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正史三国志★漢文日本語訳 第40巻 蜀書10
このノートは、正史(歴史書)三国志 第40巻(漢文)とその日本語訳です。漢文は、中央研究院・歴史語言研究所の『漢籍全文資料庫』から引用し、日本語訳は、ChatGPT-4o(2024年夏バージョン)に指示して作成し、それに私が修正を加えたものです。引用元の漢文に、裴松之の注は含まれていません。日本語訳の信頼性については、専門家による伝統的な手順を踏んだ翻訳方法ではないため、書き下し文もなく、信頼ある日本語訳とは言えませんが、どんなことが書いてあるかが分かる程度だと思って使っていただけますと幸いです。
引用元:
中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』
正史三國志 漢文日本語訳
巻四十 蜀書十 劉彭廖李劉魏楊第十 (劉封,彭羕,廖立,李嚴,劉琰,魏延,楊儀)
劉封
劉封者,本羅侯寇氏之子,長沙劉氏之甥也。先主至荊州,以未有繼嗣,養封為子。及先主入蜀,自葭萌還攻劉璋,時封年二十餘,有武藝,氣力過人,將兵俱與諸葛亮、張飛等泝流西上,所在戰克。益州既定,以封為副軍中郎將。
劉封という者は、もともと羅侯の寇氏の子であり、長沙の劉氏の甥です。先主(劉備)が荊州に入ったとき、後継がいなかったため、劉封を養子としました。先主が蜀に入国し、葭萌から戻って劉璋を攻撃した際、劉封は二十歳余りで、武芸に優れ、並外れた体力を備えていました。彼は諸葛亮や張飛らとともに兵を率いて川を遡り西へ進み、各地で戦っては勝利を収めました。益州が平定された後、劉封は副軍中郎将に任じられました。
初,劉璋遣扶風孟達副法正,各將兵二千人,使迎先主,先主因令達并領其眾,留屯江陵。蜀平後,以達為宜都太守。建安二十四年,命達從秭歸北攻房陵,房陵太守蒯祺為達兵所害。達將進攻上庸,先主陰恐達難獨任,乃遣封自漢中乘沔水下統達軍,與達會上庸。上庸太守申耽舉眾降,遣妻子及宗族詣成都。先主加耽征北將軍,領上庸太守員鄉侯如故,以耽弟儀為建信將軍、西城太守,遷封為副軍將軍。自關羽圍樊城、襄陽,連呼封、達,令發兵自助。封、達辭以山郡初附,未可動搖,不承羽命。會羽覆敗,先主恨之。又封與達忿爭不和,封尋奪達鼓吹。達既懼罪,又忿恚封,遂表辭先主,率所領降魏。魏文帝善達之姿才容觀,以為散騎常侍、建武將軍,封平陽亭侯。合房陵、上庸、西城三郡〔為新城郡,以〕達領新城太守。遣征南將軍夏侯尚、右將軍徐晃與達共襲封。達與封書曰:
古人有言:『疏不閒親,新不加舊。』此謂上明下直,讒慝不行也。若乃權君譎主,賢父慈親,猶有忠臣蹈功以罹禍,孝子抱仁以陷難,種、商、白起、孝己、伯奇,皆其類也。其所以然,非骨肉好離,親親樂患也。或有恩移愛易,亦有讒閒其閒,雖忠臣不能移之於君,孝子不能變之於父者也。勢利所加,改親為讎,況非親親乎!故申生、衞伋、禦寇、楚建稟受形之氣,當嗣立之正,而猶如此。今足下與漢中王,道路之人耳,親非骨血而據勢權,義非君臣而處上位,征則有偏任之威,居則有副軍之號,遠近所聞也。自立阿斗為太子已來,有識之人相為寒心。如使申生從子輿之言,必為太伯;衞伋聽其弟之謀,無彰父之譏也。且小白出奔,入而為霸;重耳踰垣,卒以克復。自古有之,非獨今也。
夫智貴免禍,明尚夙達,僕揆漢中王慮定於內,疑生於外矣;慮定則心固,疑生則心懼,亂禍之興作,未曾不由廢立之間也。私怨人情,不能不見,恐左右必有以閒於漢中王矣。然則疑成怨聞,其發若踐機耳。今足下在遠,尚可假息一時;若大軍遂進,足下失據而還,竊相為危之。昔微子去殷,智果別族,違難背禍,猶皆如斯。今足下棄父母而為人後,非禮也;知禍將至而留之,非智也;見正不從而疑之,非義也。自號為丈夫,為此三者,何所貴乎?以足下之才,棄身來東,繼嗣羅侯,不為背親也;北面事君,以正綱紀,不為棄舊也;怒不致亂,以免危亡,不為徒行也。加陛下新受禪命,虛心側席,以德懷遠,若足下翻然內向,非但與僕為倫,受三百戶封,繼統羅國而已,當更剖符大邦,為始封之君。陛下大軍,金鼓以震,當轉都宛、鄧;若二敵不平,軍無還期。足下宜因此時早定良計。易有『利見大人』,詩有『自求多福』,行矣。今足下勉之,無使狐突閉門不出。
封不從達言。
劉璋はかつて扶風の孟達を法正の副将として派遣し、それぞれ兵二千を率いて先主(劉備)を迎えさせました。先主はこれに乗じて孟達にその兵をまとめさせ、江陵に駐屯させました。蜀が平定された後、孟達は宜都太守に任命されました。建安二十四年(219年)、孟達は秭帰から北へ進軍し、房陵を攻撃し、房陵太守の蒯祺を討ち取りました。その後、孟達は上庸への進攻を企てましたが、先主は孟達一人での任務遂行を不安視し、劉封に漢中から沔水に乗って下り、孟達の軍を統率して上庸で合流するよう命じました。上庸太守の申耽は軍を挙げて降伏し、妻子や一族を成都に送りました。先主は申耽を征北将軍に任命し、上庸太守・員郷侯の地位をそのまま与え、申耽の弟の申儀を建信将軍・西城太守に任命しました。また劉封を副軍将軍に昇進させました。
その後、関羽が樊城と襄陽を包囲した際、関羽は劉封と孟達に救援を命じましたが、劉封と孟達は山間の地域が降伏したばかりで動揺を避けるべきだと申し立て、関羽の命に従いませんでした。このとき、関羽が敗北し、先主はこれを大変恨みました。さらに、劉封と孟達は仲違いし、劉封は孟達から鼓吹の権を奪いました。孟達は罪を恐れ、かつ劉封に憤慨していたため、先主に辞表を出し、配下を率いて魏に降りました。魏の文帝(曹丕)は孟達の才能と風采を賞賛し、彼を散騎常侍・建武将軍に任命し、平陽亭侯に封じました。そして房陵・上庸・西城の三郡をまとめて新城郡とし、孟達を新城太守に任じました。
魏は征南将軍の夏侯尚と右将軍の徐晃を派遣し、孟達と共に劉封を襲撃させました。孟達は劉封に書簡を送りました。
「古人が言ったように、『疎遠な者が親しい者の間に入り込むことはなく、新しい者が古い者に取って代わることもない』というのは、君主が賢明で、臣下が正直であれば、讒言や悪事が行われないからです。しかし、権勢をもつ君主や不誠実な主君でさえも、忠臣は功績を立てながらも禍を招き、孝行な子は仁愛を抱きながらも苦境に陥ることがあるのです。范増や比干、白起、孝己、伯奇は皆その例です。こうしたことが起きるのは、骨肉が互いに離れたがっているのでも、親族が苦難を好むからでもなく、恩義が移ろいやすく、讒言が間に入り込むからです。そのため、忠臣であっても君主の信頼を得られず、孝行な子も父親の信頼を覆すことができないのです。勢いにより親しき者が仇敵と化すことがあるのに、ましてや親しくない者ならなおさらです。
申生、衛伋、御寇、楚の建も、親から受け継いだ血統の者であり、正統な後継者の地位にあったにもかかわらず、このような不運に見舞われました。今、あなたと漢中王(劉備)はただの知り合いに過ぎず、血縁のない者として権勢に立ち、君臣としての義務もないまま高位に就いています。遠方近隣の人々もその評判を知っています。阿斗が太子に立てられて以来、見識ある者たちは皆不安を覚えています。もし申生が子輿の忠言に従っていれば、伯夷になれただろうし、衛伋が弟の助言を聞いていれば父親の責めを受けずに済んだでしょう。斉の小白は亡命し、やがて覇者となり、晋の重耳もまた、逃げて壁を越えた後に帰国し、大成を果たしました。昔からそうした例はありますが、これは今に始まったことではありません。
賢者は禍を避けることを尊び、明哲は早く行動することを重んじます。私は、漢中王が心の内では決意を固めている一方で、外の者に対しては疑念を抱いていると推察します。決意が固まれば心が動じず、疑念が生まれれば恐れが生じ、争乱の兆しが起こるのは廃立を巡る問題からであることが多いのです。個人の怨恨という感情は自然に表に現れるものであり、漢中王の側近には必ずや何らかの讒言を耳にする者がいるでしょう。疑いが増し、怨みが露見すれば、事態は機に触れるが如くに激変するでしょう。
今、あなたは遠方にいるため、しばしの猶予がありますが、大軍が進撃してきた際に拠点を失い退くような事態になれば、私はあなたの身を案じるものです。微子が殷から離れ、智果が一族から別れたのも、危険を避け難を逃れたのです。今、あなたが父母を捨てて他人の跡継ぎになるのは礼に適っておらず、危険を察知しながら留まるのは賢明とは言えません。正しいことを見ながら疑うのは義に背く行為です。これらの三つの点で丈夫と名乗るに値するものではありません。
あなたの才覚をもってすれば、自らを捨ててこちらに身を投じ、羅侯の後を継ぐことは親を背くことにならず、魏の主君に仕え規律を正すことも旧主を捨てることにはなりません。義憤に駆られ乱を起こさないことで危難を免れ、むなしく行動することにもなりません。加えて、陛下(曹丕)は新たに禅譲を受け、謙虚な姿勢で遠くの者を徳によって懐けようとしています。もしあなたが心を翻して内に向かえば、私との同列となり、三百戸の封を受け、羅侯の領地を継ぐだけでなく、さらに大国を分割して君として封じられるでしょう。陛下の大軍が金鼓を響かせて進軍すれば、都は宛や鄧へと移るでしょう。敵対する二者が平定されない限り、軍は戻らないでしょうから、今このときを良策を決定する機会とすべきです。
易経には『大人に会うことは吉である』とあり、詩には『多くの福を求めよ』とあります。どうか決断され、狐突が門を閉ざして出ようとしなかったようなことにはならないでください。」
劉封は孟達の言葉に従いませんでした。
申儀叛封,封破走還成都。申耽降魏,魏假耽懷集將軍,徙居南陽,儀魏興太守,封(真鄉侯)〔員鄉侯〕,屯洵口。封既至,先主責封之侵陵達,又不救羽。諸葛亮慮封剛猛,易世之後終難制御,勸先主因此除之。於是賜封死,使自裁。封歎曰:「恨不用孟子度之言!」先主為之流涕。達本字子敬,避先主叔父敬,改之。
申儀が劉封に背き、劉封は敗走して成都へ戻りました。一方、申耽は魏に降り、魏は申耽に懐集将軍の位を与え、南陽に移住させました。また、申儀は魏興太守に任じられ、劉封は員郷侯に封じられ、洵口に駐屯しました。
劉封が成都に到着すると、先主(劉備)は劉封が孟達を侮辱したこと、また関羽を救援しなかったことを責めました。諸葛亮は劉封の剛直で強情な性格を危惧し、先主の後継者の代になれば抑制が難しくなると考え、この機会に彼を処断するよう勧めました。そこで先主は劉封に自害を命じました。劉封は「孟子度の言葉に従わなかったのが悔やまれる!」と嘆きました。先主も涙を流して哀悼しました。
なお、孟達の字は子敬でしたが、先主の叔父である劉敬と重複するため、改名しました。
彭羕
彭羕字永年,廣漢人。身長八尺,容貌甚偉。姿性驕傲,多所輕忽,惟敬同郡秦子勑,薦之於太守許靖曰:「昔高宗夢傅說,周文求呂尚,爰及漢祖,納食其於布衣,此乃帝王之所以倡業垂統,緝熙厥功也。今明府稽古皇極,允執神靈,體公劉之德,行勿翦之惠,清廟之作於是乎始,褒貶之義於是乎興,然而六翮未之備也。伏見處士緜竹秦宓,膺山甫之德,履雋生之直,枕石漱流,吟詠縕袍,偃息於仁義之途,恬惔於浩然之域,高概節行,守真不虧,雖古人潛遁,蔑以加旃。若明府能招致此人,必有忠讜落落之譽,豐功厚利,建跡立勳,然後紀功於王府,飛聲於來世,不亦美哉!」
彭羕は字を永年といい、広漢の人です。身長は八尺、容貌は非常に立派でした。生来、驕慢であり、多くの人を軽んじましたが、同郡の秦子勑だけは敬っていました。彭羕は彼を太守の許靖に推挙して、こう言いました。
「かつて殷の高宗は夢で傅説を得、周の文王は呂尚を求め、また漢の高祖も庶民の士を用いました。これこそが、帝王が事業を興し、後世に伝える道です。今、明府(許靖)は古典に通じて皇道を体し、神のご加護のもと、周の公劉の徳を体現し、仁愛をもって人民を救う恩恵を行っておられます。まさに、清廟(王道を定めた古の殿堂)の業がここから始まり、褒貶の意義がここから興るのです。しかし、明府にはまだその六翮(飛翔のための全ての羽)が揃っていないように見受けられます。
私は、綿竹にいる隠士の秦宓を拝見いたしましたが、彼は周の山甫の徳を備え、雋生のような誠実さを持っています。石に枕し流れに口をすすぎ、吟詠しながら質素な衣服をまとうその姿は、仁義の道に安らぎ、浩然とした境地にあります。その高潔な節操と真心を保つ姿は、古の隠遁者にも劣らぬものです。もし明府がこの人をお招きになれば、必ずや忠誠を尽くして、貴方に名誉と豊かな功績をもたらすことでしょう。そしてその功績が王府に記され、未来にその名が伝わることとなれば、誠にすばらしいことでございます。」
羕仕州,不過書佐,後又為眾人所謗毀於州牧劉璋,璋髠鉗羕為徒隸。會先主入蜀,泝流北行。羕欲納說先主,乃往見龐統。統與羕非故人,又適有賓客,羕徑上統牀臥,謂統曰:「須客罷當與卿善談。」統客既罷,往就羕坐,羕又先責統食,然後共語,因留信宿,至于經日。統大善之,而法正宿自知羕,遂並致之先主。先主亦以為奇,數令羕宣傳軍事,指授諸將,奉使稱意,識遇日加。成都既定,先主領益州牧,拔羕為治中從事。羕起徒步,一朝處州人之上,形色囂然,自矜得遇滋甚。諸葛亮雖外接待羕,而內不能善。屢密言先主,羕心大志廣,難可保安。先主既敬信亮,加察羕行事,意以稍疎,左遷羕為江陽太守。
彭羕は州に仕えましたが、書佐に過ぎない地位にとどまりました。その後、州牧の劉璋に対して多くの人が彭羕の悪口を述べたため、劉璋は彭羕の髪を剃り、枷をはめて徒隷の身分に落としました。その折、ちょうど先主(劉備)が蜀に入り、川を北上して進軍している時期でした。彭羕は先主に謁見したいと考え、龐統に面会しました。
龐統とは特に親しい間柄ではありませんでしたが、彭羕は龐統のもとを訪れると、ちょうど龐統に客人がいたにもかかわらず、彭羕は遠慮せず統の床に上がって横になり、「客が帰ったら、じっくり話をしましょう」と告げました。龐統の客が引き上げた後、龐統が彭羕のもとに座りに行くと、彭羕はまず龐統に食事を求め、その後にようやく話し合いました。こうして彭羕は龐統のもとに泊まり、さらに日を重ねました。龐統は彼を大いに評価し、法正も以前から彭羕を知っていたため、二人して先主に推薦しました。先主も彭羕を異才と見なし、しばしば軍事伝達や諸将への指示を任せました。彭羕は使者としての務めを立派に果たし、次第に先主の信任を得ていきました。
成都が平定され、先主が益州牧を兼任するようになると、彭羕を抜擢して治中従事としました。彭羕は徒隷から一転して州の重職に就いたため、態度が騒々しく、遇されたことを誇る気持ちはますます増しました。諸葛亮は表向きは彭羕をもてなしましたが、内心ではよく思っていませんでした。そこで、たびたび密かに先主に対し、「彭羕は志が大きく、安易に信用するのは危険です」と進言しました。先主は諸葛亮を信頼し、その助言を受けて彭羕の行動を慎重に観察するようになり、次第に疎遠になっていきました。そして、彭羕を左遷して江陽太守に任命しました。
羕聞當遠出,私情不悅,往詣馬超。超問羕曰:「卿才具秀拔,主公相待至重,謂卿當與孔明、孝直諸人齊足並驅,寧當外授小郡,失人本望乎?」羕曰:「老革荒悖,可復道邪!」又謂超曰:「卿為其外,我為其內,天下不足定也。」超羈旅歸國,常懷危懼,聞羕言大驚,默然不答。羕退,具表羕辭,於是收羕付有司。
彭羕は遠地への赴任が決まったことを知り、心中に不満を抱いて馬超を訪ねました。馬超が彭羕に尋ねました。「君の才覚は秀でており、主公(劉備)も君を非常に重んじている。孔明(諸葛亮)や孝直(法正)らと肩を並べ、共に働くよう期待されているのに、どうして遠方の小さな郡に任じられることになり、本来の望みから外れることになったのでしょうか?」
これに対し、彭羕は「老いぼれで見当違いなことをする人のことを、今さら話題にする意味がありましょうか」と答えました。そしてさらに馬超に向かって、「あなたが外を、私が内を治めれば、天下を平定するのはたやすいことです」と述べました。
馬超は他国から帰還した身で、常に危惧を抱いていたため、彭羕の発言に非常に驚き、黙って何も答えませんでした。彭羕が退出した後、馬超はこの件について詳しく報告し、これを受けて彭羕は捕らえられて司直に送られました。
羕於獄中與諸葛亮書曰:「僕昔有事於諸侯,以為曹操暴虐,孫權無道,振威闇弱,其惟主公有霸王之器,可與興業致治,故乃翻然有輕舉之志。會公來西,僕因法孝直自衒鬻,龐統斟酌其間,遂得詣公於葭萌,指掌而譚,論治世之務,講霸王之義,建取益州之策,公亦宿慮明定,即相然贊,遂舉事焉。僕於故州不免凡庸,憂於罪罔,得遭風雲激矢之中,求君得君,志行名顯,從布衣之中擢為國士,盜竊茂才。分子之厚,誰復過此。羕一朝狂悖,自求葅醢,為不忠不義之鬼乎!先民有言,左手據天下之圖,右手刎咽喉,愚夫不為也。況僕頗別菽麥者哉!所以有怨望意者,不自度量,苟以為首興事業,而有投江陽之論,不解主公之意,意卒感激,頗以被酒,侻失『老』語。此僕之下愚薄慮所致,主公實未老也。且夫立業,豈在老少,西伯九十,寧有衰志,負我慈父,罪有百死。至於內外之言,欲使孟起立功北州,戮力主公,共討曹操耳,寧敢有他志邪?孟起說之是也,但不分別其閒,痛人心耳。昔每與龐統共相誓約,庶託足下末蹤,盡心於主公之業,追名古人,載勳竹帛。統不幸而死,僕敗以取禍。自我墮之,將復誰怨!足下,當世伊、呂也,宜善與主公計事,濟其大猷。天明地察,神祇有靈,復何言哉!貴使足下明僕本心耳。行矣努力,自愛,自愛!」羕竟誅死,時年三十七。
彭羕は獄中で諸葛亮に手紙を送りました。
「私はかつて諸侯に仕える身となり、曹操は暴虐、孫権は無道であり、振威は暗弱であると考え、主公こそが覇王の器を持ち、共に事業を興し治世を築けるお方だと見込んで軽挙を決意しました。ちょうど主公が西にいらした折、私は法孝直の助けを得て自らを売り込み、龐統がその間をとりもって、葭萌で主公にお目にかかることが叶いました。私は指を使って指し示しながら天下の務めを語り、覇王の義を論じ、益州を取る策を立てました。主公もあらかじめ明確に方針を定めておられ、私の提案に賛同し、事を成す運びとなったのです。
私は以前の州では凡庸な一人に過ぎず、罪に悩んでいましたが、運に恵まれて主君に巡り会い、布衣(庶民)から抜擢され国士とされました。この身に対して分け与えてくださった厚い恩義は、これ以上にないものでしょう。それなのに私が一時の迷いで逆らい、身を滅ぼし、不忠不義の鬼となるのでしょうか。古人の言葉に『左手に天下の地図を置き、右手で自らの咽喉を掻き切ることなど愚者でもしない』とありますが、まして私にそのようなことができるでしょうか。
私が怨みや不満を抱いたのは、自らの力量をわきまえず、自分が事業の先駆けを担うべきだと思い込み、江陽に追いやられたことを主公の真意を理解せずに受け止めたためでした。そしてその感情に駆られ、酒に酔った勢いで、うかつに愚かな発言をしてしまったのです。これこそが私の浅はかさからくる過ちであり、主公は決して老いたわけではありません。そもそも事業の成否に年齢は関係なく、かの西伯(周の文王)は九十歳であっても衰えぬ志を持っておられました。慈愛深き主君に対して、私の罪はまことに死をもって償うべきものです。
内外で噂されていることについて言えば、孟起(馬超)が北方において功を立て、全力を尽くして主公と共に曹操を討つことを望んでいただけです。他の意図があったわけではありません。孟起が語ったことも、ただ行き違いがあり、人々の心を痛めたというだけのことです。かつて龐統とは共に誓い、私たちは貴兄(諸葛亮)の歩む後を追い、主公の事業に尽力し、古人に並ぶ名声を残して功績を史書に記そうと約束しました。しかし龐統は不幸にして亡くなり、私も自ら招いた災いによって失敗しました。私が自ら招いたことを、今さら誰を恨めましょうか。
貴兄は当代の伊尹や呂尚(太公望)ですから、どうか主公とよく計らって大事を成し遂げてください。天は明らかで地は察し、神々もきっとご存知でしょう。これ以上申し上げることはございません。ただ、私の本心をお伝えできればと存じます。どうかお健やかに、どうかお健やかに。」
彭羕はついに誅殺されました。享年三十七でした。
廖立
廖立廖音理救反。字公淵,武陵臨沅人。先主領荊州牧,辟為從事,年未三十,擢為長沙太守。先主入蜀,諸葛亮鎮荊土,孫權遣使通好於亮,因問士人皆誰相經緯者,亮答曰:「龐統、廖立,楚之良才,當贊興世業者也。」建安二十年,權遣呂蒙奄襲南三郡,立脫身走,自歸先主。先主素識待之,不深責也,以為巴郡太守。二十四年,先主為漢中王,徵立為侍中。後主襲位,徙長水校尉。
廖立(廖の音は「理」)は字を公淵といい、武陵郡の臨沅の出身です。先主(劉備)が荊州牧を務めた際に従事として招聘され、まだ三十歳に満たない年で長沙太守に抜擢されました。先主が蜀に入った後、諸葛亮が荊州の守備に当たっていた折、孫権が使者を派遣して諸葛亮と親交を結び、その際、荊州の優れた人材について尋ねました。これに対し諸葛亮は「龐統と廖立は楚の良才であり、世の事業を興すのに貢献できる人物です」と答えました。
建安二十年(215年)、孫権が呂蒙を派遣して南三郡を急襲すると、廖立は身を脱して逃れ、先主のもとへ帰参しました。先主はもとより廖立を信頼していたため、深く責めることなく巴郡太守に任じました。建安二十四年(219年)、先主が漢中王となると、廖立を侍中に召し上げました。後主(劉禅)が即位すると、長水校尉に転任となりました。
立本意,自謂才名宜為諸葛亮之貳,而更游散在李嚴等下,常懷怏怏。後丞相掾(李郃)〔李邵〕、蔣琬至,立計曰:「軍當遠出,卿諸人好諦其事。昔先(主)〔帝〕不取漢中,走與吳人爭南三郡,卒以三郡與吳人,徒勞役吏士,無益而還。既亡漢中,使夏侯淵、張郃深入于巴,幾喪一州。後至漢中,使關侯身死無孑遺,上庸覆敗,徒失一方。是羽怙恃勇名,作軍無法,直以意突耳,故前後數喪師眾也。如向朗、文恭,凡俗之人耳。恭作治中無綱紀;朗昔奉馬良兄弟,謂為聖人,今作長史,素能合道。中郎郭演長,從人者耳,不足與經大事,而作侍中。今弱世也,欲任此三人,為不然也。王連流俗,苟作掊克,使百姓疲弊,以致今日。」(郃)〔邵〕、琬具白其言於諸葛亮。亮表立曰:「長水校尉廖立,坐自貴大,臧否羣士,公言國家不任賢達而任俗吏,又言萬人率者皆小子也;誹謗先帝,疵毀眾臣。人有言國家兵眾簡練,部伍分明者,立舉頭視屋,憤咤作色曰:『何足言!』凡如是者不可勝數。羊之亂羣,猶能為害,況立託在大位,中人以下識真偽邪?」於是廢立為民,徙汶山郡。立躬率妻子耕殖自守,聞諸葛亮卒,垂泣歎曰:「吾終為左袵矣!」後監軍姜維率偏軍經汶山、詣立,稱立意氣不衰,言論自若。立遂終徙所。妻子還蜀。
廖立はもとより自分の才能と名声を以て諸葛亮の次に位置するにふさわしいと考えていましたが、李厳らの下で処遇されることに不満を抱き、常に鬱々とした気持ちを抱えていました。後に丞相の掾である李邵と蒋琬が訪れると、廖立は彼らに次のように言いました。
「軍が遠征に出るにあたり、諸君もよく事態を考えたほうがよい。かつて先帝(劉備)は漢中を取らず、南の三郡を孫権と争ったが、結局のところ三郡を孫権に譲る結果となり、徒に役人や兵士を疲れさせただけで無益に終わった。漢中を失った後には夏侯淵や張郃が巴に深く侵攻し、危うく州を失いかけた。後に漢中を取った際も、関羽は命を落とし、後継も絶え、さらに上庸も敗れて地を失った。関羽は勇名に頼り、軍を率いる際に法を守らず、ただ自分の考えだけで行動したために、たびたび兵を失ったのだ。向朗や文恭などは平凡な人物に過ぎない。文恭は治中としての統制が取れておらず、向朗もかつては馬良兄弟に仕え、彼らを聖人のように見ていたが、今では長史を務めているが、道理をわきまえているとは思えない。中郎の郭演長も人に従うだけで、大事を任せるに足る人物ではないのに侍中を務めている。今のような弱世に、この三人に重要な役職を任せるのは誤りである。王連もまた俗物で、掠奪的な税徴収で民を疲弊させ、今日の事態を招いたのだ。」
李邵と蒋琬はこれらの言葉を諸葛亮に詳しく報告しました。諸葛亮は上奏文を奉り、廖立のことを述べて次のように言いました。
「長水校尉の廖立は、自らを高く評価し、官僚を侮り、国家が賢人を登用せず、俗人を用いていると公然と批判し、兵士を統率する者たちは皆若輩だと言って、先帝を誹謗し、多くの臣を侮辱しています。ある人が国家の兵士がよく訓練され、整然としていると述べると、廖立は天井を見上げて憤り顔を赤らめ、『それが何だというのか!』と不満を述べました。このような行為が一度や二度ではありません。群れを乱す羊ですら害をなすのに、ましてや廖立が高位にあることは、真偽を見抜けぬ者にはなおさら危険です。」
こうして廖立は官職を剥奪され、民間に下されて汶山郡に移されました。廖立は自ら妻子を率いて耕作に勤しみましたが、諸葛亮の訃報を聞くと涙を流して嘆き、「私はついに左袵(さじん)となってしまった」と述べました。後に監軍の姜維が一部の軍を率いて汶山に立ち寄り、廖立を訪ねましたが、その時も廖立は気力衰えず、語り口も以前と変わりませんでした。その後、廖立は最期まで移住地で過ごし、妻子は蜀に戻りました。
李厳
李嚴字正方,南陽人也。少為郡職吏,以才幹稱。荊州牧劉表使歷諸郡縣。曹公入荊州時,嚴宰秭歸,遂西詣蜀,劉璋以為成都令,復有能名。建安十八年,署嚴為護軍,拒先主於緜竹。嚴率眾降先主,先主拜嚴裨將軍。成都既定,為犍為太守、興業將軍。二十三年,盜賊馬秦、高勝等起事於郪,音淒。合聚部伍數萬人,到資中縣。時先主在漢中,嚴不更發兵,但率將郡士五千人討之,斬秦、勝等首。枝黨星散,悉復民籍。又越嶲夷率高定遣軍圍新道縣,嚴馳往赴救,賊皆破走。加輔漢將軍,領郡如故。章武二年,先主徵嚴詣永安宮,拜尚書令。三年,先主疾病,嚴與諸葛亮並受遺詔輔少主;以嚴為中都護,統內外軍事,留鎮永安。建興元年,封都鄉侯,假節,加光祿勳。四年,轉為前將軍。以諸葛亮欲出軍漢中,嚴當知後事,移屯江州,留護軍陳到駐永安,皆統屬嚴。嚴與孟達書曰:「吾與孔明俱受寄託,憂深責重,思得良伴。」亮亦與達書曰:「部分如流,趨捨罔滯,正方性也。」其見貴重如此。八年,遷驃騎將軍。以曹真欲三道向漢川,亮命嚴將二萬人赴漢中。亮表嚴子豐為江州都督督軍,典嚴後事。亮以明年當出軍,命嚴以中都護署府事。嚴改名為平。
李厳は字を正方といい、南陽の人です。若い頃から郡の役人を務め、その才幹で評判を得ました。荊州牧の劉表は李厳を荊州の各郡県に派遣しました。曹公(曹操)が荊州に入った際、李厳は秭帰の県令を務めていましたが、そのまま西へ蜀に向かい、劉璋に仕えて成都令となり、才能を称賛されました。
建安十八年(213年)、劉璋は李厳を護軍に任命し、先主(劉備)の進軍から綿竹を防衛する役目を与えましたが、李厳は部下を率いて先主に降伏し、裨将軍に任じられました。成都が平定されると、犍為太守・興業将軍に任命されました。建安二十三年(218年)、盗賊の馬秦や高勝らが郪で反乱を起こし、数万の兵を集めて資中県に到達しました。当時、先主は漢中にいましたが、李厳は新たな兵を招集することなく、郡の兵五千人のみでこれに対処し、馬秦と高勝の首を討ち取りました。反乱に加担した者たちは散り散りとなりましたが、すべて戸籍に復帰させました。また、越嶲の夷族の長である高定が軍を派遣して新道県を包囲しましたが、李厳が急行して救援に向かい、賊は敗走しました。これにより李厳は輔漢将軍に任命され、引き続き太守を務めました。
章武二年(222年)、先主が李厳を永安宮に召し出し、尚書令に任命しました。翌年、先主が病に倒れた際、李厳は諸葛亮とともに遺詔を受けて幼主(劉禅)を補佐する役目を負い、中都護として内外の軍事を統括し、永安に駐屯するよう命じられました。建興元年(223年)、李厳は都郷侯に封じられ、さらに節を与えられ、光禄勲の位が加えられました。建興四年(226年)、前将軍に転任しました。その後、諸葛亮が漢中で出兵を準備する際、李厳が後方を掌握する役目として江州に駐屯し、護軍の陳到を永安に留め置きましたが、李厳の指揮下に置かれました。
李厳は孟達に手紙を送り、「私と孔明(諸葛亮)は共に寄託を受け、深い憂いと重責を負い、優れた仲間を得たいと望んでいます」と記しました。また、諸葛亮も孟達に手紙を送り、「分別なく物事を迅速に処理するのは、正方(李厳)の性格である」と述べており、李厳はこのように重んじられていました。
建興八年(230年)、李厳は驃騎将軍に昇進しました。この年、曹真が漢中に向けて三方向から攻撃を仕掛ける意図を示したため、諸葛亮は李厳に二万の兵を率いて漢中に赴くよう命じました。さらに諸葛亮は、李厳の子である李豊を江州都督督軍として李厳の後事を任せるように奏上しました。諸葛亮は翌年に出兵を予定していたため、李厳に中都護として署府の事務を任せるよう指示しました。この頃、李厳は改名して李平と名乗りました。
九年春,亮軍祁山,平催督運事。秋夏之際,值天霖雨,運糧不繼,平遣參軍狐忠、督軍成藩喻指,呼亮來還;亮承以退軍。平聞軍退,乃更陽驚,說「軍糧饒足,何以便歸」!欲以解己不辦之責,顯亮不進之愆也。又表後主,說「軍偽退,欲以誘賊與戰」。亮具出其前後手筆書疏本末,平違錯章灼。平辭窮情竭,首謝罪負。於是亮表平曰:「自先帝崩後,平所在治家,尚為小惠,安身求名,無憂國之事。臣當北出,欲得平兵以鎮漢中,平窮難縱橫,無有來意,而求以五郡為巴州刺史。去年臣欲西征,欲令平主督漢中,平說司馬懿等開府辟召。臣知平鄙情,欲因行之際偪臣取利也,是以表平子豐督主江州,隆崇其遇,以取一時之務。平至之日,都委諸事,羣臣上下皆怪臣待平之厚也。正以大事未定,漢室傾危,伐平之短,莫若褒之。然謂平情在於榮利而已,不意平心顛倒乃爾。若事稽留,將致禍敗,是臣不敏,言多增咎。」乃廢平為民,徙梓潼郡。十二年,平聞亮卒,發病死。平常冀亮當自補復,策後人不能,故以激憤也。豐官至朱提太守。
建興九年(231年)の春、諸葛亮が祁山に軍を進めた際、李平(李厳)は物資の運搬を督促していました。秋から夏にかけて長雨が続き、食糧の輸送が間に合わず、李平は参軍の狐忠と督軍の成藩を派遣して意向を伝え、諸葛亮に帰還を促しました。諸葛亮はこの連絡を受けて退却しました。
李平は軍の退却を知ると、今度は驚いたふりをして、「軍糧は十分にあるのに、なぜすぐに帰還したのか」と言い、責任を免れようとし、あたかも諸葛亮が進軍しなかったことが問題であるかのように装いました。さらに後主(劉禅)に上表し、「軍が偽りの退却を行い、敵を誘い出して戦おうとしている」と述べました。諸葛亮はこれまでの李平の書簡や意向の経緯をすべて示し、李平の虚偽と矛盾を明らかにしました。李平は言い訳も尽き、罪を認めて謝罪しました。
そこで諸葛亮は李平の処分を後主に奏上し、次のように述べました。
「先帝が崩御された後、李平はどこにいても自らの名誉や小さな利益を求め、国の憂いについて考えたことがありませんでした。私が北方に出兵する際、李平に兵を預けて漢中を守ってもらいたいと望みましたが、李平は私を助ける意志を見せず、代わりに五郡を巴州とし、巴州刺史に任じられることを求めました。昨年、私が西へ遠征する際も、李平に漢中を監督してもらおうと考えましたが、李平は司馬懿らが私を招くよう策を講じるべきだと述べました。私は李平がこのような小賢しい考えを持っていることを知り、彼を厚遇し、その息子の李豊を江州の軍監に任命しました。これにより多くの事務を託し、あえて李平の欠点を突くよりは、その功績を称えることにしました。しかし、李平がこのように名誉と利益のみを追求していたとは思いもよらず、彼の心がかくも裏表に満ちているとは予想外でした。もし今後の大事が遅れ、国を滅ぼすような結果になれば、私の不明の責といえます。」
こうして李平は官職を剥奪され、民に落とされて梓潼郡に流されました。建興十二年(234年)、李平は諸葛亮の死を聞くと、憤りから病に倒れ、そのまま亡くなりました。李平は、諸葛亮が自らの職位を回復してくれることを期待していましたが、その役割を他者に奪われたことに失望していたため、怒りを抱き続けていたのです。李平の息子の李豊は朱提太守まで昇進しました。
劉琰
劉琰字威碩,魯國人也。先主在豫州,辟為從事,以其宗姓,有風流,善談論,厚親待之,遂隨從周旋,常為賓客。先主定益州,以琰為固陵太守。後主立,封都鄉侯,班位每亞李嚴,為衞尉中軍師後將軍,遷車騎將軍。然不豫國政,但領兵千餘,隨丞相亮諷議而已。車服飲食,號為侈靡,侍婢數十,皆能為聲樂,又悉教誦讀魯靈光殿賦。建興十年,與前軍師魏延不和,言語虛誕,亮責讓之。琰與亮牋謝曰:「琰稟性空虛,本薄操行,加有酒荒之病,自先帝以來,紛紜之論,殆將傾覆。頗蒙明公本其一心在國,原其身中穢垢,扶持全濟,致其祿位,以至今日。閒者迷醉,言有違錯,慈恩含忍,不致之于理,使得全完,保育性命。雖必克己責躬,改過投死,以誓神靈;無所用命,則靡寄顏。」於是亮遣琰還成都,官位如故。
劉琰は字を威碩といい、魯国の人です。先主(劉備)が豫州にいた時に従事として招聘されました。劉琰は劉備の同族であり、風流で談論に長けていたため、劉備は厚く親しみ、たびたび身近に置いて賓客として遇しました。先主が益州を平定すると、劉琰は固陵太守に任じられました。
後主(劉禅)の時代には、都郷侯に封じられ、常に李厳に次ぐ地位にあり、衛尉・中軍師・後将軍を経て車騎将軍に昇進しました。しかし、国家の政務には参加せず、兵士千余を率いて、ただ丞相の諸葛亮の指示に従って意見を述べるだけでした。劉琰の車や服装、飲食は豪奢であり、侍女が数十人おり、皆が音楽に通じていました。また、侍女全員に「魯の霊光殿賦」を暗誦させていました。
建興十年(232年)、前軍師の魏延と不和となり、劉琰は誇張した発言をしたため、諸葛亮から叱責を受けました。劉琰は亮に謝罪の書簡を送りました。
「私、劉琰は性格に実直さが欠け、元より品行も浅薄で、加えて酒に溺れる悪癖があります。先帝の時代から様々な紛紜した議論の中で、倒れる寸前まで参っておりましたが、明公は私の一途な国への思いを汲み取り、身の穢れを許し支えてくださいました。そのおかげで今日の禄位を得るに至りました。このたびは酔いに迷い、言葉に誤りがありましたが、明公は寛大にも私を罰せず、命を守ってくださりました。これに報いるため、必ず己を克服し、過ちを改め、死をもって神明に誓います。もし役に立てないならば、生き恥をさらすのみです。」
諸葛亮はこれを受け、劉琰を成都に戻しましたが、その官位が上がることはありませんでした。
琰失志慌惚。十二年正月,琰妻胡氏入賀太后,太后令特留胡氏,經月乃出。胡氏有美色,琰疑其與後主有私,呼(卒)五百撾胡,至於以履搏面,而後棄遣。胡具以告言琰,琰坐下獄。有司議曰:「卒非撾妻之人,面非受履之地。」琰竟棄市。自是大臣妻母朝慶遂絕。
劉琰は次第に意気消沈し、心が乱れるようになりました。建興十二年(234年)の正月、劉琰の妻である胡氏が太后を祝賀するために参内したとき、太后は特に胡氏を留め、ひと月ほど経ってから返しました。劉琰は、胡氏が美貌であるので彼女と後主(劉禅)に不適切な関係があったのではと疑い、500人の卒を呼び寄せて胡氏を打ち据え、さらに履物で彼女の顔を叩くという虐待を加えた後に追放しました。
胡氏はこのことを詳細に訴え出たため、劉琰は拘束されました。有司は次のようにはかりました。「卒は妻を打つための者ではなく、顔も履物で叩くべき場所ではない」とし、劉琰は最終的に処刑されました。この事件以降、重臣たちの妻や母が参内して祝賀することは途絶えました。
魏延
魏延字文長,義陽人也。以部曲隨先主入蜀,數有戰功,遷牙門將軍。先主為漢中王,遷治成都,當得重將以鎮漢川,眾論以為必在張飛,飛亦以心自許。先主乃拔延為督漢中鎮遠將軍,領漢中太守,一軍盡驚。先主大會羣臣,問延曰:「今委卿以重任,卿居之欲云何?」延對曰:「若曹操舉天下而來,請為大王拒之;偏將十萬之眾至,請為大王吞之。」先主稱善,眾咸壯其言。先主踐尊號,進拜鎮北將軍。建興元年,封都亭侯。五年,諸葛亮駐漢中,更以延為督前部,領丞相司馬、涼州刺史,八年,使延西入羌中,魏後將軍費瑤、雍州刺史郭淮與延戰于陽谿,延大破淮等,遷為前軍師征西大將軍,假節,進封南鄭侯。
魏延は字を文長といい、義陽の出身です。部隊を率いて先主(劉備)と共に蜀に入り、たびたび戦功を立てたため、牙門将軍に昇進しました。先主が漢中王となり、成都に移った際、漢中を守るための重将を置く必要があり、誰を任命すべきかが議論となりました。多くは張飛を推し、張飛も自分が選ばれると考えていました。しかし、先主は魏延を抜擢して漢中督・鎮遠将軍とし、漢中太守を兼任させました。この任命に軍中の者は皆驚きました。
先主は群臣を集めて大いに会し、魏延に問いました。「今、卿に重任を託したが、どう果たすつもりか?」魏延は答えて、「もし曹操が天下の兵を挙げて来たならば、大王のためにこれを防ぎます。偏将が十万の兵を率いて来たならば、大王のためにこれを吞み込みます」と述べました。先主はその言葉を称賛し、皆もその豪胆さを称えました。先主が皇帝に即位すると、魏延は鎮北将軍に任じられました。
建興元年(223年)、魏延は都亭侯に封じられ、建興五年(227年)、諸葛亮が漢中に駐屯すると魏延は督前部・丞相司馬・涼州刺史に任命されました。建興八年(230年)、魏延は西方の羌中に進出し、魏の後将軍費瑤や雍州刺史郭淮と陽谿で戦って大勝しました。これにより魏延は前軍師・征西大将軍に昇進し、節を与えられ、南鄭侯に封じられました。
延每隨亮出,輒欲請兵萬人,與亮異道會于潼關,如韓信故事,亮制而不許。延常謂亮為怯,歎恨己才用之不盡。延既善養士卒,勇猛過人,又性矜高,當時皆避下之。唯楊儀不假借延,延以為至忿,有如水火。十二年,亮出北谷口,延為前鋒。出亮營十里,延夢頭上生角,以問占夢趙直,直詐延曰:「夫麒麟有角而不用,此不戰而賊欲自破之象也。」退而告人曰:「角之為字,刀下用也;頭上用刀,其凶甚矣。」
魏延は諸葛亮に随行して出陣するたびに、兵一万を請い、諸葛亮とは異なる道を通って潼関で合流し、韓信の故事のように敵を挟撃することを提案しましたが、諸葛亮はこれを抑え、許しませんでした。魏延はこのため諸葛亮を臆病と見なしており、自分の才能が十分に活かされていないと嘆き、恨みに思っていました。魏延は部下をよく養い、勇猛さは人並み外れていましたが、誇り高く、他の者たちは彼に一目置き、避けていました。しかし、楊儀だけは魏延を決して容赦せず、魏延はこれを大いに憤り、両者は水火のごとく対立していました。
建興十二年(234年)、諸葛亮が北へ出兵し谷口に陣を敷いた際、魏延は前鋒を務めました。魏延は陣から十里離れたところで、「自分の頭に角が生える夢」を見て、夢占い師の趙直にその意味を尋ねました。趙直は魏延を欺き、「麒麟は角を持ちながらもそれを使いません。これは戦わずして敵が自滅する前兆です」と答えましたが、後に他者に対して「角という字は、刀が下にあり、頭に刀を乗せることを示す。これは非常に不吉な兆しだ」と語りました。
秋,亮病困,密與長史楊儀、司馬費禕、護軍姜維等作身歿之後退軍節度,令延斷後,姜維次之;若延或不從命,軍便自發。亮適卒,祕不發喪,儀令禕往揣延意指。延曰:「丞相雖亡,吾自見在。府親官屬便可將喪還葬,吾自當率諸軍擊賊,云何以一人死廢天下之事邪?且魏延何人,當為楊儀所部勒,作斷後將乎!」因與禕共作行留部分,令禕手書與己連名,告下諸將。禕紿延曰:「當為君還解楊長史,長史文吏,稀更軍事,必不違命也。」禕出門馳馬而去,延尋悔,追之已不及矣。延遣人覘儀等,遂使欲案亮成規,諸營相次引軍還。延大怒,(纔)〔攙〕儀未發,率所領徑先南歸,所過燒絕閣道。延、儀各相表叛逆,一日之中,羽檄交至。後主以問侍中董允、留府長史蔣琬,琬、允咸保儀疑延。儀等槎山通道,晝夜兼行,亦繼延後。延先至,據南谷口,遣兵逆擊儀等,儀等令何平在前禦延。平叱延先登曰:「公亡,身尚未寒,汝輩何敢乃爾!」延士眾知曲在延,莫為用命,軍皆散。延獨與其子數人逃亡,奔漢中。儀遣馬岱追斬之,致首於儀,儀起自踏之,曰:「庸奴!復能作惡不?」遂夷延三族。初,蔣琬率宿衞諸營赴難北行,行數十里,延死問至,乃旋。原延意不北降魏而南還者,但欲除殺儀等。平日諸將素不同,冀時論必當以代亮。本指如此。不便背叛。
秋、諸葛亮が病で危篤になると、長史の楊儀、司馬の費禕、護軍の姜維らと密かに自身の死後の退却計画を練り、魏延に後衛を命じ、次に姜維が続くよう指示しました。もし魏延が命に従わなければ、魏延討伐の軍がただちに出発する手筈としました。やがて諸葛亮が死去しましたが、死の知らせは伏せられ、楊儀は費禕を派遣して魏延の意向を探らせました。
魏延は「丞相が亡くなられたとはいえ、私はなお健在である。官属が葬儀のために遺体を持ち帰ればよいが、私は軍を率いて敵を討つつもりだ。どうして一人の死で天下の大事を中断すべきか。また、魏延がどうして楊儀に従い、後衛を務めねばならないのか!」と述べました。そして費禕と行軍に関する取り決めを作成し、連名で書面を作成して諸将に伝達しました。
費禕はこれを聞くと「楊長史には私が説得してみましょう。長史は文官で軍務に慣れていないから、きっと命に従うでしょう」と告げてその場を去り、すぐさま馬で駆け戻りました。魏延は後になって後悔し追いましたが間に合いませんでした。魏延は人を派遣して楊儀の動向を探らせましたが、楊儀は亮の遺命に従って各営に順次軍を引き返すよう命じていました。魏延は激怒し、楊儀に先んじて南に帰還しつつ、通路の楼閣を焼き払い道を絶ちました。
魏延と楊儀は互いに謀反を訴え合い、一日にして報告が相次いで後主に届きました。後主は侍中の董允や留府長史の蒋琬に尋ねたところ、二人は揃って楊儀を支持し、魏延に疑いを向けました。楊儀らは山を切り開いて道を通し、昼夜を兼行して魏延を追いました。
魏延は先に南谷口に到着し、楊儀らに迎撃を仕掛けましたが、楊儀は何平を前線に立てて魏延を防ぎました。何平は魏延を叱りつけ、「丞相は亡くなったばかりで、その遺体もまだ冷えていないというのに、なぜこのようなことをするのか!」と言いました。魏延の兵たちは彼が間違っていると感じ、従う者がいなくなり、軍は全て散り散りになりました。魏延は独り、子供ら数人を伴って漢中へ逃亡しましたが、楊儀は馬岱に命じて追わせ、魏延を討ち取り、その首を楊儀に届けさせました。楊儀は魏延の首を踏みつけ、「愚か者よ、まだ悪事を働こうというのか!」と言い、魏延の三族は処刑されました。
蒋琬はこの間、諸営の兵を率いて北へ向かっていましたが、魏延の討死を聞くとそのまま引き返しました。魏延の真意は魏に降伏することではなく、ただ楊儀らを除こうとしただけであり、また、平時からも諸将と意見が合わなかったため、自らが諸葛亮の後継者として任じられることを期待していました。魏延の本意は謀反ではありませんでした。
楊儀
楊儀字威公,襄陽人也。建安中,為荊州刺史傅羣主簿,背羣而詣襄陽太守關羽。羽命為功曹,遣奉使西詣先主。先主與語論軍國計策,政治得失,大悅之,因辟為左將軍兵曹掾。及先主為漢中王,拔儀為尚書。先主稱尊號,東征吳,儀與尚書令劉巴不睦,左遷遙署弘農太守。建興三年,丞相亮以為參軍,署府事,將南行。五年,隨亮漢中。八年,遷長史,加綏軍將軍。亮數出軍,儀常規畫分部,籌度糧穀,不稽思慮,斯須便了。軍戎節度,取辦於儀。亮深惜儀之才幹,憑魏延之驍勇,常恨二人之不平,不忍有所偏廢也。十二年,隨亮出屯谷口。亮卒于敵場。儀既領軍還,又誅討延,自以為功勳至大,宜當代亮秉政,呼都尉趙正以周易筮之,卦得家人,默然不悅。而亮平生密指,以儀性狷狹,意在蔣琬,琬遂為尚書令、益州刺史。儀至,拜為中軍師,無所統領,從容而已。
楊儀は字を威公といい、襄陽の出身です。建安年間(196年 - 220年)に荊州刺史の傅群の主簿を務めていましたが、傅群を離れて襄陽太守の関羽のもとに赴きました。関羽は楊儀を功曹に任じ、使者として西へ派遣し、先主(劉備)のもとに送りました。先主と軍事・国家計画、政治の得失について語り合った際、先主は大いに感心し、楊儀を左将軍の兵曹掾に任じました。その後、先主が漢中王に即位すると、楊儀を尚書に抜擢しました。
その後、先主が皇帝に即位し、東征して呉を討とうとした際、楊儀は尚書令の劉巴と不和になり、左遷され弘農太守に任じられました。建興三年(225年)、丞相の諸葛亮は楊儀を参軍に任じ、府の事務を託して南征を開始しました。建興五年(227年)、楊儀は諸葛亮に従って漢中に入り、建興八年(230年)に長史に昇進し、綏軍将軍の号が加えられました。諸葛亮がたびたび出兵する際、楊儀は部隊の配置や物資の管理を計画し、迅速に処理しました。軍の指揮や管理についてはすべて楊儀に委ねられ、諸葛亮はその才幹を高く評価していました。一方で、魏延の勇猛さも高く評価しており、二人の不和を悩みつつ、どちらかを排除することはためらっていました。
建興十二年(234年)、楊儀は諸葛亮に従って谷口に駐屯しましたが、諸葛亮がその地で病死しました。楊儀は軍を率いて帰還し、さらに魏延を討伐しました。大きな功績を立てたと考えた楊儀は、自分が諸葛亮の後を継いで政権を握るべきだと信じ、都尉の趙正に周易で占わせましたが、「家人」の卦が出たため、不満を露わにしました。諸葛亮は生前、楊儀の狭量な性格を懸念し、後継者として蔣琬に期待していたため、最終的に蔣琬が尚書令・益州刺史に任じられました。
楊儀も帰還後に中軍師に任じられましたが、実権は与えられず、閑職にとどまりました。
初,儀為先主尚書,琬為尚書郎,後雖俱為丞相參軍長史,儀每從行,當其勞劇,自惟年宦先琬,才能踰之,於是怨憤形于聲色,歎咤之音發於五內。時人畏其言語不節,莫敢從也,惟後軍師費禕往慰省之。儀對禕恨望,前後云云,又語禕曰:「往者丞相亡沒之際,吾若舉軍以就魏氏,處世寧當落度如此邪!令人追悔不可復及。」禕密表其言。十三年,廢儀為民,徙漢嘉郡。儀至徙所,復上書誹謗,辭指激切,遂下郡收儀。儀自殺,其妻子還蜀。
かつて楊儀が先主(劉備)の下で尚書を務めていた頃、蔣琬は尚書郎でした。その後、楊儀と蔣琬が丞相の参軍や長史として共に仕えるようになりましたが、楊儀は従軍して苦労の多い任務に当たるたび、自分は年功が蔣琬よりも先で、才能も優れていると自負していました。そのため不満が表情に現れ、深いため息が胸の奥から漏れていました。当時の人々は、楊儀の言葉が行き過ぎるのを恐れ、誰もあえて近づこうとはしませんでしたが、後軍師の費禕だけは楊儀を慰めに訪れました。
楊儀は費禕に向かって不満をぶつけ、さまざまな愚痴をこぼしました。そして、「先に丞相が亡くなった時、もし私が軍を魏に降らせていれば、どうしてこのような境遇に甘んじることがあったでしょうか。思い返せば悔いても悔いきれません」とも語りました。費禕はその発言を密かに上奏しました。
建興十三年(235年)、楊儀は官位を剥奪され、民間に降格されて漢嘉郡に流されました。楊儀は流刑地に到着すると、再び上書して誹謗を続け、その言葉は激しく辛辣でした。そのため郡から命が下り、楊儀は逮捕されましたが、彼は自ら命を絶ちました。楊儀の妻子は蜀に戻されました。
評(陳寿の評)
評曰:劉封處嫌疑之地,而思防不足以自衞。彭羕、廖立以才拔進,李嚴以幹局達,魏延以勇略任,楊儀以當官顯,劉琰舊仕,並咸貴重。覽其舉措,迹其規矩,招禍取咎,無不自己也。
評して言います。劉封は疑念の目で見られる立場にありながら、身を守るための警戒が不十分でした。彭羕と廖立は才覚によって抜擢され、李厳はその手腕によって出世し、魏延は勇気と戦略によって任用され、楊儀は職務の遂行によって名を顕し、劉琰は長年仕えてきたことにより重んじられました。彼らの行動を観察し、その行動規範を辿ってみると、いずれも禍を招き、咎を受けた原因は自らにあったことがわかります。
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渡邉義浩著 三国志事典は、三国志の時代を深く知ることができる神本です。
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