見出し画像

寄り添う、をやめる〈エッセイ〉

青信号がチカチカ点滅し、
横断歩道を渡り途中の人々、
渡り始めてもいない人も
一斉に対岸に向かって走り出す。
渡りきるまでもうちょっと、
横断歩道の白線あと3.4本分というところで
なぜかみんな小走りをやめ
「間に合った顔」で歩き出す。
歩行者用の信号はとっくに赤。
前に進めずの車中の私は、
どうせ急いでくれるなら
ゴールテープを切るぐらいの勢いで
走り抜けて欲しいと、その様子を
見ながらいつも念を送っているが
未だその想いは通じたことがない。

先日、打ち合わせに遅刻しそうになり
表参道交差点の長めの横断歩道を
チカチカのタイミングで
渡り始めてしまったのだが
やはり残り白線4本というところで
無意識にも歩いてしまっている自分がいた。

渡り終えた後は
歩行者の流れに自然に合流せねばならず
頑張ったねと待ち受けてくれる人もいないわけで
走り切るのはむずかしく、恥ずかしい。
その立場になってみないと
わからないものである。

先日の取材でも、そんな話(?)になった。
その方の言葉には表面的に
飾り立てたものが一切なく
言葉がその人となって、私に語りかける。
「あー、素敵だな」と
聞きながら、うっとりしてしまい
ご本人は答えられないかなと思いつつ
取材の最後に感動を伝えたい気持ちもあって
「お話が素敵な理由」を尋ねてみた。

「自分のことはわからないけれど、
その素敵さを感じる人は
周りにいっぱいいる」と
前置きしたうえで答えてくれた。

「自分が抱いた思いを伝えたいとき
その思いを掘り下げるだけでなく
どうやったら相手に響かせることができるか。
創作は両方向の想いが必要。
そうなると、必然的に
自分とは違う立場の人を慮るようになる。
だからじゃないですかね」

創作活動において
相手を意識するのは当たり前だけれど
響かせるのは、そう簡単じゃない。
きっと、表面化していない
心の隙間にスッとおさまるような
表現が大事なのだと思う。

先日のラジオで”寄り添う”って
言葉が使われすぎという話題を耳に挟んだ。
寄り添う、を使えば
とりあえず印象は良くなりそうみたいな
上っ面で便利な表現に
なってしまっているのでは、と。
本当に寄り添えていなかったら
恥ずかしく、逆に冷たい表現ではないかとも。
いやだな、気をつけよう。

原稿に切羽詰まっているときは
クリシェ=常套句の落とし穴にはまりがち。

そんなクリシェからの脱出に
noteはすごく役立つ気がしている。

いいなと思ったら応援しよう!