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となりの雑談 EP104 に聞き耳を立ててみた

私は毎週「となりの雑談」というポッドキャストを楽しみに聴いています。

となりの雑談 ポッドキャストとは?

長引くコロナ禍で何においても「リモート」が推奨される昨今。
仕事でプライベートで、人と顔をあわせる機会も減り、それに合わせて「雑談」の機会も減ってしまった。

必要なことだけをやりとりし、効率は上がったかもしれない。
一方で、ちょっとした疑問や脇道に逸れた話は「不要不急なもの」として削ぎ落とされてしまった。
でも、雑談という内容のない会話から得るものは大きかったはず。

言葉にするほどではないモヤモヤを吐き出して頭をスッキリさせたり…
自分を客観的に見ることができたり…新しい企画のアイデアや発見があったり…
削ぎ落とされた雑談の中にこそ、人生にプラスになる大事なことが含まれているかもしれない。

「となりの雑談」は、喫茶店で隣の席のお客さんの話に耳を傾けるように、2人の雑談を聴くことで、今度は自分が誰かと雑談したくなる番組です。

TBSラジオ「となりの雑談」ホームページから抜粋

この番組は雑談のプロである桜林直子さん(通称・サクちゃん)とコラムニストのジェーン・スーさんがパーソナリティ。

私がこのnoteを書こうと思った理由

2025年1回目のとなりの雑談。副題は「愛の循環」でした。

今回、ジェーン・スーさんの今年の目標を聞いて、番組を聞いた「思い」を、noteにすることを思いつきました。

愛こそすべて
愛情を感じるものに対して、きちんと愛を持って接する、すべては愛だと思って生活してる。
とにかく、自分が愛を持って接することができるかできないか。
できるだけ愛を持って接することができるものに囲まれて生活していたい。愛を持って接することができるものには惜しみなく愛をそそぐ。っていうこと、それでここ3年はまわってる。

ジェーン・スーさんの言葉  となりの雑談 EP104より


私も愛するものを大切にできる自分でいたい。まずは毎週楽しみにしている「となりの雑談」に愛を注ごう!

そう思った私。

これが、このnoteを書こうと思ったきっかけです。
15分の番組の中から、私の心に響いたところや考えたことを書いていくつもりです。

今回は2025/01/07に更新されたEP104、愛の循環です。

愛が循環するために必要なものは

印象に残ったのは、人気のある人は愛を循環させるという話。

人気がある人は愛を循環させている

与えてもらった愛をエネルギーにして、ワクワクやドキドキみたいな体験で返す人は人気がある。

それは、もらったエネルギーを循環させるから。みんなにワクワクや血がどくどく流れる感覚を沸き立たせるものは、もらったエネルギーが形を変えたもの。

パン屋さんやパティシエ、アーティストは作品にとって、それは作品。魂が動く作品。

そして、受け取った人が、またエネルギーを相手に注いで循環する。

循環するためには、頭で理解するものだけでは無理。その与えられたものが自分の心を動かした結果、わいてくるものが必要。

とても納得できる話でした。

きっと、その循環が大きなものを作りだしているのだと思いました。

エネルギーはまわってる

愛の循環を阻むもの

ここからは、私が思ったことも混ざってくる話。

人気者でも、物質的なもので相手を満たす人ばかりじゃないよね。
人にエネルギーそのものを返す人もいる。
それを見るときにも、心が動く体験は生まれるんだと思う。

ありがとうの言葉や笑顔。その生きざまに。

そして、ここが大事なところだけれど
「誰かによく見られよう」
「誰かに好かれよう」
「恩を着せよう」
「利用しよう」
と思う心は、そのエネルギーを止める。循環しなくなる。
プロで回す人は知らないけど。

笑顔が勇気をくれる
頑張っているのを見ると元気が出る
まっすぐな気持ちを応援したい
あの人が、なんだかいいなと思う

そのエネルギーは、きっと強い。私も循環するエネルギーを生んでいきたいです。

他人に合わせた循環をする必要はない

次はエネルギーの循環を大切にしすぎて、自分を忘れてしまう話でした。

赤いスカートの子

例えば、赤いスカートが似合うと言われて、その意見に左右されて特に好きでもない赤いスカートを身につけ続けるのは違う。

そんなことをしたら、赤いスカートは自分のワクワクにあってないのにアイデンティティのようになってしまう。それに、赤いスカートが似合うと言った人は次の日は青いズボンが好きと言ってるかもしれない。という内容。

身に覚えがあります。

まさに、それは若い頃のわたしです。もしかすると、いまもそんなところがあるかもしれません…。気をつけてはいるけれど…完全には治ってないと思います。

赤いスカートが似合うと言われたら

周囲が望むことを選ばなければいけないという思い癖

私は周囲の望みに合わせて行動してしまう癖があります。
・普通ならどう行動するのか(普通って?)
・どんな反応をするのが正しいのか
行動や思考の軸は、長い間、他者にあるのが常識でした。

言った方は忘れていることを、ずっとメモ帳に書いて参考にする。まるで人生の参考書のように。

それは、私の普通は、社会に受け入れられない、おかしいという思いがあるから。

そのことで、思い出すエピソードがあります。以降、極私的話です。失礼します。

私的エピソード:紫が禁止された話

私が他人の選択軸を頼りにするようになったエピソードは、いろいろあるのですが『紫を使う子どもはまともに育たない』と母が聞いてきた出来事も大きく影響しています。50年前のことですが、今でもハッキリ覚えています。

幼稚園の頃だと思います。保護者と先生の面談があり母親が参加しました。

帰ってきて、母は突然、私のクレヨンの紫色を捨ててしまいました。

母は怒っていました。そして
「あなたが紫をたくさん使って描いた絵を見せられた。」
「先生は、今までこんな絵を描いた子で、まともに育った例は知らないと言われた」
と言いました。

母から伝達で聞いたので、先生がどんな言い方をしたのか知りません。
昔の先生ですから、ひどいことを言われたのかもしれません。

でも
なんとなくですが「愛情不足かもしれませんから、シッカリ抱っこしてくださいね。」というような話だったのかなと思います。

母の性格からすると、まず「心配な状態を持つ子ども=自分が恥をかかされた」と頭に血がのぼってしまったのでしょう。母は、意見されるのが大嫌いだから。

その絵は花火の絵。
私はとても楽しくてワクワクして描いたことを覚えています。

私はろくでもない大人になる?

自分が楽しい思いで描いた絵が親に恥をかかせたと聞かされて、私は、大きなショックを受けました。

そして、私は『このままだと、ちゃんとした大人になれない運命』なのかと、自分の好きなことや色を選ぶことが怖くなりました。

ちゃんとした大人になれない運命なの?

私の母は、私がなにを思っているのかに頓着しない人でしたし、思い込んだらトコトンの人。
この子はろくでもない人間になると言われたと、私がどう思うのかなんて思いもよらなかったのでしょう。

私は、ちゃんとした大人にならない運命なんだと、母がその話をするたびに考えてしまっていました。

紫を禁止された50年

その後も、青に赤を重ねていても「紫はダメ!」と強く叱られます。結局、母親が嫌がらない、普通の人が使うであろう色を類推し、使うようになりました。

母は2020年に亡くなるまで紫を毛嫌いし、自分も選びませんでした。

昨年、私は母の嫌がる紫を、いまだに避けている自分に気づきました。

母は5年前に亡くなっているのに。

そして、それから紫を意識的に使ったネイルにしてみたり、デザインに紫を使ったりしてみました。

いまも、無意識に「母が嫌がる」と思うことはあります。でも、意識にあがってきたということは手放せるということなのでしょう。

愛の循環は感覚

私的な話を書いてしまいましたが、愛を循環させるためには感覚的なことが大切そうですね。

少しずつ子どもの頃からのすりこみを手放せば、私の愛も循環するでしょうか?

そのために、まずは自分の好きなもの、心を動かすものを大切にすることですね。

今回の聞き耳は、このあたりで…



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