「愛」とは何を愛すこと、愛されることなのか。私はなぜ母に愛されなかったのか
※記事の最下部の余談に「華Doll* 3rd season THINK OF ME: CHOOSE」のネタバレを含みます
こんにちは、はじめまして。桜木といいます。
先日、以下のようなNoteを書きました。
(想定より多くの方、また似た立場の方に見ていただけて驚きつつも励みになりました。ありがとうございます)
早いもので怒涛の引っ越しから1週間が経過し、そして生きる意味で目標だった、私の人生を変えた愛する推しのファイナルアルバムも無事に新居で聞くことができました。
機能不全家庭から離れて、愛する推しの終焉を見届けて、少し愛について考えたので綴ってみようと思います。
前提として、私が思う「人格」についての話からさせてください。
私は人格というのは球体や多面体のようなものだと思っています。
他人から見える角度ではトゲのないまんまるの球体のような穏やかな人でも、他人に見せていない裏側はゴツゴツしているかもしれないし、トゲトゲかもしれない。
逆に自分ではゴツゴツした形だと思っていても、他人にとっては綺麗なまるに見えているかも。
そして全ての要素は自分も他人も把握不可能。
そういうものだと思っています。
「ジョハリの窓」のようなものでしょうか。
本題です。
誰かを愛すとき、愛しているのは「その人の球体そのもの」ではなく「その人から見える球体の一部分」でしかないと思っています。
「その人から見た偶像」と言い換えてもいい。
私は他人から愛されることが気持ち悪いし怖いと思ってしまいます。
それは、相手は「偶像の私」を愛しているから。
「本当の私」「私から見た私」と乖離した「何か」は私であって私ではない。
ただ、「愛されたい」と思う側はきっと「球体の全てを愛されたい」なのだと思います。
私が愛されることに拒否反応を覚えるのは、球体の全てを愛されたいのにそれが無理なのがわかるから。
でも、「球体の全てを愛されたい」と思うことは罪ではないとも思います。
愛することがそういうことでも、最初から偶像を愛してほしい人はあまりいないんじゃないかな。
それに、どうせ結局自分見えの他人像のお仕着せならば、「全部を愛してくれる人だ」という見え方があってもいいはずです。
また、親子関係でも恋人関係でも「人格の球体」とは別にこういう球体がいいという「理想の器」があります。
その器が小さい人も大きい人もいる。細い人も太い人も、丸い人も四角い人も。
「器」と「球体」がはまる人とは上手くやっていけるのです。
「私」は、母から見た私の球体は、「理想の娘の器」の形ではなかった。
だから母は私を愛せないままで、具体的なトリガーはわかりませんが突然爆発してしまったのではないでしょうか。
(もう会話もありませんしする気もないので、真相は闇の中ですが)
逆も然りで、私は他人からの愛を気持ち悪がりながらも、母にだけは愛されたかった。
私の理想の「母の器」は「私を愛する形」だった。
だから、爆発したあとの母をその器に収めることができませんでした。
収める努力ができなかったので、やり直せていたと思い込んでいた家から逃げました。
母が私を愛さなかったこと、および私がそんな母から距離をとったことはきっと根本的には同じことを起こしていて、どちらも悪くないのだと思っています。
悪かったのは、相性。それだけ。
球体と器がミスマッチだったのです。
どの人間関係でも起こりうるミスマッチが、たまたま母子の関係性で起こってしまっただけ。
母のことは正直まだ憎いような気がしています。
まぁ母が私にした暴言・暴力の数々は倫理的に悪いことなのでそりゃ憎いかなとは思うのですが、でも母が私を愛さなかったこと、私が母に愛される形でなかったことに関してはきっと仕方のないことでした。
誰が悪いのではなく「そういうもの」だからです。
同時に母を憎みながらも愛されたいと思ってしまった自身にも自己矛盾を感じていますが、それだって仕方のないことだったのです。
ここまで書きましたが、正直まだ割り切れるだけの時間は経過していません。
割り切ったと自認していても、外から聞こえる子供の弾んだ「ただいま〜!」という声で不意に苦しくなったりしています。
私が欲しくて手に入れられなかったものを生まれたときから当たり前に持っている人がいるって、なんて不条理なんでしょうか。
そしてもちろんその子供は何も悪くないので、苦しくなっている自分にもっと苦しくなって……という悪循環。
いつか、完全に割り切れる日が来たらいいなと、母から離れたこの新居で思っています。
なお、明示的に書いておきたいのですが、似た立場の方に「ミスマッチだっただけだから許そう」と投げかける意図は全くありません。
親が親である時点で責任はありますので、あなたは怒ってもいい。憎んでもいい。抗ってもいい。そしてそうしなくてもいい。
どうかあなたが楽になれるものだけを受け入れてください。
[余談]
※以下「華Doll* 3rd season THINK OF ME: CHOOSE」のネタバレを含みます。
冒頭に書いた「愛する推し」である亜蝶様が「必要とされていたのは自身の偶像である」ことに絶望したまま亡くなり、筆舌に尽くし難い感情に襲われました。
アイドルという職業がそもそも偶像視させる仕事であるし、愛とはそういう身勝手なお仕着せであるものだと思いながらも、「偶像でない自身」で完璧に至り愛されたいと思う気持ちも理解できてしまった。
(なお、もちろんこれは彼の絶望のほんの一端です。彼はもっと様々な絶望が内包された絶望を抱えたのでしょうし、誰かに理解したフリもされたくないでしょう)
彼は、最期まで、どこまでも「ひと」でした。
彼が絶望を選んでしまったことがとても苦しい。
報われてほしかった。選んだ道が幸福だったらよかった。彼が自身のまま、愛されたい人から愛されてほしかった。
でも私は、先日彼のことを「抗うひと」とも「愛を求めるひと」とも評しましたが、彼が愛に絶望してもなお、彼の全てを愛しているとも思いました。
もちろん私が愛しているのも「私から見た亜蝶様の偶像」かもしれません。愛に絶望した彼になお愛していると言葉にするのはきっとエゴです。
それでも、あえてこの記事の内容でも「愛する推し」と記載することにしました。
どうか、苦しみ、抗い続けた、私に幸福をくれたあなたが、楽園では安らかでありますように。