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2024年7月26日、親父が享年75歳で他界しました。

生前、親父がお世話になった方々にきちんとご報告できず、大変失礼いたしました。7月30日と31日に通夜、告別式を無事に終えることができました。

また、バタバタしており、仕事やサッカーの関係者の方々にもご迷惑をおかけして申し訳ございません。

親父の他界。まだ現実をしっかりと受け入れられていません。WEB上で何かを発信すべきか迷いましたが、今の感情を後世の自分に向けても残すべきだと思い、NOTEにまとめたいと思います。

根岸家は男三兄弟、私は三男として、厳格、いや理不尽とも言える親父に本当に厳しく育てられました。幼い頃はとにかく怖い存在で、親父自身も『厳父慈母』という言葉をよく口にしており、厳しい親父であり続けることを誇りにしていたように思います。

親父を含めて、サッカーファミリーだった根岸家。親父との対話はサッカーという媒体を通じてしかあまりなかったように思います。それも決して楽しい話題ではなく、厳しい指導や叱責であり、小学生時代は親父が練習や試合に来ないことを祈る毎日でした。また、自分の子供のみならず、私のチームメイトや友人にも厳しく、近所では有名なうるさい親父だったのではないかと思います。

そんな親父の厳しさが、三兄弟の結束を高め、三人とも道は違えど、それぞれ全うしてここまで生きてこられたのは親父の厳しさ故だと思います。

高度経済成長期、バブル期、そしてバブル崩壊期を大手ゼネコンで営業部長として戦っていた親父。毎晩、銀座で接待をし、深夜にタクシーで帰宅して、二日酔いの中、満員電車で通勤し、土日はゴルフ接待・・・当時のビジネスマンを絵に描いたような仕事ぶりだったと記憶しています。

ゼネコン退職後は、第二の人生として仏門に入り、59歳で福井県の永平寺に1年間の修行をした後、晩年は僧侶として仕事・生活をしておりました。しかしながら、この10年間は、肺炎、咽頭がん、膀胱がん、肺がんといった病に見舞われ、手術や入退院を繰り返し、僧侶の仕事も満足にできない状態でした。

厳しい親父だったので親と子の距離感みたいなものが難しかったのですが、親父にとって初孫が生まれてからここ15年、総勢9人の孫に恵まれてからは最も幸せな期間だったかもしれません。

厳しい一方で、子供たちがやりたいことや方向性に関しては否定せず、背中を押してくれた親父。私が創業したばかりのベンチャー企業に転職する際にも、詳しいことを聞かれずに、『やるだけやってみろ』とエールをもらったことを鮮明に覚えています。

根岸家の先祖には、江戸時代に一代で財を成した起業家のご先祖様がいるようで、親父が酒を飲むたびに家訓の如く、その方の成功談を聞かされました。

『約束をしたら必ず約束を守る。
 守るのは当たり前で、その約束以上のことをする。

 お金を借りたら、返済日の一週間前に返済する。
 仕事を受けたら、納期の一週間前に完了する。
 
 それを繰り返していれば、その姿勢が信頼を生み、多くの人を集めて、
 大きなことを成しえる。それが人生の財産になる。』

そんな話だったと記憶しています。幼い頃から耳に胼胝ができるほど聞かされてきた話ですが、これが今の私の会社の凡事徹底という行動指針に実は繋がっています。

葬儀にあたって、過去の写真を色々整理してみると、厳しいだけの親父だと思っていたのですが、結構、父親らしい一面が見られ、親父の子供に対する不器用な愛情みたいなものが今になって感じられます。

この10年間の闘病の中でも、愚痴や弱音を息子たちに一切見せなかった親父。幼少時代の親父よりも今の自分の方が年を取りましたが、やはり親父は今でも怖くて強い存在です。

怖くて、厳しくて、強くて、不器用だった親父。その存在が、何かを決断するときに、人の道を外れず、正しい決断をする軸になっています。

怒られて、何度も『ごめんなさい』は伝えてきましたが、照れくさくて、『ありがとう』は言う機会がありませんでした。最後の最後の他界する前日に病床で『親父今までありがとう』と伝えることができました。

親父、75年間お疲れ様でした。これからも家族を見守ってください。

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