前都亭侯に封じました。後に先主が漢中王に即位すると、馬超を左将軍に任じ、節を授けました。章武元年(221年)、さらに驃騎将軍に昇進し、涼州牧を兼任させ、斄郷侯に封じられました。

任命書には次のように記されています。
「朕は徳の足らない身ながら天命により王位を継ぎ、宗廟を守り奉じている。曹操父子の悪行は歴史に刻まれるものであり、朕もその酷虐を憎み、頭が痛むほどの怒りを抱いている。国内の民は怨嗟し、正道に帰り本分に立ち返ることを望んでいる。氐や羌は服従し、遠方の獯鬻さえも義を慕っている。そなたは北方で信頼され、威武が広く知れ渡っているため、特別にこの重任を託し、そなたを信頼して軍勢を指揮させ、民の苦しみを救うことを願う。朝廷の徳を広め、遠近を懐柔し、賞罰を厳正にして漢の福を厚くし、天下に応えるのだ。」

翌年、馬超は四十七歳で亡くなりました。臨終の際に上表し、「私の一族二百余名は曹操(孟徳)によってほぼ皆殺しにされ、ただ従弟の馬岱が残されております。彼に一族の命脈を託します」と述べました。馬超には「威侯」の諡号が追贈され、子の馬承が跡を継ぎました。また、従弟の馬岱は平北将軍に昇進し、陳倉侯に封じられました。馬超の娘は安平王の劉理に嫁ぎました。

黄忠

黃忠字漢升,南陽人也。荊州牧劉表以為中郎將,與表從子磐共守長沙攸縣。及曹公克荊州,假行裨將軍,仍就故任,統屬長沙守韓玄。先主南定諸郡,忠遂委質,隨從入蜀。自葭萌受任,還攻劉璋,忠常先登陷陳,勇毅冠三軍。益州既定,拜為討虜將軍。建安二十四年,於漢中定軍山擊夏侯淵。淵眾甚精,忠推鋒必進,勸率士卒,金鼓振天,歡聲動谷,一戰斬淵,淵軍大敗。遷征西將軍。是歲,先主為漢中王,欲用忠為後將軍,諸葛亮說先主曰:「忠之名望,素非關、馬之倫也。而今便令同列。馬、張在近,親見其功,尚可喻指;關遙聞之,恐必不悅,得無不可乎!」先主曰:「吾自當解之。」遂與羽等齊位,賜爵關內侯。明年卒,追諡剛侯。子敍,早沒,無後。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻三十六

黄忠は字を漢升といい、南陽の出身です。荊州牧の劉表によって中郎将に任じられ、劉表の従子である劉磐と共に長沙郡攸県を守りました。曹公(曹操)が荊州を制圧した際、黄忠は仮に裨将軍とされ、以前の任務に復帰し、長沙太守の韓玄の配下となりました。その後、先主(劉備)が南方の諸郡を平定すると、黄忠は降伏して劉備に従い蜀へ同行しました。葭萌で任を受け、劉璋との戦いでは常に先陣を切って突撃し、その勇猛さは三軍の中で抜きん出ていました。益州が平定されると、黄忠は討虜将軍に任命されました。

建安二十四年(219年)、漢中の定軍山にて黄忠は夏侯淵と戦い、夏侯淵の精鋭軍に対して黄忠は鋒を押し進め、士卒を鼓舞して一戦で夏侯淵の首を討ち取り、夏侯淵の軍を大敗させました。この功績で黄忠は征西将軍に昇進しました。同年、劉備が漢中王となり、黄忠を後将軍に任じようとしましたが、諸葛亮は「黄忠の名声は関羽や馬超には及びません。馬超や張飛は近くにいて黄忠の功績を目の当たりにしていますので理解できるでしょうが、遠方にいる関羽が聞けば不満を抱くかもしれません」と進言しました。劉備は「私が説明する」と述べ、黄忠を関羽と同列にし、関内侯に封じました。

その翌年に黄忠は亡くなり、「剛侯」の諡号が追贈されました。子の黄敘は早くに亡くなり、後を継ぐ者はいませんでした。

趙雲

趙雲字子龍,常山真定人也。本屬公孫瓚,瓚遣先主為田楷拒袁紹,雲遂隨從,為先主主騎。及先主為曹公所追於當陽長阪,棄妻子南走,雲身抱弱子,即後主也,保護甘夫人,即後主母也,皆得免難。遷為牙門將軍。先主入蜀,雲留荊州。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻三十六

趙雲は字を子龍といい、常山郡真定の出身です。もとは公孫瓚に属していましたが、公孫瓚が田楷を支援して袁紹と対峙させるために劉備を派遣すると、趙雲も劉備に従い、主騎(主要な騎兵)となりました。

劉備が曹公(曹操)に追われて当陽の長阪に至り、妻子を置いて南に逃れた際、趙雲は劉備の幼子(後の劉禅)を抱き、母である甘夫人を守りながら逃れて、二人とも難を免れさせました。この功績によって、趙雲は牙門将軍に昇進しました。

その後、劉備が蜀に入る際、趙雲は荊州に留まりました。

先主自葭萌還攻劉璋,召諸葛亮。亮率雲與張飛等俱泝江西上,平定郡縣。至江州,分遣雲從外水上江陽,與亮會于成都。成都既定,以雲為翊軍將軍。建興元年,為中護軍、征南將軍,封永昌亭侯,遷鎮東將軍。五年,隨諸葛亮駐漢中。明年,亮出軍,揚聲由斜谷道,曹真遣大眾當之。亮令雲與鄧芝往拒,而身攻祁山。雲、芝兵弱敵彊,失利於箕谷,然斂眾固守,不至大敗。軍退,貶為鎮軍將軍。七年卒,追諡順平侯。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻三十六

先主(劉備)が葭萌から戻り劉璋を攻撃する際、諸葛亮を召し、諸葛亮は趙雲と張飛らを率いて川を遡り、郡県を平定しました。江州に到達すると、趙雲は外水を経由して江陽に進軍し、諸葛亮と成都で合流しました。成都が平定された後、趙雲は翊軍将軍に任命されました。

建興元年(223年)、趙雲は中護軍と征南将軍に昇進し、永昌亭侯に封じられ、後に鎮東将軍に転任しました。建興五年(227年)、諸葛亮が漢中に駐屯すると、趙雲もこれに従いました。翌年、諸葛亮が斜谷道で進軍の気配を見せたため、曹真が大軍を派遣して対抗しました。諸葛亮は趙雲と鄧芝を派遣して箕谷で敵を引き受けさせ、自らは祁山を攻めました。趙雲と鄧芝は兵力が少なく、強大な敵に押されて失利しましたが、軍勢をまとめて固守し、大敗には至りませんでした。帰還後、趙雲は鎮軍将軍に降格されました。

建興七年(229年)、趙雲は亡くなり、「順平侯」の諡号が追贈されました。

初,先主時,惟法正見諡;後主時,諸葛亮功德蓋世,蔣琬、費禕荷國之重,亦見諡;陳祗寵待,特加殊奬,夏侯霸遠來歸國,故復得諡;於是關羽、張飛、馬超、龐統、黃忠及雲乃追諡,時論以為榮。雲子統嗣,官至虎賁中郎,督行領軍。次子廣,牙門將,隨姜維沓中,臨陳戰死。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻三十六

蜀の初代君主である先主(劉備)の治世では、法正だけが諡号を受けましたが、後代の後主(劉禅)の治世になると、諸葛亮はその功績が抜きん出ていたため諡号が贈られました。さらに、蔣琬や費禕も国の重責を担ったことで諡号を授けられました。また、陳祗は特別に寵愛されて特別な褒賞を受け、夏侯覇も遠方から帰順した功績により諡号を得ました。これに続き、関羽、張飛、馬超、龐統、黄忠、趙雲にも追諡が行われ、これを時の人々は名誉なことと考えました。

趙雲の子である趙統が後を継ぎ、虎賁中郎将および督行領軍にまで昇進しました。また、次子の趙広は牙門将として姜維に従軍し、沓中で敵軍と戦い、戦死しました。

評(陳寿の評)

評曰:關羽、張飛皆稱萬人之敵,為世虎臣。羽報效曹公,飛義釋嚴顏,並有國士之風。然羽剛而自矜,飛暴而無恩,以短取敗,理數之常也。馬超阻戎負勇,以覆其族,惜哉!能因窮致泰,不猶愈乎!黃忠、趙雲彊摯壯猛,並作爪牙,其灌、滕之徒歟?

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻三十六

評して言います。関羽と張飛はどちらも「万人に敵する」と称され、その勇猛さから「虎臣」と称賛されました。関羽は曹公(曹操)に忠義を尽くし、張飛は厳顔を義をもって釈放し、共に国士の風格を備えていました。しかし、関羽は剛直で自負心が強く、張飛は粗暴で情けに欠け、こうした短所によって敗北したのは理の常です。

馬超は異民族を頼り、その勇猛さを誇りましたが、結果として一族を滅ぼしました。惜しいことです。苦境にあっても泰然としていれば、どれほど良かったことでしょうか。

黄忠と趙雲は共に強健で勇壮であり、鋭い爪や牙のような存在でした。彼らは灌嬰や滕公のような将軍たちに匹敵するものでしょう。

#正史三国志 #正史三国志漢文日本語訳  No.36

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