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おばあちゃん、”あの時”お花をみていたかったかな…。でも、ありがとう!
私はおばあちゃん子でした。
幼稚園の送り迎え、初めての習い事、小学校の授業参観、
病気になった時の通院や看病もいつも祖母がしてくれました。
老人クラブの旅行にまで一緒について行ったこともあります。
タイトルの”あの時”とは
私が5歳、幼稚園は春休み中。
両親は仕事、兄は学校、祖母と二人きりでした。
祖母は私をお昼寝させようと一緒に横になりました。
そのうち祖母が眠ってしまい、スースーと寝息が聞こえてきました。
寂しいなと思っていると、しばらくして寝息が急に聞こえなくなったのです。
祖母をみると口を開けたまま、呼吸をしていません。
”あれ⁈”
5歳でも呼吸をしているかしていないかくらいはわかります。
「おばあちゃん?」
返事はありません。動きもしません。
「おばあちゃん!おばあちゃん!」
だんだん怖くなって泣きながら何度かまた呼びました
「おばあちゃん!! おばあちゃん‼」
体を揺すっても起きません。
「おばあちゃーん!!!」うぇーーんと大声で泣きながら叫ぶと
「はーーい。ああびっくりしたー。どうしたのー。」
と慌てて祖母が起きました。
「ハァ~~。今ねぇ、とーってもきれいなお花がいっぱい咲いててね、とーっても気持ちよかったー。」
と言うのです。
なんだ、寝てただけだったのか?いやいや、確かに息止まってたよな。
「だって、おばあちゃん息止まったんだよ!」
「えー??」
何事もなかったように夕飯の支度をする祖母。
夕方仕事を終えて帰宅した母に話しても「ふーん、そうだったの」とだけ。
それから13年後
「おばあちゃん、呼吸が変になってきたから」
高校3年生だった秋、いつも通り学校から帰宅した私に、廊下を慌てて走ってきた母が言いました。
続けて
「おばあちゃんのところで見ててちょうだい!お母さんは先生(かかりつけ医)に電話するから。」
祖母は私が中学校入学の3日前、外出先で脳出血を発症しました。
以来、自宅で6年間寝たきり状態で全介助の生活を送っていました。
亡くなる数週間前から呼びかけにも反応がなくなり状態が悪化していたのです。
先生に電話をし終えた母が来て
「もう、このまま(逝く)だから。ミモはこれ(心電図モニターの波形)と呼吸を見てて。お母さんは叔母ちゃん(母の妹)に電話してくるから。」
と、急いでまた部屋を出ていきました。
携帯電話もまだ無い時代、固定電話のコードレス子機もその時うちにはありません。
私は「うん。」と言ったものの今にも呼吸が止まりそうな祖母と二人きり、高3の私は内心不安で怖くて仕方ありませんでした。
呼吸の間隔が開き、止まっちゃった?と思っているとまた大きく息をします。
その状態がどれくらいくり返したかは覚えていません。
ですがついに呼吸を確認できなくなりました。
「お母さーん、来て!」
心電図モニターを見るとまだ心臓が動いていることを示しているものの、どんどん表示される数字(心拍数)は小さくなり、0と一本の直線が表示されました。
母が走ってきて
「うん、止まったね。先生今向かってるから。」
と言い、今度は祖母の兄弟姉妹に連絡すると部屋を出ていきました。
私が初めて見た人の死の瞬間でした。
「おばあちゃん…。」
自宅で迎えた祖母の最期でした。
祖母の介護は母がしていました。母は祖母の長女、父は婿養子です。
介護保険制度が当時はまだ始まっていませんでしたから、家族だけでケアしていました。手探り状態で母もよくやっていたと思います。
特別養護老人ホーム(以下特養)は今では入居するのが難しくかなりの数の希望者が待機していますが、その頃はまだ簡単に入居できました。
祖母も入居可能ではありました。が、母は自宅で介護することを選択したのです。
当時、私の実家近辺では特養に入居させることが悪いことのように言われていました。姥捨て山などと表現する人もいました。
お金があって、嫁が意地悪で、息子は嫁の言いなりで、というのが近所のお暇なおばばたちが語り歩く入居の定番条件でした。
「○○さんが家で寝たきりで嫁に酷い扱いをされている」
「○○の息子は親の面倒もみないで老人ホームに入れて」
そんな話は日常茶飯事です。
私の実家は地方の小さな町です。あることないことすぐに噂が広がります。
月並みですが私の育った家庭環境はあまりよくありませんでした。
大変だったよ自慢になってしまいそうなので以下キーワードから想像で。
世間体、暴力、酒乱、アルコール依存症、女癖、家出、離婚、自殺。。。
祖母が亡くなってからしばらくして
「おばあちゃんは自分の娘(母自身)に看てもらって幸せだったと思う」
と母が私に言いました。
母の思う世間から見たらそうなのでしょうか…。
私と兄は
「ここの家は特別だから」
と事あるごとに母から言われて育ちました。
特別?って何が?キーワードのこと言っているならある意味特別かもしれません。
母の言う特別は、格式高い家であるということ(らしい。そんなことはありません。)
人からこう見られてはいけない、あんたが良くてもこの家はと言われる、お母さんがこういう教育をしていると思われる、常に人からどう思われるか気にしろ、自分を犠牲にしてでも他人を優先させなさい、ここのご先祖様は立派な人しかいないのだから。。。などなど。言ったらきりがない…。
祖母を介護するという母の選択は、世間体と承認欲求じゃないの…。
と冷ややかに思ってしまうこともありました。
両親は不仲で毎回のように取っ組み合い。テーブルがひっくり返され食卓がめちゃくちゃなんて常でした。
田舎で隣の家同士が離れていましたから、ご近所には怒鳴り声や食器やガラスが割れる音なんかも聞こえません。
父は転勤のある仕事で単身赴任の期間もありました。
そのおかげでケンカも毎日ではありませんでしたが、週に1度くらい帰ってきていました。ケンカしに帰ってきているようなものでした。
そんな父は祖母の介護に協力するはずもありません。
兄は社会人1年生になったばかり。しかも数年以内には家から離れた所に行かなければならないことも決まっていました。
私はおばあちゃん子でしたし、食事、排泄、入浴、状態が悪くなってからは今思うと恐ろしいのですが経管栄養(鼻から胃に管を通して栄養を入れる)なんかも言われるままに手伝いました。
というかほぼ母と私しかいないのですから。
ご近所や知り合いからは母を褒める声がよくきこえてきました。
「S子さん(祖母)、幸せだ~。娘に看てもらってー」
「Y子(母)さん、あんた一人でえらいな~。なかなかできるもんじゃないよ~」
とか…。
けれど、私が学校から帰ると、祖母の顔や腕なんかに出血の痕やあざができていることが何度あったか。。。。
母は祖母に向かって昔の恨みつらみなんかも言ったりなんかして。。。。
”あの時”から祖母が脳出血で倒れる間(約7年間)祖母は一応の家事をしたり時々旅行に行ったりしていましたが、肝硬変で何度も入退院をくり返していました。
いつの頃からかアルコール依存症(アル中)だったようです。
祖母もつらいことがたくさんあったことは想像がつきます。
私の祖父は戦死しています。
私が幼少期、祖母は軍歌を聴きながら机をこぶしで叩き、声を出して泣いていたのを何度か見ています。
母との関係に悩んでいたこともうかがえました。
ある時祖母は
「お母さん、おばあちゃんのことあんまりいじめるんだもの」
と泣きながら私に言いました。
また別のある時は、夕食の支度をしていた祖母から包丁を渡され
「ミモちゃん、これでおばあちゃんのこと刺してちょうだい」
と言われたこともありました。
祖母だけでなく母もつらい思いがあったのはいろいろ聞かされていましたが…。
母は言葉ではもちろんのこと、とても口に出しては言えないような乱暴もしていました。それを止めに入ると私にも手加減なんてありません…。
”あの時”から亡くなるまでの13年間で祖母に起こった
アル中も、肝硬変も、母との関係に悩むことも、乱暴されることも、脳出血で寝たきりになり介護されながら生きることも…。
私が”あの時”気づかなければ。。。
そのまま気持ちよくきれいなお花を見ていたかもしれません。。。
。。。だけど
私は”あの時”からもたくさん一緒に居られてうれしかったし
祖母にとってはつらかっただろうけれど、私にとって介護という経験が後に大きく役に立つことになりました。
ありがとう!
以上です。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
余談ですが・・・
私は看護師になりましたが、祖母の介護がきっかけではありません。
実家近辺の人たちはミモは祖母の介護があったから看護師になったという勝手なことを言っているようでしたけれど、ぜーんぜん違います。
面倒くさいからまあそうですねって適当に返していましたけれど。
お暇おばばたちよ、勝手に想像して感動してちょーだいって感じでした。
次回 祈りが届いた⁈「今日は先生が学校に来ませんように」
の予定です。