してあげていると思っていたことは、ぜんぶしてもらっていたことだった。
16:20。夫のお婆ちゃんが天国に旅立った。
「病気になって悔しい。でも、最期みんなに、こんなに優しくしてもらって幸せ。」これはお婆ちゃんが亡くなる数時間前のリアルな言葉だった。
その後、少しずつ呼吸が浅くなり、家族みんなに囲まれながらお婆ちゃんは息をひきとった。
みんなで、おばあちゃんの手を握り、足をさすり、ありがとうって泣いた。
これまで看護師として沢山看取ってきたけど、自宅で、家族みんなに囲まれて、この上ない最期だったと思う。
訪問ドクターと看護師さんが来て、丁寧にシャンプーして整えてくれた。「死ぬ前はエンドルフィンという幸せホルモンが出るから、苦しいとかはないそうですよ。」そう教えてくれた。
ドクターが、壁に貼られているお婆ちゃんとの写真をみながら「ほんとうに可愛いお婆ちゃんですね。」と言ってくれた言葉のとおり、本当にかわいいお婆ちゃんだった。
看護師時代の学びから、「いつか」はないということを知っていた。
だから、元気なうちに!と、
83歳でパスポートを取得して両家でハワイ旅行にいったり、3世代でバンライフしたり笑。毎月のようにご飯に行ったり、年に数回は旅行にでかけたり。亡くなる直前まで思い出をみんなで話しながら懐かしんだ。
それだけやっても、大切なひとの死はやっぱり寂しいし、思い出すだけでも今も涙が止まらない。もうあと数年でいいから、生きてて欲しかったし、もう少しでいいから、車椅子でもいいから、いろんなところにお出かけしたかった。
でも、それはもう叶わない。
ほんとうに寂しい。けど、後悔はない。そう思えている。
それは、やっぱり、自分なりに「大切なひとを、大切にできた」という感覚が自分の心の中を満たしてくれているような気がする。
心の中は「寂しいとありがとう」が交錯しながらも、あたたかい気持ちでいっぱいだった。
どんなにしたって、しすぎることってないんだなぁと思った。
あの時間が、いまの私たちを救ってくれている。
そう思ったら、自分がしてあげている。と思っていたことは、本当は、してもらっていることばかりだったことに気がついた。
お婆ちゃんがいたから、家族で色んなところに旅行に行けたし、いろんな話ができたし、いろんな思い出をつくることができた。
きっと、お婆ちゃんがいなかったら、そんな時間も思い出もひとつもなかったかもしれない。
大切なひとを、大切にすることで、愛のギフトを受け取っていたのは自分自身だった。
人生の最期に後悔ではなく「いい人生だった」
そう思える人生にすることが
自分の人生のテーマでもあり、自身が運営するサービスのテーマでもあるけれど。
どう生きるか、というよりも「どう死ぬか。」
その人の在り方そのものが、人生の最期に現れる。
ということを実感させてもらった。
「いつか」はない。人生はいつだって「いま」の積み重ね。
自分のしてきたことは、必ず何かしらの形で自分にかえってくる。この世界は、ぜんぶ、ちゃんと循環してる。
いい人生だったなぁ、自分自身がそう思える生き方を、選択をすることが、結局自分のためであり、残されるひとのためにもなっているということを教えてもらった。
外に出たら、おばあちゃんらしく、雲ひとつない晴天で、すごくキレイな月が見えた。
おばあちゃん、今もめちゃくちゃ寂しいけど、ちゃんと前向きに、おばあちゃんにもらったギフトを大切にしていけそうだよ。
生まれ変わっても、また、わたしのお婆ちゃんになってね。