本日の一曲 vol.459 バッドフィンガー 嵐の恋 (Badfinger: No Matter What, 1970)
はじめに
本日は、かつてビートルズのアップル・レコードが売り出した悲劇のバンド、バッドフィンガーをご紹介します。ビートルズのメンバーが曲を提供したり、レコーディングに参加したりと交流が深かったバンドです。
今年2024年、藤本国彦さん編集の本も出版されました。
アイヴィーズ(The Iveys)
ピート・ハム(Pete Ham)さんは、1947年4月27日、ウェールズ・スウォンジーに生まれ、14歳の1961年に地元でベースのロン・グリフィス(Ron Griffiths)さんらと「パンサーズ(The Panthers)」を結成し、17歳の1964年までにスウォンジーのアイヴィー・プレイス通りの名にちなんで「アイヴィーズ(The Iveys)」というバンド名に落ち着きました。
1965年3月、ドラマーのマイク・ギビンズ(Mike Gibbins, 1949年3月12日生~2005年10月4日没)が加入、1967年8月、ギターのトム・エヴァンス(Tom Evans, 1947年6月5日生~1983年11月19日没)が加入しました。
1968年1月、ビートルズ(The Beatles)のアシスタントだったマル・エヴァンス(Mal Evans, 1935年5月27日生~1976年1月5日没)さんがアイヴィーズの演奏を観て気に入り、アイヴィーズのでも・テープをビートルズの4人に回し、同年7月、アイヴィーズはビートルズのレーベルであるアップルと契約しました。同年11月、トニー・ヴィスコンティ(Tony Visconti, 1944年4月24日生)のプロデュースでデビューシングル「Maybe Tomorrow」をリリースしました。
しかし、英米ではあまり売れなかったことから、1969年7月、アップルは売れ行きが好調だった日本、イタリア、ドイツでのみデビューアルバムをリリースするという戦略に出たと言われています。
アップルの不遇の扱いにメンバーは不満をもったようですが、それを聞きつけたポール・マッカートニー(Paul McCartney)さんと曲を交換したりして、ビートルズのバックアップがありました。
1969年10月、ロン・グリフィスさんが脱退し、ギターのジョーイ・モランド(Joey Molland, 1947年6月21日生)さんと交替しました。そして、トム・エヴァンスさんがベースに転向しました。
バッドフィンガー(Badfinger)
同年12月、アイヴィーズという名前がヴォーカル・グループのアイビーリーグ(The Ivy League)と混同されることがあったりしたことから、バンド名を変えようということになり、ジョン・レノン(John Lennon)さんの発案で「バッドフィンガー」というバンド名になり、バッドフィンガーとしてのファースト・シングルでポール・マッカートニーさん作曲の「カム・アンド・ゲット・イット(Come And Get It)」をリリースしました。
マジック・クリスチャン・ミュージック(Magic Christian Music)
そして、1970年1月、バッドフィンガー名義で、アイヴィーズ時代からの曲を含めたファースト・アルバム「マジック・クリスチャン・ミュージック」をリリースしました。アルバムのプレイリストです。
ノー・ダイス(No Dice)
バッドフィンガーは、1970年3月からレコーディングに入り、10月にマル・エヴァンスさんプロデュースによる先行シングルとして「嵐の恋(No Matter What)」をリリースしました。
そして、途中からプロデューサーがマル・エヴァンスさんからビートルズのエンジニアだったジェフ・エメリック(Geoff Emerick, (5 December 1945年12月5日生~2018年10月2日没)に交替し、2枚目のアルバム「ノー・ダイス(”もうだめだ”という意味)」を11月にリリースしました。アルバムのプレイリストです。
アルバムと同時にシングル「ウィズアウト・ユー(Without You)」がカットされ、この曲は、後々、ハリー・ニルソン(Harry Nilsson, 1941年6月15日生~1994年1月15日没)さん(1971)とマライア・キャリー(Mariah Carey , 1969年3月27日生)さん(1994)のカバーがそれぞれ大ヒットしました。
ストレート・アップ(Straight Up)
1970年11月には、バッドフィンガーは、スタン・ポーリー(Stan Polley, 1922年4月7日生~2009年7月20日没)さんとマネージメント契約を交わしたのですが、バッドフィンガーはこのポーリーさんに食い物にされて破滅することになります。
また、アメリカツアーも行うのですが、ともかくビートルズと比較されました。アップル・レーベルに所属していましたし、ビートルズのメンバーのセッションにも数多く参加していましたので、やむを得ないことでした。
1971年、バッドフィンガーは、イングランド・グロスターシャーのクリアウェアー城で3枚目のアルバムのレコーディングに入ります。当初のプロデューサーは、ジェフ・エメリックさんで、ひとまずアルバムを完成させて、アップルに持っていきますが、アップル側がこれを拒否、プロデューサーがジョージ・ハリスン(George Harrsion)さんに交替するも、多忙のため、最終的にトッド・ラングレン(Todd Rundgren)さんがプロデューサーを務めて、アルバムを完成させました。11月には先行シングルとして、「デイ・アフター・デイ」がリリースされ、ヒット曲となりました。この曲のスライド・ギターはジョージ・ハリスンさんが弾いています。
そして、12月にアルバム「ストレート・アップ」をリリースしました。アルバムのプレイリストです。
1972年3月には第2弾シングルとして、アメリカでのみ「ベイビー・ブルー(Baby Blue)」がリリースされました。
アス(Ass)
1972年初め、バッドフィンガーは、経営が傾いてきたアップル・レコードと最後のレコード契約を締結し、レコーディングに入りました。このレコーディングのプロデュースも迷走し、当初はトッド・ラングレンさんでしたが、金銭上の問題で降りてしまい、セルフ・プロデュースとなったものの、アップル側が拒否、最終的にクリス・トーマス(Chris Thomas, 1947年1月13日生)さんのプロデュースとなりました。
そのため、リリースが遅れているうちに、ポーリーさんは、アップルとの契約終了を見越して、ワーナー・ブラザーズと新たな契約交渉をし、アップルとの契約終了後、300万ドルでワーナー・ブラザーズとレコーディング契約を締結し、バッドフィンガーはすぐに5枚目のアルバムのレコーディングに入りました。
一方、4枚目のアルバムのリリースは遅れに遅れ、1973年11月なって、やっと、ビートルズのメンバー以外のアーティストによるアップル・レーベル最後のアルバムとなった「アス」をリリースしました。アルバムのプレイリストです。
このアルバムからは1曲目の「なつかしのアップル(Apple Of My Eye)」がシングルカットされましたが、ビルボードでは102位まで、アルバム自体も122位までと振るいませんでした。
ワーナー・ブラザーズ時代のバッドフィンガー
涙の旅路(Badfinger)
「アス」のリリースが遅れている間に、ワーナーでの1枚目の制作が着々と進み、1973年12月にもリリースされる予定でしたが、11月にアップルでの「アス」がリリースされたため、リリース時期がずれました。1974年2月にバッドフィンガー5枚目、ワーナー1枚目となるセルフタイトルのアルバム(邦題は「涙の旅路」)がリリースされました。アルバムのプレイリストです。
このアルバムからは、「ラブ・イズ・イージー(Love Is Easy)」と「涙の旅路(I Miss You)」がシングルカットされましたが、売れ行きは悪く、アルバム自体も振るいませんでした。
素敵な君(Wish You Were Here)
前作リリースに伴ってアメリカツアーを終えるとすぐにワーナー2枚目のレコーディングに入りました。そして、1974年11月に「素敵な君」がリリースされました。このアルバムは、後々、バッドフィンガーの最高傑作とも言われました。アルバムのプレイリストです。
このうち、「誰も知らない(Know One Knows)」の中間部での日本語の語りは、プロデューサーのクリス・トーマスさんが担当していたサディスティック・ミカ・バンドの加藤ミカさんです。
ヘッド・ファースト(Head First)
「素敵な君」制作中から、マネージメントを巡ってバンド内に不和を生じ、1974年10月にバッドフィンガーの中心メンバーであるピート・ハムさんが突然バンド脱退を宣言してしまいます。そこで、ボブ・ジャクソン(Bob Jackson, 1949年1月6日生)さんがギターとして加入します。
ハムさんは、このときはワーナー側の圧力でバンドに復帰しますが、そのような状況で、ポーリーさんの策略は、バンドに3枚目のアルバム制作をやらせ、状況を打開することにあったようで、実際、バンドはレコーディングに入り、11日間でアルバムを完成させました。
しかし、ワーナー側の調査でワーナーがバンド側に支払った契約金の一部(10万ドルと言われています)が行方不明になり、ワーナー側がポーリーさんに説明を求めてもポーリーさんが協力しなかったことから、ワーナー側が印税を差し押さえる訴訟を起こし、バンドが完成させたアルバムも受取りを拒否しました。
このアルバムは、「ヘッド・ファースト」と名付けられ、2000年になり、ようやくリリースされました。アルバムのプレイリストです。
バンドの終焉
ポーリーさんは、ワーナーとの関係だけではなく、バンドのメンバーとの関係でもお金については不義理をしていたようです。未発表だった「ヘッド・ファースト」には、「ヘイ・ミスター・マネージャー(Hey Mister Manager)」という曲が収録されており、ポーリーさんに対する不満が歌われています。1974年12月には、モランドさんがバンドを脱退してしまいました。
1975年になり、バンドのメンバーは、ワーナーとの訴訟を知らされると同時に、ポーリーさんからの給料小切手の支払もストップされてしまいました。
バンド内で経済的混乱が収束しない状況で、1975年4月24日、ピート・ハムさんは、自ら命を絶ってしまいました。このままバンドも活動を停止してしまいます。
その後も、ポーリーさんに関連した経済的混乱が続き、アップルレコードもバンドへの著作権料の支払とアルバムの配給も停止してしまい、1983年11月19日にはトム・エヴァンスさんも自ら命を絶ってしまいました。
松村雄策さん
バッドフィンガーを紹介したなら、バッドフィンガー・ファンのプロである松村雄策さんを紹介しないわけにはいきません。松村さんのバッドフィンガー愛については、「僕を作った66枚のレコード」の中でもバッドフィンガーのアルバム2枚が紹介されています。松村さんはアルバム「素敵な君」については、「パワーポップやブリットポップの、レジェンド」と書いています。
松村雄策さんについての過去記事もご覧ください。
(by R)