見出し画像

魏の文帝曹丕亡き後の政権推移

魏の文帝(曹丕)の崩御後、魏の政権は複数の重要な変遷を経験しました。文帝の死後、その息子である曹叡が皇帝に即位し、明帝として知られるようになりました。明帝の治世を経て、魏の政権はさらに曹芳、曹髦、曹奐といった皇帝に受け継がれ、最終的には司馬氏による政権掌握へと繋がりました。ここでは、これらの変遷について正史『三国志』に基づいて説明します。

曹叡(明帝)の即位

曹丕(文帝)が226年に崩御した後、彼の息子である曹叡が皇帝に即位し、魏の政権を引き継ぎました。曹叡は明帝として知られ、彼の治世は比較的安定していたとされ、文化や経済の発展に努めました。しかし、蜀漢や呉との対立は続き、特に蜀漢の諸葛亮による北伐に対処する必要がありました。

司馬懿の台頭

明帝の治世の中で、司馬懿は重要な役割を果たすようになります。彼は最初、曹操の下で活躍し、その後曹丕、曹叡の下でも軍事と政治の両面で重要な地位を占めました。特に、諸葛亮の北伐に対する防衛では、司馬懿の軍事的な才能が発揮されました。

曹芳、曹髦、曹奐への皇位の移行

明帝の死後、魏の皇位は曹芳(斉王)、その後曹髦(高貴郷公)、そして曹奐(元帝)へと移りました。これらの皇帝の治世は、司馬氏の影響力が増大していく過程であり、特に司馬懿とその子供たち、司馬師と司馬昭による政治的な権力の掌握が進みました。

司馬氏による政権掌握

司馬昭が魏の実権を握ると、魏の政権は名実ともに司馬氏の手に移りました。最終的に264年、司馬炎(司馬昭の子)が魏の最後の皇帝である曹奐を廃し、自らが皇帝に即位して晋を建国しました。これにより、魏は終焉を迎え、三国時代から晋の時代へと移行しました。

#三国志勉強ノート  No.98


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?