私が考えるシャニマスの魅力はただ一つ
シャニマス5周年おめでとうございます。
栄枯盛衰の激しいソシャゲ界隈で、ここまで長く続けられるのは決して当然のことではなく、シャニマスを作り上げている方々の尽力の賜物であると思います。
魅力あるゲームを提供してくださり、ありがとうございます。
さて今回は、祝シャニマス5周年を記念すべくシャニマス公式Twitterが企画する「#シャニマスつくってみた」に合わせ記事を書きました。
普段からシャニマスをプレーするなかで言語化していなかった思考をまとめることで、自分の中のシャニマスという存在を改めて見直したいと思います。
シャニマスの魅力とは?
一般的にシャニマスの魅力として挙げられるのは次のようなものではないでしょうか。
”解像度”が高いと評され、心を打つシナリオ。
美麗かつ柔らかな印象を持ち、アニメーション技術も駆使されたイラスト。
2.5次元世界とも合わせ、作品の世界を拡張してくれるオリジナル楽曲。
これらは非常に魅力的で、私自身最初はこれらに惹かれてシャニマスを始めました。
一方で、これらの要素が他の作品、特にソシャゲで味わえないかといえば、そうではないわけです。
シナリオを売りにし、実際に高く評価されているソシャゲも世界には数多あります。イラストや音楽に関しても同様です。
そもそもどのようなシナリオが良いか、どのようなイラストが美しいか、どのような音楽が聴き心地が良いか、それらは個人の主観でしかなく、絶対的な正解はありません。
私もSNSなどで「この作品のストーリーが良い」とか「このキャラが面白い」という他の人の発信を見ると、気になってよく調べています。
であればその他ソシャゲをプレーしてもおかしくありませんが、実際のところその多くをプレーしない、もしくはプレーしてもすぐに止めてしまいます。
なぜでしょうか?
ソシャゲとPCゲーとアケゲーと
私はかなり重度なゲーマーです。
現在、私は高い機材費を払って高負荷なPCゲームが快適にできる環境を整えております。
そのうえゲームセンターに近い場所に住んでおり比較的アクセスしやすい状況です。
そしてなにより面白いゲームをプレーしたいという熱量があります。
つまり、私にとってソシャゲをプレーすることは、毎月のようにリリースされるAAAクラスのコンシューマーゲームや有名アーケードゲームと比較して面白いことでなければならないのです。
もちろん価値観は人それぞれではありますが、ソシャゲとそれら本格ゲームと比較したときに、ゲームとして面白いとされるのは後者が多いのではないかと思います。
そして私もそう思っています。ですから基本的にはソシャゲはプレーしていません。
ソシャゲの魅力からゲーム的な面白さを抜きにするとシナリオであったり、イラストであったり、音楽であったりと様々な面があります。
しかし、それらに関しても世には溢れんばかりに小説漫画アニメ映画その他たくさんのエンタメがあるわけで。
あえてソシャゲをプレーするには、多くのエンタメと比較して、そのソシャゲにしかない魅力が必要になると感じています。
ゲームとプレーヤーとの距離
そうして多くのソシャゲを見送る一方で、シャニマスはそうではありませんでした。
なぜなら私は、シャニマスが「主人公とプレーヤーに距離を開けている」と感じているからです。
これは私が好む物語の読み方に抵抗なく合致し、ゲームの世界に触れる際の潤滑となってくれています。
私は割と物語や世界観を重視してエンタメを楽しんでいるのですが、その際にできるだけ私自身がその世界に関わることは避ける傾向があります。
なぜ避ける傾向があるかは私自身あまりはっきりしないのですが、
私という不純物が混ざることが良くない
そもそも私が生きる現実とその世界は全く違うものであるから分けて考えるべきである
可能な限り客観的な考察をすることが作品を理解するためのカギである
ということなどを無意識に感じているのではないかと考えています。
この傾向は少なくない数のソシャゲのエンタメ性と相性が悪いと感じています。
SNSで私が見かけるストーリーのあるソシャゲでは、作中の物語を読む際に主人公の台詞を選択できる場面があります。
これによりプレーヤーと物語の主人公との距離を近づけさせ、物語への没入感を増幅させているものと考えられます。
また、プレーヤーの性別が選択可能、もしくは明言されていないことも多々あるかと思います。
これもプレーヤーと主人公との距離を近づける方法の一つだと考えられます。
一方で、私のように物語への参加を極力避けたいと考えた時に、これらは良くない方向で作用してしまいます。
主人公と私自身は、できる限り切り離しておきたいのです。
人=言語を操る生き物である
では、シャニマスはどうでしょうか。
確かに台詞の選択などはありますが、少し性質のことなっていると感じています。
その根底にあるものが
「人間は考える葦である」
という考え方で、この記事で最も重要なところです。
人は言語を操ることで概念を理解し、思考することができます。
創作上のキャラクターは当然、現実世界の人とは違う存在ですが、紙面や画面で私たちに語りかけてくることで、まるで人であるかのように感じさせてくれます。
このとき、シャニマスの「主人公の台詞の量」、その多さが極めて重要な役割を果たしているのです。
まず、物語上にほとんど自由な台詞がなく、プレーヤーの選択によってしか語ることのできない主人公は非人間的な部分が多いように感じます。
その一方で物語上でプレーヤーの意志と関係なく台詞を喋り、自らの考えをプレーヤーに伝えるシャニマスの主人公は、比較的人間らしく振る舞っているように感じます。
形式上、ゲーム制作者に操作キャラとして提供される主人公のうち、非人間的な部分が多い主人公はプレーヤーの手足の代わりであり、その世界に直接触れるための助けとなります。
逆に人間らしく振る舞っている主人公は、プレーヤーと主人公とは別の人間であることを強調し、物語を俯瞰してその世界全体を理解する助けとなります。
私が物語と自分自身との距離を切り離しておきたいということは前述の通りです。
それを踏まえると、主人公の台詞の量が多いことは、シャニマスが私にとって魅力的であるということの大きな要因であると考えられます。
結論
つまり私にとって、シャニマスの魅力はただ一つで、
それは
「主人公のセリフの量の多さ」
というわけです。
もちろんシナリオの傾向やイラストの好みが合致しているのも理由の一つではあります。
しかし定量的に測れるものを指標にする方が他と比較する際に説得力を持つと考え、あえてこの一つに絞りました。
他との差が大きいので分かりやすいという面もあります。
また、長所があるということは短所もあるということで、セリフの量が多いということは、主人公の言動の管理も必要となってくるというデメリットも発生します。
特に主人公は登場頻度も高いので管理の難しさも課題になるかと思います。
過去を振り返ると、物語主体なゲームで好きなものといえば、「STEINS;GATE」や「WHITE ALBUM2」など、やたら主人公の癖が強い作品を好んでいた気がします。
「メタルギアソリッド」シリーズも好きなのですが、これもある意味物語主体なゲームかもしれません。
社会人となり自由な時間が減ったことで、メインとしてガッツリ系のゲームをプレーしていると、そちらにどうしても時間を取られてしまい、学生の頃のようにはゲームができなくなっている現状があります。
そうした状況においてシャニマスはソシャゲの手軽さという特徴と物語の距離感が比較的遠いという特徴が合わさり、私にとって心地良く、プレーしやすいゲームなのだと思います。
補足
物語主体のゲームに関しては距離を保ちたいと思っていますが、すべてのゲームでそうであるということではありません。
サンドボックス系のゲームであったり、アクション主体のゲームでは武器や防具にこだわったり、自分らしさを追求するのも楽しかったりします。
加えてゲームの楽しみ方はその日の気分によっても変わりますし、遊び方に制限がないのがゲームの良さの一つだと思います。
終わり
記事を読んでいただきありがとうございました。
言葉の定義もふわふわな雑記事ですが、このような答えのない問を考えるのは好きなので、今後もっと地に足のついた内容に改善したいと考えています。
何年かかるかわかりませんが、ゲーム好きとして生まれたからには避けられない命題だと思っています。
少しでも読んでいただいた方を刺激できていれば嬉しいです。
良きゲームライフを!