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【読み切り小説】凛と澄んで



 挽きたてのコーヒーの香りと、トーストが焼き上がる音。ぼんやりと目を擦り、曇る視界から見えるのは紛れもなく貴方だった。
「おはよう」
 要らないと言っているのに、朝ごはんはしっかり食べなさいと言い返される日々。母親でもあるまいし、私の健康にまで干渉してくるところは少し厄介だ。
「おはよ」
「ほら、はやく食べて。遅刻するよ」
 私の手元には、スマートフォンと単語帳。どちらが優先かと問われれば前者である。仲の良い女友達からのメッセージへの返信や動画サイトのチェック。女子高生はやる事が多いのだ。たとえ今日が定期考査の日だとしても。
「ねぇリク、朝ごはんはいらないって何度言ったらわかるの?」
「テスト中お腹が鳴るのとどっちがいい?」
「鳴らないもん」
「はいはい、文句言わずに食べなさい」
 何度も文句を重ねてはいるものの、貴方の作る朝食に敵う食事はないと思う。コーヒーには必ずお砂糖が二つとたっぷりのミルクが入っており、トーストにはいちごのジャムが既に塗られている。ジャムは貴方の手作りだ。何も言わずとも、私の好みを完璧に理解してくれている人など貴方しか居ない。そう信じていた。

「リナ」
 ふと私を呼ぶ声は愛おしく、何年も聞いてきた声であるはずなのに儚さすら感じる。トーストをかじり、漸く単語帳を開く私に近付く足音。今日はその音がいつに増して深刻さを帯びていた。
「別れようか」

 貴方の大きな身体と、涙を堪えた表情を背中に感じる。貴方の発する言葉は、私にとって驚くべき内容ではなかった。来るべき時が来たという感情になるだけであった。
 私たちは特段仲が良いわけではないが、喧嘩をしたことは殆どない。何年間も一緒に居るがゆえに、お互いのことは自分以上に知っている仲だ。

「そっか。因みに、理由は?」
「……好きな人ができた」

 全て予想の範囲内だ。先週の金曜日、家の近くの公園で女性と二人きりで過ごしていたことを私は知っている。その夜、顔を綻ばせながら帰宅した貴方を見て、遂に私たちの関係に終止符が打たれることを察した。
 貴方と私の年齢差は五歳。十七歳、女子高生の私。二十二歳、大学生の貴方。就職活動を終え、最近内定祝いをしたばかりだった。話を聞くと、その女性は内定先の同期だという。国家公務員になる貴方と彼女は、将来も安泰だ。素敵な出会い方で、寧ろ安堵の感情を覚える。
 それと比べて私たちはどうだ。大学生と高校生。お酒を飲める貴方と未成年の私。ピアスを開け、髪を茶色に染めている貴方と校則で何もできない私。さらに私たちの関係は脆いもので、お互いに好きな人ができたら終わりという約束のもとの交際だった。契約恋愛かと指を指されても致し方ない。そうは言えども、私は貴方のことを愛していた。きっと誰よりも。

「この家は?」
「え、一緒に住もうよ」
「別れるのに?」
「いや、だって元々は……」
「その女性は嫌がるよ」
「俺たちの関係は恥ずかしいものじゃない。それに、リナはまだ高校生なのに一人にしておけないだろ」
 貴方はわかっていない。私が貴方と一緒に居たくないのだ。他の女性のものになった貴方が平然と帰宅して、朝が来たら何事もなかったかのように私に朝食を作って、“行ってらっしゃい"と微笑むのだ。そんな残酷な日々を、私に強いるのか。

「そういう問題じゃない。もちろん私はここに残るよ。でも、リクは出て行って。まあ、お正月だとか、特別な日は帰ってきてもいいよ」
「そうか、そうだよね」
「今のアルバイト先だけだと金銭面で厳しいから、掛け持ちしようかな」
「お願い、水商売だけはやめて」
「それはどうかな。もう私に何も言えないよ、リクは。私を棄てるんだからね」

 何で貴方が残念そうに溜息をつくのだ。別れを切り出したくせに。私の生き甲斐を、私の全てを奪ったくせに。
「分かった。じゃあ、俺大学行くから。リナはちゃんとテスト受けに行って。それで……多分、今日は帰らない。夕飯は、一人で食べてくれる?」
「心配しなくても、私一人で生きていけるから」
 女子高生を一人にすることに罪悪感を感じているのだろうか。何か言いたげの表情を残して彼は去った。一人取り残された私は、カーテンを閉めてテレビをつけた。家を出るまであと二十分。朝食はこれ以上食べる気にならず、歯磨きをする気にもならない。勉強だって、まともにできていない。このまま試験を受けても無駄だ、と開き直る。

 唐突だが、私には両親がいない。厳密に言えば、父親は幼い頃、病気で他界した。母親は他に男を作って私の元から消えた。兄が一人いるが、もう近くにはいない。自立を強いられた私は、高校に通う傍ら法律事務所の受付に立ち、月に数万円を稼いでいる。私が水商売に走らないようにと、知り合いの職場を紹介してくれたのは貴方だった。更に、週に一回来る叔母からのお小遣いと、兄がアルバイトで稼いだお金が少しばかり私の元に入り、何とか生き延びている。ただ、そのお金は家賃や光熱費、携帯代に消えていく。辛うじて公立の高校に合格できたものの、部費やユニフォーム代を払うことすらできず、憧れのバスケットボール部に入る夢が叶うことはなかった。大学進学など、夢のまた夢だ。
 そんな孤独な環境の中、愛する人を失った。私の全てだった人。高校生という無力な自分には、貴方しかいなかった。これからどうやって生きていけというのか。
 スマートフォンを開くと、メッセージが入っている。
『ちゃんと、家出た?』

 ただ呆然と、無心でテレビを見ていたため家を出る時間はとうに過ぎていた。もう、試験には間に合わない。私は全てがどうでもよくなり、スマートフォンをソファに放り投げた。あの時見かけた二人の笑顔が頭を過る。私とは真反対の女性だった。こげ茶色の髪を綺麗に巻き、無垢のワンピースを身に纏う彼女。遠くからでも美人だと分かり、貴方が私以上に好きになる女性としては、申し分がなかった。きっと貴方は彼女と結婚をして、私はその式に呼ばれてしまうんだろうね。
 でも、彼女さんに一つ言わせてください。
 彼は、私と同じように両親が居ないのです。彼が悲しみに暮れていた時に支えていたのは私です。それと同時に、私と彼は長い間、二人で暮らしていました。同棲するということは、結婚前提でした。お互い両親が居ないから、結婚式はやらなくていいねと話していました。彼女さん、あなたは私以上に彼を幸せにすることはできますか? 彼の口癖だとか、子供の頃のあだ名だとか、ご存知ですか? 彼の名前の由来を考えたことはありますか?



 リナとリク。凛奈と凛空。私たちの名前にはお揃いの"凛"という字が入っている。貴方の名前には、「どんな境遇でも、凛と胸を張って空に羽ばたいてほしい」という由来があるそうだ。個人的には、大切な人と名前に共通点があることは大きな自慢だった。将来子供が産まれたら、男の子でも女の子でも名前にこの字を入れようねと、叶わない約束を交わしていた。
 ただ、貴方の愛しい名前をもう呼ぶことは無い。子供にお互いの名前を当てがう日も、永遠にやって来ない。そんなことを考えていると、貴方が帰宅する音がした。あの別れから一週間が経ち、着替えや荷物を取りに帰ってきたのであろう。私は無事再試験を受け終わり、新たな人生を迎え入れるために部屋の断捨離をしているところだった。貴方から貰ったお下がりの服に、昔からお揃いだったスリッパ。さようなら、私が世界で一番愛する男性。もう二度と貴方以上の男性に出逢うことはないでしょう。でも皮肉なことに、これからも私たちの縁は切れることがないんだね。

「お帰り、お兄ちゃん」

The end. 

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