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じぶんを罰さない

30代、文を書くことに打ち込んでいた私が直面したのは「いい文が 書けるようになってきても、いい人に なれるわけじゃない」、という事実でした。

そして、じぶんの書くものを磨いていく過程で  めちゃめちゃに消耗してしまい、日常生活に支障がおきることに困っていました。

つまり 私は、せのびした文体を手に入れようとして、実力以上の無理をしていたんです。もちろん、そんな時期もあっていい。集中してなにかに習熟しようとすることは、すごく面白いし、いい。

だけど、もっと  私らしい生活や  ふだんの暮らしのことばで、ふつうに綴ったぜんぜん おもしろくないものを書きたくなった。じぶんの、そこ(ふつう)を  好きになりたくなった。

おもしろがりたくなった。

私は、過去に  身の丈をこえて難しいまま読みすすめたものや  寄りかかりすぎて体に入ってしまったような言い回しから、自由になりたくなったんです。だって、私の解釈はすごくせまくて、いっぱい勘違いをしつづけてきてるって、わかってしまったから。

もっと もっと読める余地に、気づいてさえいないことに  気がついたから。

以前より、少しずつ ととのった文が書けるようになっても、なかみは なかなか育ちません。たとえば筆か、ふだん読むものがいいだけです。だから、ちゃんと  自分に正直な  伝わりやすい ことばづかいをしたいと願います。

note「かくしているコワイ自分」から


そんな勘違いにも 正直になって、新しい発見をよろこべたり。知らなかったじぶんをみとめて 一歩すすんだり。

もう そうしても、いいかなって、この頃思えてきたんです。

それは、note が  とてもおもしろかったからです。

私がぐっとくるとき、思わず 声をかけたり  手をさしのべたり、教えを乞いたくなるときにふれる 針みたいなものは、とてもシンプルで  とがっていなくて、たくさんの人と似ていました。

だから、たくさんの人に声をかけることができて、たくさんの人から 声をかけてもらえました。


たぶん、私は これから  あまりじぶんを罰さなくなっていくでしょう。

自罰は、ある視点を不当に偏らせることになったり、特定の感情を無視していくことにも つながりかねないからです。

きょうは、じぶんに正直に、理屈をやってみました。私は、理屈っぽいじぶんもゆるしてみます。じつは、そんな私を好きでいることを みとめます。
(〃▽〃)


高校生の頃に読んだシナリオに、和田誠さんが書かれた『麻雀放浪記』があります。そこにでてくる台詞「若いもんが理屈やらなくて誰がやるのよ」に、当時  しびれました。

何年かして、ようやくレンタルビデオ屋さんで借りて映画を鑑賞すると、加賀まりこさんが  真田広之さん演じる〈坊や哲〉に言う その台詞は、私の思いよりも サラっとしていたけれど、やっぱり  しびれました。

わたしの未熟や偏りを、私は愛すし、ときに それを隠します。それは、たぶん「知的所有権」ということではありません。法律事務所に11年勤めましたけれど、いまの私はそう感じます。

私はそれを、含羞とか  はにかみとよびたいし、70や80の歳をかぞえるとき、それが  いろけに育ってるんなら  最高だと思います。


やっぱり、せいのびしてますよね。
かっこつけて  ゴメンなさい。

50なかばの、おとしごろです。



みんなのフォトギャラリーより
うりぼうさんの写真を お借りしました。

うりぼうさん、ありがとうございます!