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そもそも、なぜ〈農〉なのか?【後編】/ 畑は社会とつながっている

こんにちは。さくらじまです。
寒いですね…。

わりあい温暖な地域に暮らしていても、「大寒」の近づくこの時季の空気には思わず身を縮めてしまいます。
でも、この凛と張りつめた寒さ。けっこう好きです。
背筋がしゃんと伸びるかんじがします。

さて今日は、前回にひきつづき「そもそも、なぜ〈農〉なのか?」について、その後編です。

【前編】は、こちら。↓

4. 自給自足、憧れはするけれど…

「お金に依存しない暮らし」を目指すなら、いずれは暮らしに必要なことの一つひとつを、じぶんでできるようになりたいものです。
その究極のあり方は、いわゆる「自給自足」生活でしょう。

ただ、今のぼくは、それをすべて自分で…とは考えていません。
それは、端的に言って、自分が目指すには「ハードルが高すぎる」からです。

3.11やコロナ禍を経て、「自給自足」生活への関心は高まりを見せ、さまざまなスタイルの実践を紹介する本が、今もたくさん出ています。
もちろん、ぼくもいろいろ読んでみました。

お米やお野菜を育て、鶏やヤギを飼っての「食の自給」はもちろん、太陽光や発酵の力を利用した「エネルギーの自給」、都会なら“ゴミ”として捨てられ焼却される野菜くずなどの食物残渣や落ち葉、そして排泄物(もちろん人間も含めて!)さえも「堆肥化」して、できる限り〈循環〉させることで「自然の理」に沿って、暮らす。
「自給生活」や「パーマカルチャー」などいろんな呼び方やスタイルがありますが、そんな生活実践に取り組んでいるユニークな人たちが、けっこういます。

素直に、すごいなぁ!という「憧れ」を感じます。
でも一方で。
「いったいどうしたら、そんなとこまでたどり着けるのだろう…」とも感じるのです。

冬の畑の贈りもの。大蔵大根、みやま小蕪、石倉根深一本ねぎ、じゃがいも(メークインと男爵)。

5. 「自給自足」生活の〈及び難さ〉

この〈及び難さ〉の感覚は、どこからくるのか?

「到達点」のすごさに圧倒されるというのが、ひとつの理由です。
本やネットで紹介される「自給自足」生活は、どれも相当な苦労の末に実現できた「すごいもの」なので、いきなりすべてを見せられると圧倒されてしまいます。

でも〈及び難さ〉の理由は、それだけではありません。
そもそも、こういうことにチャレンジするには、やっぱり「お金」が要るのです。

もう少しくわしく言えば、それ以前の仕事で稼いだお金の蓄えがあるか、親譲りの土地と家があるか、稼いでくれるパートナーがいるか。
もちろん、ゼロから「自給自足」を始めた人の全てがそうではないでしょうけれど、上記のどれかが前提としてあるケースが多いように思います。

これが自分には、ない。
最初の投稿(自己紹介)にも書いたとおり、今のぼくは「カネなし、土地なし、スキルなし」の“三無し”です。
いったいどうしたらいいのだろう…。

「農ある暮らし」や「自給生活」が注目を集めるなかにあって、じつは、そうかんじる人って意外と少なくないのではないか、と想像しています。

カツカツの生活を送る人ほど、お金中心のいまの世の中の厳しさを肌身で感じています。だからこそ「もっとお金を!」とがんばる人も多いわけですが、なかにはぼくのように、どうにかしてお金がなくても暮らせる方法はないものか…と考える人もいるでしょう。
ところが、憧れの「自給自足」生活への第一歩を踏み出すにもやっぱり「お金」が要るとなると、もうどうしたものやら…となってしまう。

その先は、もちろんこれからのお話です。

どうにかなる道があるのか、ないのか。
今のぼくにはわかりません。
ただ、いずれにせよ「自給自足」は目標にすべきではない。今はそう思っています。理想的ではあっても、少なくとも自分には現実的ではないからです。

だからまず「自分が食べるものは、自分で育てる」から始めようと思うのです。
そして前に書いたとおり、〈小さい農〉のスタイルだったらもしかしたら…と思っている、というわけです。

畑に咲く、小さな花。ホトケノザ(三階草)。

6. 畑は、社会とつながっている

お野菜を育てられるようになることで、「自分の食べもの」をみずから得るとともに、最低限必要となるお金も、じぶんが育てたお野菜と畑をつうじて得られるようになれれば。

いまぼくが描いている目標の、いちばん基本の部分にあるのは、そういうことです。

そう書いてみて改めて思います。
それって、かつてのお百姓さんたちがあたりまえにやっていた暮らしのスタイルなんですよね。
でも、それも今はかなり失われつつあるとすれば、それを自分に合ったカタチで実現しようとすることには「やりがい」も感じます。

さらに。
学べば学ぶほど〈農〉の営みには、奥深い魅力をかんじます。
〈農〉は、たんにこの時代を生きながらえる「サバイバル」の手段であることを超え、あえて格好をつけて言うならば、「時代と切り結ぶ」ような〈農〉のカタチだってありうるのではないか。そう思うようになりました。

なぜなら、「台所は、地球とつながっている」という土井善晴先生のことばに触発されて言うならば、「畑は、社会とつながっている」からです。

〈畑〉は、大きな地球の小さな一部です。そして、自然と人の営みをつうじて〈社会〉とつながっています。お台所は、そんな〈社会〉とのつながりが生まれる、いちばん身近な場所です。
だから「畑と台所のつながり」からは、社会も地球も見えてくると思うのです。(このあたりは、また改めて。)

「畑ー台所ー社会ー地球」は、みんなつながってる。
だとしたら「じぶんのための農」が、もしかしたら誰かにとっても意味のある〈農〉になるかもしれない。
「起農10年計画」一年目の昨年、おぼろげながら見えてきたのは、そんな可能性です。

じぶん一人で「すごい」自給自足を目指すより、たとえちっぽけな菜園でも、「いまとこれから」をどう暮らし生きていきたいか、訪れるひとが悩みながら探せる場、そのためのちょっとした気づきや学びが息づく場、そんな菜園をつくれないだろうか。
いまは、その可能性のほうにワクワクしています。

その〈農〉はいったいどんなもので、どんなひとたちのためのものでありたいか。
それを、このnoteで少しずつ言葉にしながら探していきたいと思っています。

三浦大根。畑のイチオシ。