
水の月コーヒー店 上弦の月編〈短編小説〉
「今日は本当にありがとうございましたーー!!」
歓声の中、ステージを降りる。
楽屋へ戻る途中「いやぁ、今日のライブ本当最高だったな!」メンバーみんなが興奮しながら口々に言う。「打ち上げ行こうぜ!」
「ごめん。俺は帰るわ。」「そっか。じゃまた今度な。」
俺はライブハウスを後にした。
夜の帳がゆっくりと街に降りていた。
煌煌と星が輝き、街灯の光が静かにそれを照らしている。その光に包まれながら、空を見上げ独り呟く。
「なんか違うんだよな・・・。」
俺のバンドはインディーズだが、毎回ライブに来てくれる熱狂的なファンも少なからずいる。ありがたいと思っているし、感謝しても感謝しきれない。これは本心だ。
だけど最近、どこか満たされない虚しさを感じていた。
「もっと深く表現できるような・・・。新しいなにか・・・。」
そんな事を考えながら路地を歩いていると、ランプに照らされる、レンが調の建物が目に止まる。
入り口横の窓からそっと中を覗くと、店内は少し暗いが各テーブルに置かれたランプの光がゆらゆらと揺れながら優しく灯っていた。
「喫茶店?バー?入ってみるか。」
俺はドアを開け中に入った。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ。」
カウンターにいた白髪交じりのマスターらしき男性が言う。
俺は一番奥の壁際の席へ座り、メニューを手にした。
パラパラとめくり喫茶店だと確認し、マスターらしき男性に無難に
"本日のコーヒー"を注文した。
しばらくすると、店内にコーヒーの香りが漂う。
「お待たせ致しました。本日のコーヒー"弓張月"でございます。」
置かれたカップを見ると、三日月の形にスライスされたレモンが浮かんでいる。
「・・・。」
自分がどんな顔をしていたのか想像はつく。
「意外とファンが多いんですよ。」
微笑みながらマスターらしき男性が言う。
とりあえず一口飲んでみる。・・・微妙だ。
だけど不思議とハマる味。
「どうですか?」
「意外と好きな味かも知れないです。」
「最初は皆さん同じ顔をされますが、新しい味だとおっしゃる方が多いんです。ごゆっくりお楽しみ下さい。」そう言ってマスターらしき男性はカウンターに戻っていった。
「新しい味・・・か。」頭から離れず、言葉を反芻しながらレモンが浮かぶコーヒーを飲み干した。
「ご馳走様でした。」立ち上がりカウンターへ向かう。
マスターらしき男性は、カウンター後ろのドアを開け、「出口はこちらです。」と手で俺を誘導する。
ドアをくぐり外に出ると
「・・・。」
目の前には見たことのない海が目の前に広がっていた。
穏やかな海。波一つない水面。
「どうなってるんだ?」慌てて後ろを振り返る。が、店のドアはなかった。
「こんばんは!」
突然声をかけられ、慌てて振り返る。
そこには、綺麗な金色の瞳の男性が微笑みながら立っていた。反射的に
「こんばんは。」と答えていた。
「あの・・・ここは何処ですか?」
「ここは、水の月コーヒー店の入り口ですよ。」金色の瞳の男性が、さも当たり前の様に言う。
「水の月コーヒー店?」どう見ても、海辺だ。
「ほら、あそこにお店があるでしょ?」
男性が指差す方に視線を移す。
すると、波一つない穏やかな水面に、テーブルセットと小さいカウンターが見える。
見間違いかと思い、目を擦る。
「あはは。何度擦っても変わりませんよ」金色の瞳の男性は笑っている。
「すみません。皆さんびっくりされるけど、驚き方が皆さん違うもので。面白いなと。」そう言った後、改まった顔で
「僕は水の月コーヒー店バリスタの満月と言います。お席へご案内致します。」
そう言うと、満月と名乗る男性は俺の手を取り水面を走り出した。
「!?」
水面には波紋が広がっているが、足が水につく事はない。不思議だ。
「どうぞこちらへ。」
満月の声がし、ゆっくり辺りを見渡す。
上を見ると、綺麗な弓張月が夜空に浮かんでいる。
水面には、その月が反転して映っている。
「お席へどうぞ。」
満月に促され、恐る恐る座る。
夢なのだろうか・・・。俺が心の中で呟く。
小さなカウンターに立っている満月が、心の中を読んだかのように
「夢かもしれないし、現実かもしれない。それはあなた次第ですね。」と言った。
「それは、どう言う意味だ?」
「今お飲み物を準備しているので、お待ち下さい。」満月が言う。
聞きたい事はたくさんあるが、とりあえず待とう。何故かそう思った。
待っている間、水の月コーヒー店を見渡す。見れば見るほど不思議な空間だ。
空の月と、水面に写る反転した月が綺麗な一つの大きな円を描いていて、薄い光のベールに包まれた空間になっているのだ。
「どうなってるんだろう?」そんな事を考えていると
「お待たせ致しました。"弦月"コーヒーでございます。」
テーブルに置かれた。
カップを覗くと、ブラックコーヒーに金箔と花と葉っぱが浮かんでいる。
聞きたい事はたくさんある。
だけど、まず俺の目の前の疑問を解決しよう。
「・・・この花と葉っぱは?」
「カモミールとアップルミントです。」
「上弦の月は新しい事に挑戦するのに適した時期。目標に向かって進化を求めるのにちょうどいいんです。スプーンで混ぜてお飲み下さい。」
俺は操られているかのように、スプーンで混ぜていた。
カップの中は、浮かんでいた金箔ががちりばめられ、キラキラした星空の様だった。
星空に花びらと葉っぱが浮かんでいる、不思議な見た目のそのコーヒーを
「いただきます。」一口飲んだ。
コーヒーの苦味の中に、爽やかなリンゴの様な香りが仄かに香る。不思議な組み合わせなのに、落ち着く味だ。
飲み込んだ後、深く深呼吸をするとミントのメンソールがさりげなく感じられる。
「いかがですか?」
「うん。美味しい。俺は好きかも。」俺が答える。
「何か新しい事に挑戦すると言うのは、大変な労力を伴います。でも、試さなければ何も始まらないし、それを、"好きかもしれない"とすら思ってもらえないんですよね。」
満月は続ける。
「あなたが"好きかも"と言ってくれたお陰で、僕もこの"弦月"コーヒーを試してみて良かったです。」
その一言が、俺の背中を強く押し出してくれた気がした。
「今日、ここに来れて良かった。」心の底からそう思った。
コーヒーを一口、また一口と味わいながら飲み干した。
「ご馳走様でした。」
カウンターにいる、満月に
「やっぱり俺、この味、好きです。」
素直な気持ちを伝えた。
「そうですか。何度も好きと言っていただけて僕も嬉しいです。」満月は嬉しそうに微笑みながら言う。
「そうだ。好きって言ってくれたお礼に、良かったらこれ、どうぞ。」
満月が差し出したのは、クラシックの定期演奏会チケットだった。
「行きたかったんですが、用事が出来てしまって。変わりに行きませんか?」
クラシックかぁ・・・。違う音楽に触れてみるのもいいかもな。
俺はそう思い、
「ありがと。行ってみます。」チケットを受け取った。
チケットをポケットにしまった瞬間、急激な眠気に襲われた。
ああ、眠ってしまうと思った時、満月が俺に囁いた。
「あなたが何かに迷った時。夜空を見上げてゆっくりしてみて下さい。
あなたが本当に必要とする時、あなたの前に【水の月コーヒー店】はあります。また近いうちにお会いしましょう。楽しみにお待ちしております。」
はっとして、顔を上げる。
そこは、見慣れたライブハウスの屋上に上がる外階段。
夜空がよく見える、俺のお気に入りの場所に座っていた。
「やっぱり夢だったんだよな。そうだよな。」
立ち上がり伸びをした後、
「さて、帰るか。」俺はポケットに手を突っ込む。
「ん?」何か入っている。取り出し確認する。
クラシックの定期演奏会チケットだ。やっぱり夢じゃなかったんだ!
俺は慌てて日付を確認する。
チケットに書かれていた日付は明日。
『何があっても、この演奏会へ行かなければいけない。』
そんな衝動に駆られながら、俺は家路についた。
お読みいただき、ありがとうございます!