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それこそが愛といってはいけないだろうか〈エッセイ〉

向坂くじらさんの『踊れ、愛より痛いほうへ』と
岸政彦さんの「犬は自転車」を読みたくて、文藝2025 春号を買った。

向坂さんは『夫婦間における愛の適温』の素晴らしさに、誘われて。
岸さんは、ちくわ(岸さんの愛犬)の話!と迷いなく。
Xに投稿されるちくわの写真は、私の癒し。
あと、村井理子さんのところのテオとハリーも。

『夫婦間における愛の適温』は、
昨年読んだ本の中で一番付箋を貼ったかもしれない。
一番響いたのが、この一節。

一般には愛情はいいものとされているけれど、しかし必ずしもそればかりではないということを、わたしたちはすでによくわかっているのではないか。愛する人の頑なさの前に立たされて、自分の愛情がぜんぜんその向こうへ通っていかないとき、愛情自体の罪深さのようなものを思い知る。愛情は本来そんなにいいものではなく、疎ましがられるほうが自然という気がしてくる。ただ相手に幸せでいてほしいと願うことさえも自分の押しつけではないかと思わされる。けれどもそこで、嫌がられることに怯え、押し付けにならないように忍耐をし、たえず距離感を測りながらも、どうにか愛情を持ち続けようとする、大げさな言い方になるけれど、それこそが愛といってはいけないだろうか

向坂くじら『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)より

私は毎日、娘の心配をしている。主には「何時に帰るか」。
お酒が飲める大学生は、ご飯会も盛り上がるし、長引くのだろう。
遅くなるときは連絡をする約束だけれど、
友だちと一緒で最高に楽しいときに親の顔なんて思い浮かぶわけもなく
当然「何時に帰ってくる?」と、こちらの先制LINEとなる。
帰宅時間の目処の返事があっても、家に帰ってくるまでは落ち着かない。
その目処から20分以上遅れると、肝を冷やし、追いLINEを入れる。
「ごめん、もうすぐ」という返事の本音は
「早よ、寝てくれ」なのは、しっている。

そのもどかしい愛が、向坂さんによって言語化された。
これからは心配することに、遠慮はしない。
だって「それこそが愛」なのだから。

余談だが、文藝2025 春号では、
小指さんの漫画『日記と私』にも好きなフレーズがあった。

「これまでは、自分の日記を読み返すということは
用を足した便座を覗き込むようで なんだか気恥ずかしかったのですが」

文藝2025春号 小指『日記と私』(河出書房新社)より

私はまだ、そんな気持ちで自分のnoteを読み返している(笑)。




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