パリ16区パッシーのバルザック美術館!オノレ・ド・バルザックという作家
パリの16区 にある閑静なパッシーの丘に「バルザックの家」があります。Maison de Balzac, 47 rue Raynouard, 75016 Paris
ここにフランスの文豪オノレ・ド・バルザック(1799-1850)が晩年に暮らしていたのです。
現在はバルザック美術館となっています。
トゥール生まれのバルザックはパリに来てから35年間に、マレ地区、カルチェラタンと、左岸と右岸と、10か所も住居を変えています。
文豪バルザックとなるまでには、印刷業にも手をだし、莫大な借金を作ってしまいました。
このバルザックの家があるパッシーは、当時はまだパリの郊外でした。
バルザックが暮らしていた家、また別の建物がカフェになっています。
建物の前の庭にはテーブルと椅子があり、エッフェル塔が見えます。
立地がいいこのバルザックの家と、「ロマン派美術館」、「ヴィクトル・ユゴー記念館」はパリ市の「三文学館」です。
規模からいえば、「ロマン派美術館」、「ヴィクトル・ユゴー記念館」と比べると、バルザックの家の美術品等の展示数はかなり少なめです。
バルザックの彫刻
度重なる引っ越しがあっても、ずっと使われていた机です。
バルザックはパリに来たのが15歳、51歳で亡くなっていますが、最初にマレ地区で出会った、9人の子供がいる婦人の愛人となり、経済的に支援をしてもらえたのです。
この女性が、谷間の百合( Le Lys dans la vallée)のモルソフ伯爵夫人となっています。
谷間の百合は、復古王政初期の時代背景に、語り手である青年フェリックスとモルソフ伯爵夫人との悲恋を描いています。
このフェリックスも母からの愛を受けずにいた青年で、バルザックも実母から愛情を受けずに育ち、本人は自分には母はいないと言っていました。
谷間の百合では、フェリックスがアンリエットに一目惚れし、アンリエットは母性的愛情で、彼に処世術を教えるなど、バルザックの生活が小説となっています。
その後、複数の女性と関係があり、晩年にこころを惹かれたのが、ポーランド人のハンスカ婦人です。
ハンスカ夫人へはずっと求婚をしていましたが、婦人は過去の女性遍歴から結婚を敬遠していました。
しかし婦人の夫が死亡したのを機に、バルザックは欧州旅行をして、最終的には晩年にバルザックと結婚することを承諾したのです。
しかし、結婚も束の間、バルザックは結婚後5ヶ月後になくなり、残った借金を支払ったのは、婦人でした。
バルザックが書き残した小説の数は約130、その登場人物は約2500人と言われています。登場人物がこの小さな判になっています。
バルザックの家は歩道から入り、階段を降りていきます。
この階段を降りていくときに、バルザックの世界にはいるのかと思い、ワクワクしました。
バルザックは印刷業で失敗した借金をずっと背負い、最後にこの家にたどり着きました。
返済のため、この家に住んでいた7年間、1日19時間も原稿執筆をしていたのです。
借金まみれでも、この家を出て、8区に家をかり、結婚に備えていました。しかし5ヶ月後にバルザックはなくなります。
糖尿と心臓病とで、不摂生な食生活が原因だったようで、婦人は借金を返すことになるのでした。
文豪バルザックの波乱な人生でした😊
バルザックの文学は「人間喜劇」と言われており、バルザックの作品群の総称です。51歳で亡くなり、その構想も終結せずに終わってしまいました。
ひっそりとした、このメゾンがある一帯は綺麗で、トロカデロから歩く道は気持ちがいいです。
バルザックの家を出て、ブラッスリーでランチをしてきました。↓
日曜日にはオススメです。