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正史三国志★漢文日本語訳 第26巻 魏書26

このノートは、正史(歴史書)三国志 第26巻(漢文)とその日本語訳です。漢文は、中央研究院・歴史語言研究所の『漢籍全文資料庫』から引用し、日本語訳は、ChatGPT-4o(2024年夏バージョン)に指示して作成し、それに私が修正を加えたものです。引用元の漢文に、裴松之の注は含まれていません。日本語訳の信頼性については、専門家による伝統的な手順を踏んだ翻訳方法ではないため、書き下し文もなく、信頼ある日本語訳とは言えませんが、どんなことが書いてあるかが分かる程度だと思って使っていただけますと幸いです。

引用元:
中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』

正史三國志 漢文日本語訳
巻二十六 魏書二十六 滿田牽郭第二十六 (滿寵,田豫,牽招,郭淮)


満寵

滿寵字伯寧,山陽昌邑人也。年十八,為郡督郵。時郡內李朔等各擁部曲,害于平民,太守使寵糾焉。朔等請罪,不復鈔略。守高平令。縣人張苞為郡督郵,貪穢受取,干亂吏政。寵因其來在傳舍,率吏卒出收之,詰責所犯,即日考竟,遂棄官歸。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻二十六

満寵は字を伯寧といい、山陽郡昌邑の人です。十八歳で郡の督郵となりました。当時、郡内では李朔らがそれぞれ部曲を擁し、平民を害していました。太守は満寵に命じてこれを取り締まらせ、李朔らは罪を請い、再び略奪を行うことはありませんでした。その後、高平県の令(県長)に任じられました。

高平県の住民である張苞は、郡の督郵を務めており、貪欲で汚職を行い、役所の政務を乱していました。満寵は、張苞が伝馬の宿舎に来た際、部下の役人たちを率いて彼を捕らえ、犯した罪を厳しく問いただし、その日のうちに取り調べを終えました。そして官職を辞し、故郷に帰りました。

太祖臨兗州,辟為從事。及為大將軍,辟署西曹屬,為許令。時曹洪宗室親貴,有賓客在界,數犯法,寵收治之。洪書報寵,寵不聽。洪白太祖,太祖召許主者。寵知將欲原,乃速殺之。太祖喜曰:「當事不當爾邪?」故太尉楊彪收付縣獄,尚書令荀彧、少府孔融等並屬寵:「但當受辭,勿加考掠。」寵一無所報,考訊如法。數日,求見太祖,言之曰:「楊彪考訊無他辭語。當殺者宜先彰其罪;此人有名海內,若罪不明,必大失民望,竊為明公惜之。」太祖即日赦出彪。初,彧、融聞考掠彪,皆怒,及因此得了,更善寵。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻二十六

太祖(曹操)が兗州を治めていた時、満寵を従事として召し出しました。曹操が大将軍になった後、満寵は西曹(人事管理)に属し、許県の令(県長)を務めました。当時、曹洪は曹操の宗室(親族)で地位が高く、彼の賓客が管轄内でしばしば法を犯していました。満寵はこれを捕らえ、処罰しました。曹洪は満寵に書状を送り、罪を免じるよう求めましたが、満寵はそれを聞き入れませんでした。曹洪はこれを曹操に訴え、曹操は許県の主事者を召し出そうとしました。満寵は赦免が下ると察し、すぐに犯人を処刑しました。これを知った曹操は喜び、「事を行う者はこうでなくてはならない」と言いました。

また、かつて太尉の楊彪が捕らえられ、県の獄に収監された時、尚書令の荀彧や少府の孔融らは満寵に対し、「ただ供述を受けるだけで、拷問を加えるべきではない」と訴えました。しかし、満寵は一切返答せず、法に則り拷問を行いました。数日後、満寵は曹操に面会を求め、「楊彪は拷問にかけても特別な供述はありませんでした。罪に問われる者は、その罪を明らかにすべきです。楊彪は全国的に名高い人物ですから、もし罪が不明確であれば、人々の信頼を大きく失います。私は明公(曹操)のために惜しいと感じています」と報告しました。曹操はその日のうちに楊彪を赦免し、解放しました。

荀彧や孔融は、当初は満寵が楊彪を拷問にかけたことに怒っていましたが、この出来事をきっかけに満寵を評価するようになりました。

時袁紹盛於河朔,而汝南紹之本郡,門生賓客布在諸縣,擁兵拒守。太祖憂之,以寵為汝南太守。寵募其服從者五百人,率攻下二十餘壁,誘其未降渠帥,於坐上殺十餘人,一時皆平。得戶二萬,兵二千人,令就田業。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻二十六

時に袁紹は河朔で勢力を盛んにしていましたが、汝南は袁紹の本郡であり、門生や賓客が諸県に布在して兵を擁して拒守していました。太祖はこれを憂い、満寵を汝南太守に任命しました。寵はその地に服従する者を五百人募り、率いて二十余りの砦を攻め落とし、まだ降伏していない渠帥たちを誘い座上で十余人を殺しました。その結果、一時にして全てが平定されました。得た戸数は二万、兵士は二千人であり、彼らを田業に就かせました。

建安十三年,從太祖征荊州。大軍還,留寵行奮威將軍,屯當陽。孫權數擾東陲,復召寵還為汝南太守,賜爵關內侯。關羽圍襄陽,寵助征南將軍曹仁屯樊城拒之,而左將軍于禁等軍以霖雨水長為羽所沒。羽急攻樊城,樊城得水,往往崩壞,眾皆失色。或謂仁曰:「今日之危,非力所支。可及羽圍未合,乘輕船夜走,雖失城,尚可全身。」寵曰:「山水速疾,冀其不久。聞羽遣別將已在郟下,自許以南,百姓擾擾,羽所以不敢遂進者,恐吾軍掎其後耳。今若遁去,洪河以南,非復國家有也;君宜待之。」仁曰:「善。」寵乃沈白馬,與軍人盟誓。會徐晃等救至,寵力戰有功,羽遂退。進封安昌亭侯。文帝即王位,遷揚武將軍。破吳於江陵有功,更拜伏波將軍,屯新野。大軍南征,到精湖,寵帥諸軍在前,與賊隔水相對。寵敕諸將曰:「今夕風甚猛,賊必來燒軍,宜為其備。」諸軍皆警。夜半,賊果遣十部伏夜來燒,寵掩擊破之,進封南鄉侯。黃初三年,假寵節鉞。五年,拜前將軍。明帝即位,進封昌邑侯。太和二年,領豫州刺史。三年春,降人稱吳大嚴,揚聲欲詣江北獵,孫權欲自出。寵度其必襲西陽而為之備,權聞之,退還。秋,使曹休從廬江南入合肥,令寵向夏口。寵上疏曰:「曹休雖明果而希用兵,今所從道,背湖旁江,易進難退,此兵之窪地也。若入無彊口,宜深為之備。」寵表未報,休遂深入。賊果從無彊口斷夾石,要休還路。休戰不利,退走。會朱靈等從後來斷道,與賊相遇。賊驚走,休軍乃得還。是歲休薨,寵以前將軍代都督揚州諸軍事。汝南兵民戀慕,大小相率,奔隨道路,不可禁止。護軍表上,欲殺其為首者。詔使寵將親兵千人自隨,其餘一無所問。四年,拜寵征東將軍。其冬,孫權揚聲欲至合肥,寵表召兗、豫諸軍,皆集。賊尋退還,被詔罷兵。寵以為今賊大舉而還,非本意也,此必欲偽退以罷吾兵,而倒還乘虛,掩不備也,表不罷兵。後十餘日,權果更來,到合肥城,不克而還。其明年,吳將孫布遣人詣揚州求降,辭云:「道遠不能自致,乞兵見迎。」刺史王淩騰布書,請兵馬迎之。寵以為必詐,不與兵,而為淩作報書曰:「知識邪正,欲避禍就順,去暴歸道,甚相嘉尚。今欲遣兵相迎,然計兵少則不足相衞,多則事必遠聞。且先密計以成本志,臨時節度其宜。」寵會被書當入朝,敕留府長史:「若淩欲往迎,勿與兵也。」淩於後索兵不得,乃單遣一督將步騎七百人往迎之。布夜掩擊,督將迸走,死傷過半。初,寵與淩共事不平,淩支黨毀寵疲老悖謬,故明帝召之。既至,體氣康彊,見而遣還。寵屢表求留,詔報曰:「昔廉頗彊食,馬援據鞍,今君未老而自謂已老,何與廉、馬之相背邪?其思安邊境,惠此中國。」

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻二十六

建安十三年(208年)、満寵は曹操に従って荊州を征討しました。大軍が帰還する際、満寵は奮威将軍として当陽に駐屯し、孫権が東方をしばしば脅かすと、満寵は召還されて汝南太守に任じられ、関内侯の爵位を賜りました。関羽が襄陽を包囲した際、満寵は征南将軍曹仁を助け、樊城で防衛に当たり、左将軍于禁らの軍は豪雨で河川が増水し、関羽に敗北しました。関羽は樊城を激しく攻め、城の壁は水に浸かって崩れ、兵士たちは皆恐怖におののきました。ある者が曹仁に「この危機は力では支えきれません。関羽の包囲が固まる前に、軽舟で夜に逃げれば、城を失っても命は助かるでしょう」と進言しましたが、満寵は「山川の水は速やかに引くと期待しています。関羽はすでに別の将を郟下に派遣し、南方の支配を目指しており、百姓たちは混乱しています。彼が進軍しないのは、我が軍が後ろを攻めるのを恐れているからです。もし我々が逃げれば、洪河以南は国の領土でなくなるでしょう。ここで耐え忍ぶべきです」と述べ、曹仁もこれに同意しました。満寵は白馬を沈めて軍の士気を高め、兵士たちと盟誓しました。やがて徐晃らの救援が到着し、満寵は奮戦して功績を上げ、関羽は退却しました。これにより満寵は安昌亭侯に進封されました。

文帝(曹丕)が王位に就くと、満寵は揚武将軍に任じられ、さらに江陵で孫権を破って功績を立て、伏波将軍に昇進して新野に駐屯しました。大軍が南方へ進軍し、精湖に到着した際、満寵は諸軍を率いて敵と水を隔てて対峙しました。満寵は諸将に「今夜は風が非常に強く、敵は必ず我が軍を焼こうとするだろう。これに備えるべきだ」と命じ、全軍が警戒しました。夜半、敵は果たして十隊の伏兵を送り込んで夜襲をかけましたが、満寵はこれを撃破し、南郷侯に進封されました。黄初三年(222年)、満寵は節鉞を授けられ、黄初五年(224年)には前将軍に任じられました。明帝(曹叡)が即位すると、満寵は昌邑侯に進封されました。

太和二年(228年)、満寵は豫州刺史を兼任しました。翌年の春、降伏者が「孫権が江北に進軍しようとしている」との情報をもたらし、満寵は西陽を襲撃する準備をし、孫権はこれを聞いて退却しました。秋には曹休が廬江から南進し、満寵は夏口へ向かいました。満寵は上疏し、「曹休は勇猛だが、あまり戦術を用いません。彼が進む道は湖と江に挟まれ、進みやすく退きにくい、兵法で言う『窪地』です。無彊口に進入すれば、備えを固めるべきです」と警告しましたが、報告が届く前に曹休は進軍し、敵に道を断たれて敗北しました。朱霊らが到着して敵を撃退し、曹休は辛うじて撤退しました。同年、曹休は死去し、満寵が前将軍として揚州の軍を統督しました。汝南の兵や民は満寵を慕い、彼の後を追う者が多く、禁止できませんでしたが、詔が下り、首謀者は問われず、満寵が親兵千人を連れて引き連れることとなりました。

太和四年(230年)、満寵は征東将軍に任じられました。その冬、孫権が合肥を攻撃すると噂が流れ、満寵は兗州・豫州の軍を召集し、孫権は退却しました。満寵は「賊が大挙して退却したのは本意ではなく、偽って退却し我が軍を油断させ、虚を突こうとしている」と再度上疏して兵を解散させないよう求めました。十日余り後、孫権は再び合肥に現れましたが、城を攻め落とせずに退却しました。翌年、孫権の将孫布が降伏を申し出、刺史王凌は兵を派遣して迎えることを要請しましたが、満寵は「必ず偽りである」と判断し、兵を派遣しないよう命じました。しかし、王凌は700人の兵を派遣し、孫布に夜襲され、大半が殺されました。

満寵と王凌は対立しており、王凌は満寵の老いを理由に彼を中傷しましたが、明帝が満寵を召し出すと、満寵は健在であり、朝廷に復帰しました。満寵は再三辞任を願いましたが、詔で「昔、廉頗は老いても食が盛んであり、馬援も鞍に据わっていました。君はまだ老いていないのに、自らを老いたと言うのは、廉頗や馬援とは異なる考え方だ。国境を安んじ、この国を守ることを考えてほしい」と慰留されました。

明年,吳將陸遜向廬江,論者以為宜速赴之。寵曰:「廬江雖小,將勁兵精,守則經時。又賊舍船二百里來,後尾空縣,尚欲誘致,今宜聽其遂進,但恐走不可及耳。」整軍趨楊宜口。賊聞大兵東下,即夜遁。時權歲有來計。青龍元年,寵上疏曰:「合肥城南臨江湖,北遠壽春,賊攻圍之,得據水為勢;官兵救之,當先破賊大輩,然後圍乃得解。賊往甚易,而兵往救之甚難,宜移城內之兵,其西三十里,有奇險可依,更立城以固守,此為引賊平地而掎其歸路,於計為便。」護軍將軍蔣濟議,以為:「既示天下以弱,且望賊煙火而壞城,此為未攻而自拔。一至於此,劫略無限,必以淮北為守。」帝未許。寵重表曰:「孫子言,兵者,詭道也。故能而示之以弱不能,驕之以利,示之以懾。此為形實不必相應也。又曰『善動敵者形之』。今賊未至而移城卻內,此所謂形而誘之也。引賊遠水,擇利而動,舉得於外,則福生於內矣。」尚書趙咨以寵策為長,詔遂報聽。其年,權自出,欲圍新城,以其遠水,積二十日不敢下船。寵謂諸將曰:「權得吾移城,必於其眾中有自大之言,今大舉來欲要一切之功,雖不敢至,必當上岸耀兵以示有餘。」乃潛遣步騎六千,伏肥城隱處以待之。權果上岸耀兵,寵伏軍卒起擊之,斬首數百,或有赴水死者。明年,權自將號十萬,至合肥新城。寵馳往赴,募壯士數十人,折松為炬,灌以麻油,從上風放火,燒賊攻具,射殺權弟子孫泰。賊於是引退。三年春,權遣兵數千家佃於江北。至八月,寵以為田向收熟,男女布野,其屯衞兵去城遠者數百里,可掩擊也。遣長吏督三軍循江東下,摧破諸屯,焚燒穀物而還。詔美之,因以所獲盡為將士賞。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻二十六

翌年、呉の将軍陸遜が廬江に向かって進軍した際、周囲の者はすぐに迎撃すべきだと主張しましたが、満寵は「廬江は小さな城ではありますが、守備の兵は精強で、守れば長期間持ちこたえることができます。賊は二百里も船を離れて進軍しているため、後方が空いており、むしろ誘い込んで迎撃すべきです。もし彼らが逃げ出したら追いかけるのは難しくなるでしょう」と言って、軍を整えて楊宜口に進軍しました。敵は大軍が東下することを聞きつけて夜のうちに退却しました。この頃、孫権は毎年のように侵攻計画を立てていました。

青龍元年(233年)、満寵は上疏し、「合肥城は南が江湖に面し、北は寿春から遠く離れています。賊がこれを包囲して水際に陣を張れば、官軍が救援に向かうにはまず敵の大軍を破らなければならず、包囲は簡単には解けません。賊は攻めやすく、こちらの軍は救援が困難です。城の兵を移し、城の西三十里にある険しい地に新たに城を建て、そこで固守すべきです。こうすれば賊を平地に誘い出し、退路を断つことができ、作戦として有利です」と提案しました。しかし、護軍将軍の蔣濟は「これは天下に弱さを見せることになり、賊が火の手を見ただけで城を壊すようなものです。敵が来る前に自ら退却することになり、淮北の地を守ることしかできなくなるでしょう」と反対しました。明帝はこれをすぐには許可しませんでしたが、満寵は再び上疏し、「孫子は『兵は詭道なり』と言っています。強いのに弱さを見せ、利益で敵を引きつけ、恐怖を示して揺さぶるべきです。形と実態は必ずしも一致する必要はありません。また、『敵を動かす者はその形を示す』とも言っています。賊が来る前に城を移し、敵を引き寄せる形を作り出すのです。賊を水際から遠ざけ、戦う地を選び、有利な条件を得れば、外で勝利し、内で福を得られるでしょう」と述べました。尚書の趙咨も満寵の策を評価し、最終的に詔により満寵の提案が許可されました。

同年、孫権が自ら出陣し、新城を包囲しようとしましたが、遠く水を越えて進軍することを恐れ、二十日間も船を降りることができませんでした。満寵は諸将に向かって、「孫権は我々が城を移したことを知り、自軍の中で自信過剰な発言をしているはずです。彼は大軍を動かして一度に成果を得ようとしています。すぐには攻撃しないにしても、必ず上陸して兵を誇示し、その力を示そうとするでしょう」と語り、兵六千を潜ませ、肥城の隠れた場所に伏兵を配置しました。孫権が上陸して兵を誇示したところで、満寵の伏兵が一斉に襲いかかり、数百の首級を上げ、多くの者が水に逃れて死にました。

翌年(234年)、孫権は自ら十万の軍を率いて合肥新城に向かいました。満寵は迅速に出陣し、壮士数十人を募り、松を折って松明とし、麻油を塗って上風から火を放ち、敵の攻城器具を焼き払いました。さらに、孫権の甥である孫泰を射殺し、賊は退却しました。

三年目の春、孫権は数千の兵を派遣して江北で耕作を行い、八月に満寵は「収穫期が近づき、男女が野に出ており、屯衛の兵は城から数百里離れていて、攻撃する好機です」と判断し、長吏を派遣して三軍を督し、江沿いに東進して敵の屯営を襲い、穀物を焼き払いました。詔により満寵の功績が称えられ、捕獲したものはすべて将士に報奨として分け与えられました。

景初二年,以寵年老徵還,遷為太尉。寵不治產業,家無餘財。詔曰:「君典兵在外,專心憂公,有行父、祭遵之風。賜田十頃,穀五百斛,錢二十萬,以明清忠儉約之節焉。」寵前後增邑,凡九千六百戶,封子孫二人亭侯。正始三年薨,諡曰景侯。子偉嗣。偉以格度知名,官至衞尉。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻二十六

景初二年(238年)、満寵は高齢のため召還され、太尉に遷任されました。満寵は財産を築くことをせず、その家には余分な財産はありませんでした。そこで詔が下り、「君は外で兵を統率し、公務に専心しており、その姿勢は行父(周の名臣)や祭遵に似ている。田地十頃、穀五百斛、金二十万を賜り、清廉で倹約に徹した節操を顕彰する」と称えられました。満寵はこれまでに領地を増やされ、合計で九千六百戸を領し、二人の子孫が亭侯に封じられました。正始三年(242年)に薨去し、諡は「景侯」とされました。子の満偉が後を継ぎ、規律に厳格な人物として知られ、官位は衞尉にまで至りました。

田豫

田豫字國讓,漁陽雍奴人也。劉備之奔公孫瓚也,豫時年少,自託於備,備甚奇之。備為豫州刺史,豫以母老求歸,備涕泣與別,曰:「恨不與君共成大事也。」

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻二十六

田豫字は国譲、漁陽郡雍奴の人です。劉備が公孫瓚のもとに奔った際、田豫はまだ若く、自ら劉備に身を託しました。劉備は彼を非常に高く評価しました。後に劉備が豫州刺史となったとき、田豫は母親が老いていることを理由に帰郷を願い出ました。劉備は涙を流しながら別れを告げ、「君と共に大事を成し遂げられないことが残念でならない」と言いました。

公孫瓚使豫守東州令,瓚將王門叛瓚,為袁紹將萬餘人來攻。眾懼欲降。豫登城謂門曰:「卿為公孫所厚而去,意有所不得已也;今還作賊,乃知卿亂人耳。夫挈瓶之智,守不假器,吾既受之矣;何不急攻乎?」門慚而退。瓚雖知豫有權謀而不能任也。瓚敗而鮮于輔為國人所推,行太守事,素善豫,以為長史。時雄傑並起,輔莫知所從。豫謂輔曰:「終能定天下者,必曹氏也。宜速歸命,無後禍期。」輔從其計,用受封寵。太祖召豫為丞相軍謀掾,除潁陰、朗陵令,遷弋陽太守,所在有治。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻二十六

公孫瓚は田豫を東州令に任じましたが、瓚の部将である王門が叛き、袁紹に従い一万人余りの軍勢を率いて攻めてきました。人々は恐れて降伏しようとしましたが、田豫は城に登って王門に向かって言いました。「あなたは公孫瓚に厚遇されていたのに、それを裏切って去ったのは、やむを得ない事情があったのでしょう。しかし、今賊として戻ってきたのを見れば、あなたが混乱を招く人間であることがよく分かります。壊れた瓶でも守ることができる知恵を持つ者が守るのであれば、武器は必要ありません。私はこの城を守ると決めました。さあ、急いで攻撃してきたらどうですか?」王門はこれを聞いて恥じ入り、軍を退きました。公孫瓚は田豫に権謀があることを知っていたものの、彼を重く用いることができませんでした。

公孫瓚が敗れると、鮮于輔が国人たちに推されて太守の職務を代行するようになりました。鮮于輔はもともと田豫と親しく、彼を長史に任じました。時勢により多くの英雄が台頭してきた中で、鮮于輔は誰に従うべきか迷っていました。そこで田豫は鮮于輔にこう言いました。「最終的に天下を平定するのは、必ず曹氏です。早く曹操に帰順して、後に禍を招かないようにしましょう。」鮮于輔はこの計を受け入れ、曹操から封号や寵遇を受けました。

その後、曹操は田豫を召して丞相軍謀掾に任じ、潁陰県や朗陵県の県令に任じました。さらに弋陽郡太守に昇進し、彼が赴任した地では常に善政を行いました。

鄢陵侯彰征代郡,以豫為相。軍次易北,虜伏騎擊之,軍人擾亂,莫知所為。豫因地形,回車結圜陳,弓弩持滿於內,疑兵塞其隙。胡不能進,散去。追擊,大破之,遂前平代,皆豫策也。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻二十六

鄢陵侯の曹彰が代郡を征伐した際、田豫は彼の副将(相)として従いました。軍が易水の北に到着したとき、胡人の伏兵が騎兵を率いて襲撃してきました。このとき、軍の兵士たちは混乱し、どう対処すべきか分かりませんでした。田豫は地形を活かし、軍の車を回して円陣を組み、弓と弩を内側で構えさせ、隙間には疑兵を配しました。これにより胡人は前進できず、やむなく散り去りました。田豫は追撃をかけ、大勝利を収め、その後、代郡を平定しました。これらはすべて田豫の策によるものでした。

遷南陽太守。先時,郡人侯音反,眾數千人在山中為羣盜,大為郡患。前太守收其黨與五百餘人,表奏皆當死。豫悉見諸繫囚,慰諭,開其自新之路,一時破械遣之。諸囚皆叩頭,願自效,即相告語,羣賊一朝解散,郡內清靜。具以狀上,太祖善之。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻二十六

田豫は南陽太守に遷任されました。それ以前、郡の人である侯音が反乱を起こし、数千人を率いて山中で盗賊団を組織し、郡に大きな害を及ぼしていました。前任の太守はその一党500余人を捕らえ、全員死刑にすべきだと上奏しましたが、田豫は彼ら囚人たち全員に会い、慰め諭し、改心の道を開いてやりました。その結果、囚人たちは一斉に足枷を外されて釈放されました。囚人たちは皆感激して頭を叩いて謝り、自ら身を捧げることを誓い合い、賊団は一日で解散し、郡内は平穏を取り戻しました。これを詳細に報告すると、曹操(太祖)はこれを称賛しました。

文帝初,北狄彊盛,侵擾邊塞,乃使豫持節護烏丸校尉,牽招、解儁并護鮮卑。自高柳以東,濊貊以西,鮮卑數十部,比能、彌加、素利割地統御,各有分界;乃共要誓,皆不得以馬與中國市。豫以戎狄為一,非中國之利,乃先搆離之,使自為讐敵,互相攻伐。素利違盟,出馬千匹與官,為比能所攻,求救於豫。豫恐遂相兼并,為害滋深,宜救善討惡,示信眾狄。單將銳卒,深入虜庭,胡人眾多,鈔軍前後,斷截歸路。豫乃進軍,去虜十餘里結屯營,多聚牛馬糞然之,從他道引去。胡見烟火不絕,以為尚在,去,行數十里乃知之。追豫到馬城,圍之十重,豫密嚴,使司馬建旌旗,鳴鼓吹,將步騎從南門出,胡人皆屬目往赴之。豫將精銳自北門出,鼓譟而起,兩頭俱發,出虜不意,虜眾散亂,皆棄弓馬步走,追討二十餘里,僵尸蔽地。又烏丸王骨進桀黠不恭,豫因出塞案行,單將麾下百餘騎入進部。進逆拜,遂使左右斬進,顯其罪惡以令眾。眾皆怖慴不敢動,便以進弟代進。自是胡人破膽,烕震沙漠。山賊高艾,眾數千人,寇鈔,為幽、冀害,豫誘使鮮卑素利部斬艾,傳首京都。封豫長樂亭侯。為校尉九年,其御夷狄,恆摧抑兼并,乖散彊猾。凡逋亡姦宄,為胡作計不利官者,豫皆構刺攪離,使凶邪之謀不遂,聚居之類不安。事業未究,而幽州刺史王雄支黨欲令雄領烏丸校尉,毀豫亂邊,為國生事。遂轉豫為汝南太守,加殄夷將軍。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻二十六

文帝の治世初期、北狄が勢力を増し、辺境を侵略するようになりました。そこで、田豫は節を持して烏丸校尉として派遣され、牽招や解儁とともに鮮卑を護る役割を担いました。高柳以東、濊貊以西には、鮮卑の数十の部族があり、比能、彌加、素利らがそれぞれ領地を割り支配しており、各部族間には明確な境界がありました。これらの部族と誓約を結び、馬を中国に売ることを禁じました。

田豫は戎狄(異民族)を一つにまとめることは中国にとって利益にならないと考え、まず部族間の仲を裂いて互いに敵対させ、攻撃し合うように仕向けました。素利が誓約を破り、千匹の馬を官に売ったため、比能に攻撃されました。素利は田豫に助けを求めましたが、田豫は彼らが統一されるとさらに害が深まることを恐れ、善を救い悪を討つことで信用を示し、胡人の間での信頼を築くべきだと考えました。彼は精鋭部隊を率いて敵の本拠に深入りし、胡人に包囲されましたが、あえて多くの牛馬の糞を燃やし続けることで、自分たちがまだその場にいると錯覚させ、別の道から撤退しました。胡人がこれに気づいたときには、すでに遅く、追撃したものの、田豫の軍は見事に反撃し、敵を大破しました。

さらに、烏丸王の骨進が傲慢で不遜な態度を取っていたため、田豫は彼の部族に単独で乗り込み、進を斬り捨てて罪を示し、他の部族に恐怖を与えました。この行動により胡人たちは恐れをなし、田豫の威光は沙漠地帯まで広がりました。また、山賊の高艾が数千人を率いて幽州や冀州を荒らしていましたが、田豫は鮮卑の素利部族に命じて高艾を斬り、その首を京師に送らせました。

こうした功績により、田豫は長楽亭侯に封じられました。彼が九年間校尉を務める間に、夷狄を抑え、強者を分裂させました。賊徒や異民族が官に反抗しようとする陰謀はすべて田豫の策略によって潰され、凶悪な企みは成功しませんでした。しかし、幽州刺史の王雄の支持者たちは、田豫を排除して王雄に烏丸校尉の職を与え、田豫を誹謗して国に問題を引き起こそうとしました。結果、田豫は汝南太守に転任され、殄夷将軍に任命されました。

太和末,公孫淵以遼東叛,帝欲征之而難其人,中領軍楊暨舉豫應選。乃使豫以本官督青州諸軍,假節,往討之。會吳賊遣使與淵相結,帝以賊眾多,又以渡海,詔豫使罷軍。豫度賊船垂還,歲晚風急,必畏漂浪,東隨無岸,當赴成山。成山無藏船之處,輒便循海,案行地勢,及諸山島,徼截險要,列兵屯守。自入成山,登漢武之觀。賊還,果遇惡風,船皆觸山沈沒,波蕩著岸,無所蒙竄,盡虜其眾。初,諸將皆笑於空地待賊,及賊破,競欲與謀,求入海鉤取浪船。豫懼窮虜死戰,皆不聽。初,豫以太守督青州,青州刺史程喜內懷不服,軍事之際,多相違錯。喜知帝寶愛明珠,乃密上:「豫雖有戰功而禁令寬弛,所得器仗珠金甚多,放散皆不納官。」由是功不見列。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻二十六

太和末年、公孫淵が遼東で反乱を起こし、明帝は討伐を決意しましたが、適任者を見つけることに難航しました。そこで中領軍の楊暨が田豫を推薦し、田豫は本官(汝南太守)のまま青州諸軍を統括し、節を持して派遣されました。ちょうどその時、呉の賊が使者を送り、公孫淵と結託しようとしていたため、明帝は賊の数が多いことや海を渡る危険があることを考慮し、田豫に軍を引き返すよう命じました。

田豫は、賊の船が帰還する際、年末の強風で漂流する恐れがあり、東に進んでも岸がなく、最終的には成山に向かうだろうと予測しました。成山は船を隠す場所がないため、田豫は海岸に沿って地形や山島を確認し、要所に兵を配置して守りを固めました。そして成山に到着し、漢武帝が登ったという観望台に登りました。予想通り、賊が帰還すると強風に遭遇し、船が山に激突して沈没し、波に流されて岸に打ち上げられました。賊は逃げ場を失い、全員が捕虜となりました。

当初、諸将は田豫が何もない場所で賊を待っているのを嘲笑していましたが、賊が破れた後は、こぞって田豫と協力し、海に出て船を捕らえようと求めました。しかし、田豫は追い詰められた賊が死に物狂いで戦うことを恐れ、これを許しませんでした。

さらに、田豫は青州諸軍を統括する太守としての職務を果たしていましたが、青州刺史の程喜は内心で田豫に不満を抱いていました。軍事においても意見の相違があり、しばしば対立していました。程喜は明帝が珍珠を愛していることを知り、密かに「田豫は戦功があるものの、禁令が緩く、得た武器や珠金を多く放散し、官に納めませんでした」と報告しました。このため、田豫の功績は表彰されませんでした。

後孫權號十萬眾攻新城,征東將軍滿寵欲率諸軍救之。豫曰:「賊悉眾大舉,非徒投射小利,欲質新城以致大軍耳。宜聽使攻城,挫其銳氣,不當與爭鋒也。城不可拔,眾必罷怠;罷怠然後擊之,可大克也。若賊見計,必不攻城,勢將自走。若便進兵,適入其計。又大軍相向,當使難知,不當使自畫也。」豫輒上狀,天子從之。會賊遁走。後吳復來寇,豫往拒之,賊即退。諸軍夜驚,云:「賊復來!」豫臥不起,令眾「敢動者斬」。有頃,竟無賊。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻二十六

その後、孫権が十万の軍勢を率いて新城を攻撃しました。征東将軍の満寵は諸軍を率いて救援に向かおうとしましたが、田豫は「賊は大軍を挙げてきていますが、これは小さな利益を得るためのものではなく、新城を攻めて大軍を引き寄せようとしているのです。賊に城を攻めさせてその鋭気を挫き、無理に戦端を開くべきではありません。新城は容易に落ちることはなく、賊の士気は次第に低下します。その後で攻撃すれば、大きな勝利を収めることができます。もし賊がこちらの計略に気づけば、城を攻めずに撤退するでしょう。賊が進軍したとしても、それは彼らの計略に陥ることになり、大軍同士が対峙する際には、こちらの動きが予測できないようにしなければなりません。自己をさらけ出すべきではありません」と言いました。田豫はすぐに状を上申し、天子はそれに従いました。結果、賊は撤退しました。

その後、呉が再び侵攻してきた際、田豫がこれに対抗すると、賊はすぐに退却しました。夜、諸軍が「賊がまた戻ってきた」と驚きましたが、田豫は起き上がらず、「動いた者は斬る」と命じました。しばらくして、実際には賊はいませんでした。

景初末,增邑三百,并前五百戶。正始初,遷使持節護匈奴中郎將,加振威將軍,領并州刺史。外胡聞其威名,相率來獻。州界寧肅,百姓懷之。徵為衞尉。屢乞遜位,太傅司馬宣王以為豫克壯,書喻未聽。豫書答曰:「年過七十而以居位,譬猶鐘鳴漏盡而夜行不休,是罪人也。」遂固稱疾篤。拜太中大夫,食卿祿。年八十二薨。子彭祖嗣。

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景初末年、田豫は邑を三百戸増やされ、合計五百戸となりました。正始初年(240年頃)には、使持節・護匈奴中郎将に任命され、振威将軍を加えられ、并州刺史を兼任しました。外胡の者たちは田豫の威名を聞き、多くが貢物を持って訪れ、州境は平穏で、百姓も彼を慕いました。後に田豫は徴用されて衛尉に任じられましたが、彼はたびたび辞任を願い出ました。太傅司馬宣王(司馬懿)は、田豫がまだ壮健であるとして書を送り、その願いを認めませんでした。

田豫は書簡で次のように答えました。「私はすでに七十歳を超えており、それでもなお官職に就いているのは、鐘が鳴り漏れ尽きてもなお夜中に行くようなものであり、それは罪人です。」と述べ、病が重いとして固辞しました。最終的に太中大夫に任じられ、卿の俸禄を受けましたが、82歳で亡くなりました。子の田彭祖が後を継ぎました。

豫清儉約素,賞賜皆散之將士。每胡、狄私遺,悉簿藏官,不入家;家常貧匱。雖殊類,咸高豫節。嘉平六年,下詔褒揚,賜其家錢穀。語在徐邈傳。

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田豫は清廉で倹約を心がけ、賞賜を受けても全て将士に分け与えていました。胡や狄から個人的に贈り物を受けることがあっても、すべて官に記録して納め、自分の家には持ち帰りませんでした。そのため、家は常に貧しく困窮していました。異民族であっても、みな田豫の節操を高く評価しました。嘉平六年(254年)には、下詔によって田豫の功績が褒め称えられ、家族には金銭や穀物が賜与されました。このことは徐邈の伝記にも記されています。

牽招

牽招字子經,安平觀津人也。年十餘歲,詣同縣樂隱受學。後隱為車騎將軍何苗長史,招隨卒業。值京都亂,苗、隱見害,招俱與隱門生史路等觸蹈鋒刃,共殯斂隱屍,送喪還歸。道遇寇鈔,路等皆悉散走。賊欲斫棺取釘,招垂淚請赦。賊義之,乃釋而去。由此顯名。

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牽招は字を子経といい、安平観津の人です。年十余歳のとき、同県の楽隠に学びました。後に楽隠が車騎将軍何苗の長史となると、牽招も卒業してこれに従いました。ちょうどその頃、京都が乱れ、何苗と楽隠は害されましたが、牽招は楽隠の門生である史路らと共に、刃を交わして楽隠の遺体を殯し、その喪を送って帰りました。道中、賊に遭い、史路らは皆逃げ散りました。賊が棺を斫って釘を取ろうとした時、牽招は涙を垂れて赦しを請い、賊はその義に感じ、これを許して去りました。このことで名が知られるようになりました。

冀州牧袁紹辟為督軍從事,兼領烏丸突騎。紹舍人犯令,招先斬乃白,紹奇其意而不見罪也。紹卒,又事紹子尚。建安九年,太祖圍鄴。尚遣招至上黨,督致軍糧。未還,尚破走,到中山。時尚外兄高幹為并州刺史,招以并州左有恆山之險,右有大河之固,帶甲五萬,北阻彊胡,勸幹迎尚,并力觀變。幹既不能,而陰欲害招。招聞之,閒行而去,道隔不得追尚,遂東詣太祖。太祖領冀州,辟為從事。

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牽招は冀州牧袁紹に辟されて督軍従事となり、兼ねて烏丸突騎を領しました。あるとき、袁紹の舎人が法令に違反したため、牽招はまずこれを斬ってから報告し、袁紹はその意を奇とし、罪に問いませんでした。袁紹が亡くなると、牽招は袁紹の子である袁尚に仕えました。建安九年(204年)、太祖が鄴を包囲すると、袁尚は牽招を上党に遣わし、軍糧を督促させました。牽招が戻らないうちに袁尚は敗走し、中山に到達しました。袁尚の外兄である高幹が并州刺史を務めており、并州は左に恒山の険、右に大河の固があり、五万の兵を擁し、北は強大な胡と阻まれていたため、牽招は高幹に袁尚を迎えて力を合わせ、形勢を見守ることを勧めました。しかし、高幹はその提案に従わず、ひそかに牽招を害しようとしました。牽招はそのことを聞き、ひそかに逃れましたが、道が塞がれて袁尚に追いつくことができず、ついに東に向かい太祖に仕えました。太祖は冀州を領有し、牽招を従事に辟しました。

太祖將討袁譚,而柳城烏丸欲出騎助譚。太祖以招嘗領烏丸,遣詣柳城。到,值峭王嚴,以五千騎當遣詣譚。又遼東太守公孫康自稱平州牧,遣使韓忠齎單于印綬往假峭王。峭王大會羣長,忠亦在坐。峭王問招:「昔袁公言受天子之命,假我為單于;今曹公復言當更白天子,假我真單于;遼東復持印綬來。如此,誰當為正?」招答曰:「昔袁公承制,得有所拜假;中間違錯,天子命曹公代之,言當白天子,更假真單于,是也。遼東下郡,何得擅稱拜假也?」忠曰:「我遼東在滄海之東,擁兵百萬,又有扶餘、濊貊之用;當今之勢,彊者為右,曹操獨何得為是也?」招呵忠曰:「曹公允恭明哲,翼戴天子,伐叛柔服,寧靜四海,汝君臣頑嚚,今恃險遠,背違王命,欲擅拜假,侮弄神器,方當屠戮,何敢慢易咎毀大人?」便捉忠頭頓築,拔刀欲斬之。峭王驚怖,徒跣抱招,以救請忠,左右失色。招乃還坐,為峭王等說成敗之效,禍福所歸,皆下席跪伏,敬受敕教,便辭遼東之使,罷所嚴騎。

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太祖が袁譚を討とうとしたとき、柳城の烏丸が騎兵を出して袁譚を助けようとしました。太祖は、牽招が以前烏丸を率いた経験があるため、彼を柳城に派遣しました。牽招が到着すると、峭王嚴が五千騎を送り、袁譚に加勢しようとしていました。また、遼東太守公孫康が自ら平州牧を称し、使者の韓忠を派遣して、単于の印綬を持たせ、峭王に授けようとしていました。

峭王は羣長たちを集め、韓忠もその場にいました。峭王が牽招に問いかけました。「かつて袁公(袁紹)は天子の命を受け、私を仮の単于に任じたと言った。今、曹公もまた天子に伺って私を真の単于に任じると言っている。遼東からも印綬が送られてきた。どれが正しいのか?」

牽招は答えました。「かつて袁公は制を承けて任命を行うことができました。しかし、その後の違いにより、天子の命により曹公が代わってその任務を行い、天子に伺って真の単于を任じることになるのが正しいのです。遼東の下郡が、どうして勝手に任命を行うことができましょうか?」

すると韓忠が言いました。「我ら遼東は滄海の東に位置し、百万人の兵を擁しています。扶餘や濊貊も我らのために力を尽くしています。現在の勢いにおいては、強者が正義です。曹操はどうして正しいと言えるでしょうか?」

牽招は韓忠を叱りつけて言いました。「曹公は誠実で聡明な方であり、天子を支え、逆賊を討ち、四海を平和にしています。お前の君臣は愚かで横暴であり、今は辺境の利に頼って王命に背き、勝手に任命を行い、神器を侮辱しているのです。お前たちはまさに討たれる運命にある。何を以てして、こんなにも大胆に曹公を侮辱できるのか!」

牽招は韓忠の頭をつかんで地に打ちつけ、刀を抜いて斬り捨てようとしました。峭王は驚いて恐れ、裸足で牽招に抱きつき、韓忠を助けて許しを乞いました。周囲の者たちも顔色を失いました。牽招は席に戻り、峭王たちに成功と失敗、福と禍がどこに帰するかを説きました。彼らは皆、席を下りてひざまずき、敬意をもって教えを受け入れました。そして、遼東の使者を追い返し、送る予定だった騎兵の準備をやめました。

太祖滅譚於南皮,署招軍謀掾,從討烏丸。至柳城,拜護烏丸校尉。還鄴,遼東送袁尚首,縣在馬市,招覩之悲感,設祭頭下。太祖義之,舉為茂才。從平漢中,太祖還,留招為中護軍。事罷,還鄴,拜平虜校尉,將兵督青、徐州郡諸軍事,擊東萊賊,斬其渠率,東土寧靜。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻二十六

太祖が南皮で袁譚を滅ぼした際、牽招を軍謀掾に任じ、烏丸討伐に従軍させました。柳城に至り、護烏丸校尉に任命されました。その後、鄴に戻ったところ、遼東から袁尚の首が送られ、馬市に掲げられていました。牽招はこれを見て悲しみ、首の前で祭を行いました。太祖はその義を評価し、牽招を茂才として推挙しました。

牽招はその後、漢中平定に従い、太祖が帰還すると、牽招は中護軍に任じられました。事が終わると、再び鄴に戻り、平虜校尉に任命され、青州と徐州の諸郡の軍事を監督しました。そして、東萊の賊を討伐し、その首領を斬って東方を平定しました。

文帝踐阼,拜招使持節護鮮卑校尉,屯昌平。是時,邊民流散山澤,又亡叛在鮮卑中者,處有千數。招廣布恩信,招誘降附。建義中郎將公孫集等,率將部曲,咸各歸命;使還本郡。又懷來鮮卑素利、彌加等十餘萬落,皆令款塞。

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文帝が即位すると、牽招は使持節護鮮卑校尉に任じられ、昌平に駐屯しました。この時、辺境の民は山野に流散し、また鮮卑に逃亡した者が千人余りいました。牽招は広く恩信を施し、彼らを招き降伏させました。建義中郎将の公孫集らは率いて部隊を伴い、皆それぞれ帰順して本郡に戻りました。また、鮮卑の素利や彌加など十数万の落(部族)も、皆牽招の働きにより塞を通じて帰順しました。

大軍欲征吳,召招還,至,值軍罷,拜右中郎將,出為雁門太守。郡在邊陲,雖有候望之備,而寇鈔不斷。招既教民戰陳,又表復烏丸五百餘家租調,使備鞍馬,遠遣偵候。虜每犯塞,勒兵逆擊,來輒摧破,於是吏民膽氣日銳,荒野無虞。又搆閒離散,使虜更相猜疑。鮮卑大人步度根、泄歸泥等與軻比能為隙,將部落三萬餘家詣郡附塞。敕令還擊比能,殺比能弟苴羅侯,及叛烏丸歸義侯王同、王寄等,大結怨讎。是以招自出,率將歸泥等討比能於雲中故郡,大破之。招通河西鮮卑附頭等十餘萬家,繕治陘北故上館城,置屯戍以鎮內外,夷虜大小,莫不歸心,諸叛亡雖親戚不敢藏匿,咸悉收送。於是野居晏閉,寇賊靜息。招乃簡選有才識者,詣太學受業,還相授教,數年中庠序大興。郡所治廣武,井水鹹苦,民皆擔輦遠汲流水,往返七里。招準望地勢,因山陵之宜,鑿原開渠,注水城內,民賴其益。

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大軍が呉を討つために出征しようとした際、牽招は召還されましたが、軍が解散した時に到着しました。右中郎将に任じられ、さらに雁門太守に出向しました。雁門郡は辺境に位置し、警戒はされていましたが、寇賊の襲撃は絶えませんでした。牽招はまず民に戦いの陣形を教え、また表を上げて、烏丸の五百余りの家を租税調達の対象に戻し、馬具を備えさせ、遠方に偵察兵を派遣しました。虜が塞を犯すたびに、兵を率いて迎撃し、ことごとく打ち破りました。こうして吏民の士気は日に日に高まり、荒野でも不安がなくなりました。また、諸部族間に疑心を起こさせ、互いに対立させました。鮮卑の大人である歩度根、泄帰泥らが軻比能と不和になり、三万余りの部落を率いて郡に詣で、塞に帰順しました。これに命じて軻比能を攻撃させ、比能の弟である苴羅侯や、叛逆していた烏丸の帰義侯王同、王寄らを殺し、深い怨讐を生じました。

これにより、牽招自ら出撃し、帰泥らと共に雲中の故郡で軻比能を討ち、大破しました。また、河西の鮮卑の附頭ら十万余りの家を帰順させ、陘北の古い上館城を修理し、屯戍を置いて内外を鎮めました。夷虜は大小問わず皆心を服し、叛逆者や逃亡者は親族ですら隠すことができず、すべて捕らえて送り出しました。これにより辺境は平和になり、寇賊も静まりました。牽招は有能な者を選び出し、太学に送って学問を修めさせ、戻ってから教えを広めました。数年の間に、郡内の学校制度が大いに発展しました。

また、郡の治所である広武では井戸水が塩辛く、民は遠くの流水を汲むため、七里の道を行き来していました。牽招は地形を見定め、山陵に沿って原を掘り、渠を開いて水を城内に引き込み、民はその恩恵を受けました。

明帝即位,賜爵關內侯。太和二年,護烏丸校尉田豫出塞,為軻比能所圍於故馬邑城,移招求救。招即整勒兵馬,欲赴救豫。并州以常憲禁招,招以為節將見圍,不可拘於吏議,自表輒行。又並馳布羽檄,稱陳形勢,云當西北掩取虜家,然後東行,會誅虜身。檄到,豫軍踴躍。又遺一通於虜蹊要,虜即恐怖,種類離散。軍到故平城,便皆潰走。比能復大合騎來,到故平州塞北。招潛行撲討,大斬首級。招以蜀虜諸葛亮數出,而比能狡猾,能相交通,表為防備,議者以為縣遠,未之信也。會亮時在祁山,果遣使連結比能。比能至故北地石城,與相首尾。帝乃詔招,使從便宜討之。時比能已還漠南,招與刺史畢軌議曰:「胡虜遷徙無常。若勞師遠追,則遲速不相及。若欲潛襲,則山溪艱險,資糧轉運,難以密辦。可使守新興、雁門二牙門,出屯陘北,外以鎮撫,內令兵田,儲畜資糧,秋冬馬肥,州郡兵合,乘釁征討,計必全克。未及施行,會病卒。招在郡十二年,威風遠振。其治邊之稱,次于田豫,百姓追思之。而漁陽傅容在雁門有名績,繼招後,在遼東又有事功云。

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明帝が即位すると、牽招に関内侯の爵位を賜りました。太和二年(228年)、護烏丸校尉の田豫が塞外に出て、軻比能によって故馬邑城で包囲され、救援を求める使者を送りました。牽招は即座に兵馬を整えて、救援に向かおうとしましたが、并州の常例によって行動が制限されていました。牽招は、節将が包囲されている状況では、官吏の議論に拘束されるべきではないと考え、自ら上表して出陣しました。

さらに羽檄を発して形勢を伝え、「まず西北を攻撃し、虜の本拠を掩う。その後、東に進軍して虜を討つ」と宣言しました。この檄文が届くと、田豫の軍は士気を高めました。また、虜の経路にも同じ檄文を送りつけ、敵を恐怖させ、虜の種類が分散しました。牽招の軍が故平城に到着すると、敵は潰走しましたが、比能は再び騎兵を集め、故平州の塞北に到達しました。牽招は密かに進軍し、敵を討伐し、多くの首級を斬りました。

牽招は、蜀の諸葛亮が度々出兵しており、比能が狡猾に連携していることを憂慮し、防備の必要性を上表しました。しかし、議論する者たちは県が遠いことを理由にその信憑性を疑っていました。その後、実際に諸葛亮が祁山に進軍し、比能との連携が明らかになりました。比能は故北地の石城に到達し、諸葛亮と連携しました。これにより、帝は牽招に便宜に従って討伐するよう詔を下しました。

その時、比能はすでに漠南に戻っており、牽招は刺史の畢軌と議論しました。「胡虜は移動が定まらず、遠くまで追撃しても間に合わない。密かに奇襲を仕掛けても、山や川が障害となり、物資の補給も困難です。新興や雁門の牙門に守備兵を置き、陘北に屯して外は鎮撫し、内では兵士に農耕をさせ、秋冬に馬が肥えた時に州郡の兵を合わせて攻撃すれば、必ず勝利するでしょう。」この計画が施行される前に、牽招は病にかかり亡くなりました。

牽招は郡に十二年間在任し、その威風は遠くまで広まりました。彼の辺境統治の評判は田豫に次ぎ、百姓は彼を追慕しました。また、漁陽の傅容は雁門で名を成し、牽招の後を継いで遼東でも功績を挙げたとされています。

招子嘉嗣。次子弘,亦猛毅有招風,以隴西太守隨鄧艾伐蜀有功,咸熙中為振威護軍。嘉與晉司徒李胤同母,早卒。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻二十六

牽招の子である牽嘉が後を継ぎました。次男の牽弘もまた、猛毅な性格であり、父の牽招の風格を受け継ぎました。牽弘は隴西太守として鄧艾に従い蜀を討伐し、功績を挙げました。咸熙年間(264-265年)には振威護軍に任じられました。牽嘉は晋の司徒である李胤と同母兄弟でしたが、早くに亡くなりました。

郭淮

郭淮字伯濟,太原陽曲人也。建安中舉孝廉,除平原府丞。文帝為五官將,召淮署為門下賊曹,轉為丞相兵曹議令史,從征漢中。太祖還,留征西將軍夏侯淵拒劉備,以淮為淵司馬。淵與備戰,淮時有疾不出。淵遇害,軍中擾擾,淮收散卒,推盪寇將軍張郃為軍主,諸營乃定。其明日,備欲渡漢水來攻。諸將議眾寡不敵,備便乘勝,欲依水為陳以拒之。淮曰:「此示弱而不足挫敵,非算也。不如遠水為陳,引而致之,半濟而後擊,備可破也。」既陳,備疑不渡,淮遂堅守,示無還心。以狀聞,太祖善之,假郃節,復以淮為司馬。文帝即王位,賜爵關內侯,轉為鎮西長史。又行征羌護軍,護左將軍張郃、冠軍將軍楊秋討山賊鄭甘、盧水叛胡,皆破平之。關中始定,民得安業。

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郭淮は字を伯済といい、太原郡陽曲の人です。建安年間に孝廉に推挙され、平原府の丞に任命されました。文帝が五官将であったとき、郭淮は召されて門下賊曹に任じられ、続いて丞相兵曹議令史に転任しました。漢中征伐に従軍し、太祖(曹操)が帰還する際、征西将軍の夏侯淵に劉備を防がせ、郭淮は淵の司馬となりました。

夏侯淵が劉備と戦っている間、郭淮は病のため出陣できませんでしたが、淵が戦死した後、軍は混乱しました。郭淮は散らばった兵士を収集し、盪寇将軍の張郃を軍主に推挙して軍を安定させました。翌日、劉備が漢水を渡って攻撃しようとしたとき、諸将は兵力の少なさを恐れて川沿いに陣を張ろうと提案しましたが、郭淮は「これでは敵に弱さを見せてしまい、戦略的ではない」と反対し、川から離れて陣を張り、敵を引き寄せて半数が渡りきったところで攻撃すべきだと進言しました。その結果、劉備は渡ることを疑い、攻撃を控えました。郭淮は堅く守備を続け、撤退する気配を見せませんでした。

この報告を受けた太祖は郭淮の功績を称賛し、張郃に節を授け、郭淮も司馬として復帰しました。文帝が王位につくと、郭淮は関内侯の爵位を与えられ、さらに鎮西長史に転任しました。その後、征羌護軍に任命され、左将軍の張郃や冠軍将軍の楊秋とともに、山賊の鄭甘や盧水の反乱を起こした胡族を討ち、これらを全て平定しました。これにより、関中の地域は安定し、民衆は安心して生活することができました。

黃初元年,奉使賀文帝踐阼,而道路得疾,故計遠近為稽留。及羣臣歡會,帝正色責之曰:「昔禹會諸侯於塗山,防風後至,便行大戮。今溥天同慶而卿最留遲,何也?」淮對曰:「臣聞五帝先教導民以德,夏后政衰,始用刑辟。今臣遭唐虞之世,是以自知免於防風之誅也。」帝悅之,擢領雍州刺史,封射陽亭侯,五年為真。安定羌大帥辟蹏反,討破降之。每羌、胡來降,淮輒先使人推問其親理,男女多少,年歲長幼;及見,一二知其款曲,訊問周至,咸稱神明。

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黄初元年(220年)、郭淮は文帝即位を祝賀するための使者を務めましたが、道中で病気にかかり、予定より遅れて到着しました。群臣が集まって祝賀の宴が開かれた際、文帝は厳しい顔で郭淮を責めました。「かつて禹が諸侯を会合させたとき、防風氏が遅れて到着し、即座に厳しい罰を受けた。今、天下が共に喜んでいるというのに、お前だけが遅れたのはなぜか?」と詰問されました。郭淮はこれに対し、「私は五帝が徳をもって民を教化した時代のことを聞いております。夏后の時代に政が衰えたときに初めて刑罰が用いられました。今、私は唐虞のような聖世に仕えているので、防風氏のような処罰を免れるだろうと存じます」と答えました。この答えに文帝は喜び、郭淮を雍州刺史に任命し、射陽亭侯に封じました。五年後に正式にその地位に就任しました。

その後、安定の羌族の大帥辟蹏が反乱を起こしましたが、郭淮はこれを討伐し、降伏させました。羌や胡が降伏してくるたびに、郭淮はまずその親族関係、家族の人数、年齢などを詳しく調査させてから面会し、彼らの状況や心情を細かに尋ねました。これにより、郭淮の対応は神妙であると称賛されました。

太和二年,蜀相諸葛亮出祁山,遣將軍馬謖至街亭,高詳屯列柳城。張郃擊謖,淮攻詳營,皆破之。又破隴西名羌唐蹏於枹罕,加建威將軍。五年,蜀出鹵城。是時,隴右無穀,議欲關中大運,淮以威恩撫循羌、胡,家使出穀,平其輸調,軍食用足,轉揚武將軍。青龍二年,諸葛亮出斜谷,並田于蘭坑。是時司馬宣王屯渭南;淮策亮必爭北原,宜先據之,議者多謂不然。淮曰:「若亮跨渭登原,連兵北山,隔絕隴道,搖蕩民、夷,此非國之利也。」宣王善之,淮遂屯北原。塹壘未成,蜀兵大至,淮逆擊之。後數日,亮盛兵西行,諸將皆謂欲攻西圍,淮獨以為此見形於西,欲使官兵重應之,必攻陽遂耳。其夜果攻陽遂,有備不得上。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻二十六

太和二年(228年)、蜀の丞相諸葛亮が祁山に進出し、将軍馬謖を街亭に派遣し、高詳は柳城に駐屯しました。張郃が馬謖を攻撃し、郭淮は高詳の陣営を攻め、いずれも破りました。また、隴西の羌族の名将唐蹏を枹罕で討ち破り、建威将軍に任命されました。太和五年(231年)、蜀軍が鹵城に出撃しました。当時、隴右では穀物が不足しており、関中から大規模な輸送を検討していましたが、郭淮は威信をもって羌や胡を抑え、彼らに穀物を提供させ、その輸送を平等に調整して軍の食糧を充足させました。これにより、揚武将軍に昇進しました。

青龍二年(234年)、諸葛亮が斜谷から出撃し、蘭坑で兵を耕作させました。当時、司馬宣王(司馬懿)は渭南に駐屯しており、郭淮は諸葛亮が北原を奪取しようとするだろうと予測し、先にこれを占拠すべきだと進言しました。多くの者は反対しましたが、郭淮は「もし亮が渭水を越えて北原に上り、北山で兵を連結させれば、隴道が遮断され、民や夷が動揺し、国家に不利益をもたらします」と主張しました。司馬宣王はこれを良しとし、郭淮は北原に駐屯しました。郭淮が築いた塹壕がまだ完成しないうちに、蜀軍が大挙して到来し、郭淮はこれを迎撃しました。

数日後、諸葛亮は大軍をもって西へ進軍しました。諸将は西の包囲を攻撃しようとしていると考えましたが、郭淮は「これは見せかけであり、官軍がこれに重応することを狙っているに過ぎない。実際には陽遂を攻撃するだろう」と予測しました。その夜、諸葛亮は果たして陽遂を攻撃しましたが、郭淮が既に備えをしていたため、攻めきれませんでした。

正始元年,蜀將羌維出隴西。淮遂進軍,追至彊中,維退,遂討羌迷當等,按撫柔氐三千餘落,拔徙以實關中。遷左將軍。涼州休屠胡梁元碧等,率種落二千餘家附雍州。淮奏請使居安定之高平,為民保障,其後因置(西川)〔西州〕都尉。轉拜前將軍,領州如故。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻二十六

正始元年(240年)、蜀の将軍羌維が隴西に侵攻しましたが、郭淮は軍を進めて彊中まで追撃し、羌維は退却しました。その後、郭淮は羌族の迷当らを討ち、柔服させた氐族の三千余りの落(集落)を関中に移して安定させました。この功績により、左将軍に昇進しました。

また、涼州の休屠胡である梁元碧らが、二千余りの家族を率いて雍州に帰順しました。郭淮は彼らを安定郡の高平に居住させて民の保護とし、その後、西州都尉を置くよう奏請しました。その後、前将軍に転任され、以前と同様に州の統治を任されました。

五年,夏侯玄伐蜀,淮督諸軍為前鋒。淮度勢不利,輒拔軍出,故不大敗。還假淮節。八年,隴西、南安、金城、西平諸羌餓何、燒戈、伐同、蛾遮塞等相結叛亂,攻圍城邑,南招蜀兵,涼州名胡治無戴復叛應之。討蜀護軍夏侯霸督諸軍屯為翅。淮軍始到狄道,議者僉謂宜先討定枹罕,內平惡羌,外折賊謀。淮策維必來攻霸,遂入渢中,轉南迎霸。維果攻為翅,會淮軍適至,維遁退。進討叛羌,斬餓何、燒戈,降服者萬餘落。九年,遮塞等屯河關、白土故城,據河拒軍。淮見形上流,密於下渡兵據白土城,擊,大破之。治無戴圍武威,家屬留在西海。淮進軍趨西海,欲掩取其累重,會無戴折還,與戰於龍夷之北,破走之。令居惡虜在石頭山之西,當大道止,斷絕王使。淮還過討,大破之。姜維出石營,從彊川,乃西迎治無戴,留陰平太守廖化於成重山築城,斂破羌保質。淮欲分兵取之。諸將以維眾西接彊胡,化以據險,分軍兩持,兵勢轉弱,進不制維,退不拔化,非計也,不如合而俱西,及胡、蜀未接,絕其內外,此伐交之兵也。淮曰:「今往取化,出賊不意,維必狼顧。比維自致,足以定化,且使維疲於奔命。兵不遠西,而胡交自離,此一舉而兩全之策也。」乃別遣夏侯霸等追維於沓中,淮自率諸軍就攻化等。維果馳還救化,皆如淮計。進封都鄉侯。

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正始五年(244年)、夏侯玄が蜀を討伐する際、郭淮は諸軍を指揮し、前鋒として出陣しました。しかし郭淮は、形勢が不利であると判断し、即座に軍を撤退させたため、大敗は免れました。この功績により、帰還後に郭淮は節を授けられました。

正始八年(247年)、隴西、南安、金城、西平の各地で、羌族の餓何、焼戈、伐同、蛾遮塞らが結託して反乱を起こし、城邑を攻囲し、南方で蜀軍と連携しました。さらに、涼州の名胡である治無戴も反乱に加わりました。討蜀護軍の夏侯覇が諸軍を率いて翅の地に駐屯している時、郭淮は狄道に軍を進めました。多くの者がまず枹罕を平定し、内で悪しき羌族を鎮圧してから外で賊軍を撃退すべきだと議論しましたが、郭淮は姜維が必ず夏侯覇を攻撃すると予測し、渢中に進軍して南方で夏侯覇を迎えました。果たして姜維は翅を攻撃し、郭淮の軍が到着すると退却しました。郭淮は続けて叛羌を討伐し、餓何と焼戈を斬り、降伏した者は一万余りの落(集落)に上りました。

正始九年(248年)、蛾遮塞らは河関と白土の故城に陣を敷き、河を頼りに軍に対抗しました。郭淮は上流で動きを見せ、密かに下流で渡河し、白土城を占領して大破しました。治無戴は武威を包囲し、その家族を西海に留めていましたが、郭淮は西海に向かい、その荷物を奪おうとしました。治無戴は帰還し、龍夷の北で郭淮と戦いましたが敗走しました。また、郭淮は石頭山の西にいる敵を討ち、王朝への使者を阻んでいた賊を大破しました。

この時、姜維は石営を出発し、彊川を通って西方に向かい、治無戴を迎え入れようとしていました。また、陰平太守の廖化が成重山で城を築き、羌族の破羌を保護していました。郭淮は軍を分けて廖化を攻撃しようとしましたが、諸将は姜維が胡族と連携しており、廖化が険阻な地に陣取っているため、軍を分けて戦うのは不利であると考え、全軍で西進し、蜀と胡の連携を断つべきだと主張しました。これに対し、郭淮は「今廖化を攻めれば、敵の意表を突くことができ、姜維は急ぎ救援に戻るだろう。姜維が到着するまでに廖化を討ち、さらに姜維を疲弊させることができる。兵を遠く西へ送り出すことなく、胡と蜀の連携を断つことができるのは、一挙両得の策である」と述べ、夏侯覇らを別に派遣して沓中で姜維を追撃し、自らは廖化を攻撃しました。郭淮の予測通り、姜維は救援に戻り、計画は成功しました。この功績により、郭淮は都鄉侯に進封されました。

嘉平元年,遷征西將軍,都督雍、涼諸軍事。是歲,與雍州刺史陳泰協策,降蜀牙門將句安等於翅上。二年,詔曰:「昔漢川之役,幾至傾覆。淮臨危濟難,功書王府。在關右三十餘年,外征寇虜,內綏民夷。比歲以來,摧破廖化,禽虜句安,功績顯著,朕甚嘉之。今以淮為車騎將軍、儀同三司,持節、都督如故。」進封陽曲侯,邑凡二千七百八十戶,分三百戶,封一子亭侯。正元二年薨,追贈大將軍,諡曰貞侯。子統嗣。統官至荊州刺史,薨。子正嗣。咸熙中,開建五等,以淮著勳前朝,改封汾陽子。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻二十六

嘉平元年(249年)、郭淮は征西将軍に昇進し、雍州・涼州の諸軍を都督しました。この年、郭淮は雍州刺史の陳泰と協力して、蜀の牙門将句安らを翅上で降伏させました。嘉平二年(250年)、詔が下り、次のように述べられました:「かつて漢川の戦いでは危機に瀕し、郭淮は臨機応変に対処し、難を救った。その功績は王府に記されるべきものである。郭淮は関中に三十年以上在職し、外では寇虜を征討し、内では民夷を安定させた。近年では廖化を撃破し、句安を捕虜とするなど、功績は顕著であり、朕はこれを非常に嘉する。今、郭淮を車騎将軍・儀同三司に任命し、引き続き節を持ち、都督の職を維持させる。」これにより郭淮は陽曲侯に進封され、その領地は合計で二千七百八十戸となり、そのうち三百戸が分割されて一子が亭侯に封ぜられました。

正元二年(255年)に郭淮は死去し、大将軍を追贈され、諡号を貞侯とされました。子の郭統が後を嗣ぎ、荊州刺史にまで昇進しましたが、後に郭統も亡くなり、その子の郭正が跡を継ぎました。咸熙年間に、郭淮の前朝における功績が評価され、汾陽子に改封されました。

評(陳寿の評)

評曰:滿寵立志剛毅,勇而有謀。田豫居身清白,規略明練。牽招秉義壯烈,威績顯著。郭淮方策精詳,垂問秦、雍。而豫位止小州,招終於郡守,未盡其用也。

中央研究院・歴史語言研究所『漢籍全文資料庫』三国志 巻二十六

評して言います。満寵は志を立てて剛毅であり、勇気がありながらも謀略を兼ね備えていました。田豫は身を清廉潔白に保ち、規律と策略に明るく練達していました。牽招は義を貫き壮烈であり、その威績は顕著でした。郭淮は方策において精密かつ詳しい計画を立て、秦や雍州にその名声をとどろかせました。しかしながら、田豫は小州の役職にとどまり、牽招は郡守でその生涯を終え、彼らはその才能を十分に発揮しきることができませんでした。



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