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最低賃金は雇用を減らすのか?データが語る経済の真実

2021年のノーベル経済学賞は、
デヴィッド・カード、ヨシュア・アングリスト、グイド・インベンスの3名が受賞しました。

受賞理由は
原因と結果の関係(因果関係)を明らかにするための「自然実験」と呼ばれる方法を確立し、重要な社会問題に応用したことです。

デヴィッド・カード(David Edward Card, 1956年 - )
カリフォルニア大学バークレー校経済学教授
ヨシュア・アングリスト(Joshua David Angrist 1960年9月18日 - )
マサチューセッツ工科大学(MIT)経済学部教授
グイド・インベンス(Guido Wilhelmus Imbens1963年9月3日 - )
スタンフォード大学大学院ビジネススクール教授

特にカードは、「労働者の最低賃金を引き上げた場合に、負担が増した企業は雇用を減らすはずだとされていた常識が必ずしも正しくないことを自然実験の手法を用いて実証」したことが評価されました。

自然実験とは、社会制度や歴史的な偶然によって、あたかも統制実験のように原因(処置)が操作された状況を利用して、因果関係を推定する方法です。この手法は、実験が難しい現実社会において、因果関係を解明するために有効です。

カードは1980年にフロリダ州マイアミに大量のキューバ難民が流入した「マリエル難民事件」を用いて、移民の流入が自国民の賃金や雇用に与える影響を検証し、必ずしも賃金や雇用の低下に結びつかないことを示しました。
また、アングリストはベトナム戦争への従軍経験が退役後の所得に与える影響を、従軍者の一部が誕生日に基づくくじ引きで決定されていた事実を利用して分析しました。

これらの研究は、従来の労働経済学の通念に挑戦し、実証研究の手法に革命をもたらし、自然実験の手法が、実験が難しい社会科学の分野で因果関係を解明する強力なツールとして広く認識されるようになりました。


1.「最低賃金」と「雇用」のあいだに因果関係はあるのか?


雇用者が労働者に対して支払わなければならない賃金の最低額を「最低賃金」と呼びます。日本では都道府県別に最低賃金が異なり、2025年1月時点の最低賃金は、東京都では時間あたり1,163円、沖縄県では952円となっています。

もし企業が、最低賃金の上昇に伴うコスト増を、リストラをして人員調整することで相殺しようと考えたなら、最低賃金の増加は雇用の減少をもたらします。
実際に1970年代のアメリカでは、最低賃金の上昇によって若者の雇用が減少したと言われています。

しかし、最低賃金と雇用の間に因果関係があると断定するのは尚早です。
最低賃金の引き上げは、景気が悪化しているときに、賃金を上げ、個人消費を改善させるためにとられる政策です。

このような場合、「景気の悪化」は、最低賃金にも雇用にも影響があります。そのため、「最低賃金が上昇したから雇用が減少した」(因果関係)のか、「雇用が悪化したため雇用は低下し、最低賃金が引き上げられた」(相関関係)だけなのかが分からなくなってしまいます。

出典:https://note.com/masaru3n/n/n28d9cc0b210f

・因果関係(Causation): ある出来事 A が原因となり、出来事 B が起こること。
A のせいで B が発生した!
・相関関係(Correlation)
: ある出来事 A と B が同時に発生すること。
ただし、A が B を引き起こしているとは限らない。
A と B は一緒に起こっているが、A のせいで B が発生したとは言えない可能性?

この問題に挑んだのがカリフォルニア大学バークレー校のデビッド・カードとプリンストン大学のアラン・クルーガーです。

彼らは、ニュージャージー州とペンシルベニア州の境界をまたいで隣り合う郡に着目しました。
アメリカでは、最低賃金の変更は州ごとに行われるので、1992年にニュージャージー州だけは最低賃金を4.25ドルから5.05ドルに上げ、ペンシルベニア州では据え置かれるということが起こりました。

1つ目の差として、1992年前後の2つの州での雇用率の差を取り、
2つ目の差として、ニュージャージー州とペンシルベニア州の雇用率の差を取りました。この2つの「差」を取ることで、最低賃金の上昇が雇用に与える効果(因果効果)を推定しました。

低賃金労働者が多いファストフード店の雇用変動を調べると、多くの経済学者の予想に反して、最低賃金が引き上げられたニュージャージー州の雇用はペンシルベニア州東部に比べ若干増えていました。

カードらは分析の結果、最低賃金の上昇は雇用を減少させないことを判明させ、また最低賃金の上昇は、ニュージャージー州の企業による価格の上昇をもたらしていることも明らかになりました。
つまり、企業は、最低賃金によるコスト増をリストラではなく、価格に転嫁することによって切り抜けようとしたのです。

2.なぜ2つの「差」をとると、因果関係がわかるのか


なぜ、2つの「差」をとることで、最低賃金の上昇が雇用に与える因果効果を推定することができるのでしょうか?

例えば、あなたが、全国にチェーン展開しているジュエリーショップを経営する企業の広報部長だとしましょう。
あなたが勤めているジュエリーショップでは、2014年のクリスマスには広告を出さず、12月の売上は1000万円でした。翌2015年のクリスマス商戦で大々的に広告を出し、12月の売上は1400万円でした。
広告費用100万円を差し引いても、2015年12月は前年と比べて300万円分売上が増えたことになります(表1)。

これは広告の効果だと言えるのでしょうか?
翌年の2016年のクリスマス前にまた広告を出すべきなのでしょうか?

(表1)

実は、この売上の増加は、2つの理由から、広告の効果とは言い切れないのです。

・1つめの理由は、時間とともに起こる自然な変化(トレンド)の影響を考慮することができないからです。
2015年は2014年と比べて景気が良く、売上が伸びたのであって、広告を出していなかったとしても売上は1400万円だったかもしれません。

・2つめの理由は「平均への回帰」の可能性です。
データ収集中に、たまたま極端な値をとったあとは、徐々にいつもの水準に近づいていく、という統計的な現象のことです。
このジュエリーショップが、2014年に売上がたまたま減った可能性も存在します。だとすれば、平均への回帰が生じ、翌年の2015年の売上は増えても不思議ではありません。

では、どうしたら広告の効果を図れるのでしょうか?
そこで登場するのが、今回紹介したカードとクルーガーの研究で用いられた「差の差分析」です。

3.差の差分析法


差分の差分法(Difference in differences, DID)とある出来事(政策や介入)の影響を正しく測るための方法です。

影響を受けたグループ(処置群)影響を受けていないグループ(対照群) を用意し、それぞれのグループについて 介入前と介入後の変化 を比べます。
ただし、時間が経つだけで自然に変化することもあるので、対照群の変化を時間の影響と考え、それを処置群の変化から引くことで、純粋な「介入の影響」を測ることができます。
この方法を使うと、「もし介入がなかったらどうなっていたか?」を推測しやすくなり、因果関係をより正確に分析できます。

差の差分析を行うには、
介入群(「広告」を受けたグループ)
対照群(「広告」を受けていないグループ。比較のために用いられる)
のそれぞれにおいて、介入前と介入後の2つのタイミングのデータを入手する必要があります。
1つめの差は介入の前後の「差」、2つめの差は介入群と対照群の「差」です。
この2つの「差」の差を取って介入の効果を推定するので、「差の差」分析と呼ばれます。

出典:https://corvus-window.com/all_did/

もう少し詳しく見てみましょう。
表2で示すように、介入を受けたグループ(介入群)において、介入前の結果をA1、介入後の結果をA2とします。
介入を受けなかったグループ(対照群)において、介入前の結果をB1、介入後の結果をB2とします。

(表2)

介入群の前後比較A2-A1と対照群の前後比較B2-B1、この2つの差である(A2-A1)-(B2-B1)が差の差分析によって推定される介入の効果です。

表3のA1→A2の線が事実(広告を出したシナリオ)を表し、B1→B2の線が反事実(広告を出した店舗が仮に広告を出さなかったらどうなっていたかというシナリオ)を表しています。

(表3)

介入群の前後の差であるA2-A1から、対照群の前後の差であるB2- B1を差し引くことで、「トレンド」の影響を取り除き、正しく因果効果を推定することができます。
 

もう一度ジュエリーショップの例に戻ってみましょう。
全国にある店舗のうち、A地方の店舗は2015年に広告を出したが、同じ時期にB地方の店舗では広告を出していなかったとします。
B地方の店舗では、2014年12月には600万円、2015年12月には800万円の売上となっています(表4)。

(表4)

広告を出したA地方の店舗では2014年から2015年にかけて、売上は400万円増加しました。一方で、広告を出していないB地方の店舗では800万円−600万円=200万円増加しました。
この2地方の売上増加幅の差である400万円−200万円=200万円が、差の差分析によって得られる介入の因果効果です。
広告にかかるコストが100万円だったしても、広告を出すことで200万円−100万円=100万円の追加的な売上が期待できるということになります。

3-1.「差の差分析」が有効であるための、2つの前提条件


差の差分析が有効であるためには、2つの前提条件が成り立つ必要があります。

3-2.前提条件1


1つめの前提条件は、
介入群と対照群において、広告を出す前の売上のトレンド(傾き)が平行である
というものです。

B地方の店舗の売上は、「A地方の店舗がもし広告を出さなかったとするとどうなっていたか」という反事実を表しています。だから、A地方の店舗とB地方の店舗は、少なくとも介入の前には「比較可能」でなければなりません。
言い換えれば、広告を出す前の売上の「トレンド」(表5の傾き)はA地方もB地方も同じである必要があります。

(表5)

しかし、広告を出す前のA地方とB地方の売上の「トレンド」(傾き)が同じだったかどうかは、2014年と2015年のデータだけをながめていても分かりません。そこで、2013年12月のデータを見てみましょう(表6)。

(表6)

広告を出す前、すなわち2013年12月から2014年12月にかけてのA地方とB地方の売上の「トレンド」(傾き)が異なることが分かります。
つまり、A地方の店舗は広告の有無に関わらず、毎年400万円ずつ順調に売上が増加し続けているが、B地方の店舗は毎年200万円ずつしか売上が増加していません。
この状況では、「介入群と対照群において、広告を出す前の売上の『トレンド』(傾き)が平行である」という前提条件を満たさないので、差の差分析を用いることはできません。

では、表7を見てみましょう。
A地方とB地方において、広告を出す前の売上の「トレンド」(傾き)は同じです。両方とも毎年200万円ずつ売上を増加させている。
この場合、「介入群と対照群において、広告を出す前の売上の『トレンド』(傾き)は平行である」という前提条件を満たすので、差の差分析を用いることができます。

(表7)

3-3.前提条件2


2つめの前提条件は、
介入が行われているあいだ(この例では広告を出している2014年12月から2015年12月の間)に、売上に影響を与えるような「別の変化」が起きていない
というものです。

例えば、2015年11月に放映中のドラマの中で人気女優が身につけていたネックレスがヒットしたとします。
しかし、このドラマが放映されたのはA地方だけだったので、そのネックレスが爆発的に売れたのはA地方のみでした。
これでは差の差分析で推定した200万円の売上増は、広告の効果なのか、それともこのドラマの効果なのかがわからなくなってしまいます。

この2つの前提条件を満たせば、A地点の差とB地点の差の2つの差をとることで、広告の因果効果を推定することができるのです。


4.彼らが与えた影響


デビッド・カード、ジョシュア・アングリスト、グイド・インベンスの研究は、経済学に2つの大きな影響を与えました。

まず、実証経済学の方法論が大きく変化しました。
彼らが確立した自然実験による因果推定の手法は、経済学全体に広がり、因果関係を明確に示さない論文は主要な学術誌に掲載されにくくなりました。

また、因果効果の多様性に関する計量経済学の発展も重要な影響です。
従来は「ある原因が結果に与える影響は一定」と仮定されていましたが、アングリストとインベンスの研究により、状況によって因果効果が異なることが考慮されるようになりました。

デビッド・カードは、最低賃金と雇用の関係について、最低賃金を上げても雇用が減らないことを示し、従来の経済学の常識を覆しました。
これに対しては、データや推定手法の違いによる異なる結果を示し、質の高いデータと適切な手法の重要性の指摘も存在します。
また、企業が賃金決定の力を持つ「モノプソニー市場」の影響も注目されるようになりました。

さらに、移民と労働市場の研究では、1980年のマリエル難民事件を自然実験として活用し、大量の移民流入が地元労働者の賃金を押し下げないことを示しました。しかし、ボルジャスらの批判もあり、移民の影響を巡る議論は続いています。

最低賃金や移民は政治的にセンシティブなテーマですが、カードの研究は単なるイデオロギー論争を超え、理論の拡張、データの質の向上、実証手法の洗練を促しました。

また、実証経済学において行政データの活用が重要であることも示されました。アングリストは社会保険のデータを用い、カードもドイツやポルトガルの行政データを活用しています。

日本においても、プライバシーを保護しつつ、政府統計の学術利用を促進することが、経済学や社会科学の発展にとって不可欠ではないでしょうか。


~デヴィッド・カード氏の経歴~

  • 1978年:クイーンズ大学で学士号(B.A.)取得

  • 1983年:プリンストン大学で博士号(Ph.D.)取得

  • 1982年〜1983年:シカゴ大学ブース・スクール・オブ・ビジネスで助教授を務める

  • 1983年〜1997年:プリンストン大学の教員を務める

  • 1990年〜1991年:コロンビア大学で客員教授を務める

  • 1997年〜現在:カリフォルニア大学バークレー校経済学教授

~主な受賞歴~

  • ジョン・ベイツ・クラーク賞(1995年):40歳未満のアメリカの経済学者に贈られるこの賞は、カード氏の最低賃金や「マリエル・ボートリフト」に関する研究が評価されました。

  • フリッシュ・メダル(2008年):量経済学会が優れた応用論文に授与するこの賞を受賞しました。

  • BBVA Foundation Frontiers of Knowledge Award(2014年):チャード・ブランデル氏と共同で、実証ミクロ経済学への貢献が認められました。

  • ノーベル経済学賞(2021年):働経済学への実証的貢献が評価され、受賞しました。

    これらの受賞歴は、カード氏の労働経済学における多大な貢献を物語っています。

~主な論文~


参考サイト:さくらフィナンシャルニュース

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ノーベル賞HP

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