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「くじらの見える書窓」をはじめました。

3月以降に予定されていたいくつもの展示やイベントが中止・延期となり、準備を進めてきたいろいろなことが突然停止して、静かな時間がうまれました。

これまでのような展示の場を持つことも、多数の人と直接会うこともはばかられる日々はしばらく続くでしょう。けれど私個人の生活の中で、表現にかかわる活動は続いています。展示やイベントの場をひらける日はいつかは戻ってくると信じているけれど、その日その時それ以降、これまでと同じようには、そこにある表現に向き合えないのかもしれません。


今回noteを始めようと言葉を書き連ねてみると、いろいろな気づきがありました。


“...分断の原因となるものは、逆説的に、世界を異なるかたちで結びつけていくのではないだろうか。

私が表現を続ける根元には、「他者を知りたい」という願望があるのだと思う。その手立てとして、フィールドワークに出かけ作品をつくり発表することを続けてきた。” 

(2020/4/15公開のnote、p2. 「アラスカの人、日本の人。一緒に鯨を食べる。」より)

私にとって表現することは、何かを受け取り・何かを受け渡していく行為です。これまでは、さまざまな土地と、自分の部屋(アトリエ)と、展示や発表の場の間を行き来してきました。他者に直接会う時間やアウトプットの場面が途切れても、この状況〈以前〉と今、どこに向かうかわからない〈未来〉の間を行き来しながら、ごく私的に表現に向かう時間はこれからも積み重なっていくでしょう。


これから先、表現されたものを伝えていく場や時間はどうなっていくのかーー異なる流れがうまれていくのかを、考えていきたいと思います。このnoteは、これからのリトルプレス『ありふれたくじら』の制作プロセスであり、随筆であり、うつろいかたちを変えていく思考の記録としてはじめてみます。


不定期の投稿に加えて、有料記事としてリトルプレス『ありふれたくじら』のバックナンバー(Vol.1〜5)から再編したエピソードを公開していきます。

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